翔陽
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そいつは傷口に塩を塗りにきたんだと思った。
週末に通う彼氏の部屋。しかしここのところはただただ作業のように訪れては部屋の片付けをしたり食事を作ったり洗濯をしたりしている様な気がする。以前はそれさえも愛おしいと感じてたのに、今は苦痛だ。
先日街で見かけた彼と、腕を絡める女性の姿。華やかで可愛らしい女の子だった。彼女に、見たこともないような笑顔を向ける彼を見て終わりを感じた。
洗い物を終え、手についた泡を流して自分のハンドタオルで手を拭く。
「もう、やめよう。」
その一言に彼が体を起こす。
「やめるって、何を。」
「この関係を。」
「なんで急にそんな」
「もういい、疲れた。私じゃなくてもいいんでしょ。」
「何言っ」
「女の子と会ってるじゃない、楽しそうでなによりだなーって。」
「おい!」
スプリングコートに袖を通し、鞄を持って靴を履いた。彼は慌てて玄関まで追ってくる。
「俺はお前が」
「うるっさい!」
「…なんだよ、お前こそ最近はうちに来たって作業みたいにメシ食って寝て帰るだけだろ!仕事も忙しくて全然会えねーし!」
「言い訳にしないで!私は腹が立った、傷付いた!」
楽しそうに歩いているのを見掛けるよりも、もっと早くから気がついていた。その度に傷付いて、けれどその傷を見ないふりして寛大な女を演じた。
でも。
その傷口はじゅくじゅくに膿んだ。
もうだめなの。
「バイバイ。」
合鍵をシューズボックスの上に置き、外に踏み出す。ドアを閉めるときに見えた彼の目は、喪失感でいっぱいだった。きっと、その浮気相手にもふられたのだろう。振り返らないで歩く。いい気味だ、なんて嘲笑うことも出来なかった。そのくらい情けなさで胸が苦しかったから。
夜道を歩く。終電は行ってしまっているし、見渡す限りタクシーも走っていない。タクシー会社の検索をしながら、始発まで待つか考えていたら、電話が鳴った。
『依紗、いまどこ。』
「健司?え、なんで?」
『俺いま飲み会終わってさ、でも電車ねーし。依紗ん家の近くだったから泊めてもらおうと思ったのに出ねーもん、彼氏ん家?』
「…今しがた別れてどうやって帰ろうか困窮してるとこ。」
つーか。
「彼氏いるってわかってて泊まりに来るのどういう神経なわけ。」
『幼馴染みのよしみ。』
「信じらんない。小学生じゃないんだよ私たち。」
『そう怒んなよ。』
「こんなとこで会うなんて奇遇だと思わねえ?」
後ろからした声に振り返る。受話器の向こうの男が、そこにいた。
「そんなこったろーと思って迎えにきた。」
「はあ?意味わかんない。」
「タクシー待たせてるから、早く来い。」
腕を掴まれ、引かれるまま歩く。タクシーに乗り込むと、健司の家の方へ向かっていく。
「ここからなら俺ん家のが近いから。」
「折角ならうちに帰らせてくれないかな…。」
「少し付き合え。」
その声にやや怒気のようなものを感じ、逆らうことができなかった。
「ふーん、あいつ浮気してたんだ。」
そもそも、彼は健司の紹介だった。私が誰でもいいから紹介してくれって頼んだら、じゃあこいつ、って感じで。
「別れて正解だったんじゃね?」
「ソウデスネ。」
「なんだよそれ。」
買ってもらった肉まんを頬張りながら、健司の事情聴取に応じる。こいつはこいつでピザまん食べなら缶ビールを煽った。まだ飲むんかい。
「どーせお前のことだからさ、知らないふりしてたんだろ。」
「はあ?」
「物分かりいい女演じるの好きだもんなー。」
「やめてよね。」
聴取なんて言ってるけど、結局愚痴を聞いてくれる健司に内心感謝しているところもある。残りの肉まんを口に放り込んで、飲み込んだ時だ。笑いながら、鋭い矛のような正論で突き刺してきた。
「そんな上っ面だけじゃ長続きするわけねーよ。」
一瞬、呼吸が止まる。
じゃあどうしたらいいのよ、私だってわかんないよ、よく思われたいのなんて当たり前じゃん、好きなんだから。一緒にいたいんだから。それの何がいけないのよ、どうして、
どうして、そんなこと言うのよ。
「…あ、おい、依紗っ、」
「そんなこと言わなくたっていいじゃん…。」
鬱積した感情が堰を切ったようにあふれ出す。収拾のつかない涙は、拭ってもあとからあとから流れてくる。
「私だってもうわかんないよ、好きなのにどうしてうまくいかないの、好きなのにどうしてつらいの、好きなのにどうして苦しくなるの、教えてよけんじ…。」
缶ビールとピザまんをテーブルに置き、慌ててタオルを押し付けてくる。
「…悪かったよ、そんなにアイツのこと好きだったなんて思わなくて。」
「好きだったのなんて遠い昔みたいだよ…もう何も感じない。感じないけど、」
傷口は膿んで熱を持ってひどく腫れ上がってしまって。痛くて痛くてしかたがないの。
「……くそ。」
「健司?」
「いい加減にしろよ、俺だってもう限界なんだ。」
「はあ?なにが、」
押し付けられたタオルが剥がされ、代わりに唇が押し付けられると、そのまま床に倒された。無理やり唇を割って、舌を差し込んでくるのがわかり、その唇に噛みつく。いってえ、と呟いて自身の親指で唇を撫でながら、離れていく。
「いきなりなにすんの!ふざけんな!」
「…ふざけてねーよ。」
健司は苛立った様子で小さく舌打ちをすると、もう一度顔を近づけてきた。
「なんでこっちみねーんだよ。」
「は…?」
「俺はずっとお前のこと見てんのに余所ばっかみやがって。」
「健司、どうしたの。」
「依紗のことが好きだっつってんの!俺は!ずっと!」
怒ったような声で、しかし切ない表情で言い放つと、もう一度唇が重ねられる。先ほどとは違い、緩やかに、優しく。
「そろそろこっち見ろよ…。」
私の耳元でそう囁いて、肩に顔を埋める。どうしていいか分からなくて、私はその背中に手を回す。
「俺なら依紗のこと全部愛せるのに。」
「…言ってくんなきゃ、わかんないよ。」
いまあふれる涙は、傷の痛みではなく、喜びに打ち震える胸の奥からのもので。涙と一緒にうんと穏やかな気持ちが湧き出てくる。
「言えるかよ、恥ずいだろ。」
体を起こしてこちらを見下ろす。頬を染めて、中学生みたいに唇を尖らせていた。
「…あーあ、もう全部忘れたい。」
「お、言ったな。任せとけって。」
「違う!そういう意味じゃないって!」
嬉しそうに服を脱ぐ健司を止められるはずもなく。
カサブタ
まだ少し痛む心は、
君と一緒にゆっくりと治していこう。