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まさか、そんなことって。
土曜の夜だった。依紗は仕事を終えて帰路に着く。ため息ひとつついて見上げれば星がいくつも瞬いていた。
(…明日休んだらまた月曜仕事か。)
閉店間近の客がまばらな小さな書店。購入した参考書。重くて余計に気持ちが折れそうだった。
高校を卒業してすぐに事務職として入社した今の会社。高校の専攻柄、CADが使えることが判ると人手不足だからと製図を任されるようになった。
最初こそそれが嬉しかったが、体は疲れるし手当てはつかないし土曜まで出勤する羽目になるしで散々である。気が付けば3年目の冬。
(そのうえ違うソフトも使えるようになって欲しい?ふざけるな。)
(…なんて毒付きながらも勉強するのは、なんで。)
心と体の矛盾に頭を抱える。思春期でもあるまいに。
何気なく雑誌が陳列されている一角を通り過ぎた時、横目に見えたバスケ雑誌。表紙におどる、母校山王工高の文字。
(ウィンターカップ、優勝したんだ。)
夏は残念な結果に終わったと聞いている。そんな余裕もなく、過ぎていった夏。自分がマネージャーとして所属していたあの年、全国制覇したのは今でも鮮明に覚えている。
嬉しそうに笑う、憧れたあの横顔も。
「……堂本監督。」
雑誌を持ち上げ、ぱら、とページを繰る。プレーのハイライト写真やスコア、そして山王工高現キャプテンの深津や監督である堂本へのインタビューなど。賞状を持って嬉しそうに笑う後輩たちは輝いていて可愛らしくて、…しかしそれが今は刺激が強かった。
(戻りたい。もう一度、あの人に会いたい。)
あの頃よりいくらか大人になったつもりでいたが、たったこれだけ、雑誌でその姿を見かけただけで目の奥が熱くなるなんてまだまだ子供な証拠だ。思い出にすがったって、今が変わるわけじゃない。
なのにその手はその雑誌を持ち上げていた。思い出にすがりたいわけじゃない、過去の亡霊につかまったわけでもない。これは、
(これは、私の意思だ。)
「すみません、これと一緒に。」
二度目の会計の途中、後ろから伸びてきた手が雑誌の上に専門書と紙幣を差し出した。依紗は驚いて動きを止めた。
響く低い声、逞しい腕、少したばこの匂いがした。よく知ってる。3年前とかわらない。
「驚いた。見たことのある横顔だと思ったら。」
こちらを見下ろすその人が微笑む。堂本はすぐに店員と言葉を交わして会計を済ませると、行くぞ、と促す。依紗は店員に礼を言うと慌ててその背中を追った。
「久し振りだな、徳重。」
「お久しぶりです。堂本先生はお変わりありませんか。」
「この通りピンピンしているよ。」
そう言って堂本は腕時計を確認する。依紗の方を見ると、夕飯は、と首を傾げた。
「まだです。これから帰って、」
「よかったら一緒にどうだ。ここで会ったのも何かの縁だ。」
「ご家族の方が心配されませんか。」
「生憎独り身でね。」
「…これは失礼しました。」
独り身、のことばに依紗はどきりとする。探りを入れたわけではない。昔から気にはなっていたけれど、誰ひとりとして口にしなかった謎が唐突に解明されて少々驚いただけだ。
「徳重こそ、こんな時間まで仕事か。ご家族の方が心配するだろう。無理して付き合うことはない。」
「生憎ひとり暮らしなもので。」
堂本の気遣いに、依紗は言い回しを真似て返す。すると堂本は笑いながら頷いた。
「そうかそうか。とはいえ、やはりあまり遅くなってはいけないな。」
そう言うと、歩きながら店を探した。
「こんな時間ではこんなところしか開いていないな。」
「私も21ですよ。社会人ですし居酒屋も来慣れています。」
結局大衆居酒屋に落ち着き、ジョッキを煽る。食事だけのつもりが、店内の雰囲気と店員の、ご注文は、という明るい声に、気付けばビールを注文する始末。
「ダメな大人だ。僕のようになってはいけないよ。」
「なにを仰るんですか。私はいつまでも先生を尊敬していますよ。」
くつくつと喉の奥で笑う堂本に依紗は首を傾げた。
「変わらないな、君は。」
「そうでしょうか。」
「あの頃と変わったことといえば、…何かあったのか?」
ジョッキを置き、メニューを眺めながら堂本は尋ねる。視線がメニューに落ちているのは気を遣ってのことだろうか、と依紗は俯いて顔を赤らめた。そんな気遣いに、胸が高鳴ってしまう。
(やっぱり子供だ、自分なんて。辛い時に、少し優しくされて絆されて。)
「……なにも。」
「徳重はどの部員よりも元気があったな。辛い練習に、部員が吐いても目を逸さなかった。力強く声を掛け、手際良く処理をして。気立ての良い子だなと思ったものだ。」
堂本はメニューから顔を上げ、目を細める。
「…辛い時に辛いと言えないのは、辛い。」
「話してみなさい。道を示すことはできないが、聞くことくらいなら出来る。」
その言葉に、堰を切ったように溢れる言葉たち。久しぶりの仕事以外のおとなの優しさに触れ、感情が揺らぐのはたやすいことだった。こんなにも自分のこころが脆くも崩れ去ってしまうなんて。依紗は涙だけは流すまいと懸命にこらえる。
話し終える頃には頼んだメニューも揃い、堂本は大きく頷いたあと、食べなさい、と食事を促した。
「これは、俺個人の意見だが。」
依紗はチャーハンを口に運びながら堂本の顔を見る。その目の奥に、静かに燃える青い火が見えた気がした。
「情だけで続けるのは辛かろう。辞めてしまうのも、ありかもな。」
しかしその目はすぐに穏やかに細められ、ふふ、と笑う。
「…よく頑張っているな。僕には真似出来そうにない仕事だ。道はひとつではないよ、徳重くらい真面目で勤勉なら、どこでもやっていける。」
そんな参考書を買うくらいなんだから、と付け加えて堂本は焼けた柳葉魚を頭から頬張った。
(………いつから、みられてた?)
依紗は照れて頬がまた紅潮したのを誤魔化すためにジョッキを傾けた。チャーハンを流し込むとくらりと目が回るような感覚に陥る。
「う…。」
「あまり急いで飲むものではない。」
師らしい堂本の言葉に俯く。
(どうしたら、あなたの隣にいられますか。)
憧憬なのか恋慕なのか判別のつかない感情が頭をもたげるたびに目の奥は熱く、胸は焼けるようにびりびりといたんだ。
「大丈夫か。」
「あ、はい。すこし回ったみたいで。」
「無理はするな。」
「はい。少しお手洗いに。」
依紗はそう言うと席を立つ。堂本は頷きその後ろ姿を見送ると煙草を取り出して火を付けた。肺に入れないように口に含み、すぐに吐き出す。
「……子供の成長は、はやいな。」
程なくして戻った依紗の姿を見て灰皿に押し付ける。
「気にしなくていいのに。」
「吸う方は気を遣うものだよ。」
「そういうものですか…。そういえば先生が吸っているところ、見た記憶があまりありません。」
「成長期の未成年の隣で吸うものではない。」
「左様で。」
「それに、僕はそんなに吸う方でもないし。」
「そうなんですか?」
「酒を飲んだ時や口寂しいときなんかは増えるけど。だから、まあ、最近は少し多いかも知れない。」
口寂しいとき?と依紗が首を傾げると、堂本は苦笑した。
「相手がいない時、かな。」
そう言うと、僕も手洗いに、と席を立った。依紗は堂本に恋人がいないことを察してひとつ息をついた。可能性はあるのにどこまでも絶望的な、恋と呼べるかわからない自らの感情に呆れてしまって。
堂本が会計を済ませて席に戻ると、テーブルに伏せる依紗の姿があった。その手には、空のグラスが。自分が頼んだはずのウイスキーがない。安いだけあるなと思って半分くらい残していたはずだ。まさか。
「……飲んだのか?徳重、大丈夫か。」
肩を揺すると、依紗が目を開け力なく堂本を見上げる。
「ごめんなさい、先生の飲んでいるものに興味があって。」
「謝らなくてもいい。それより、立てるか。そろそろ帰ろう。」
「はい…。」
依紗は立ち上がるがふらりとバランスを崩す。それを堂本が支える。
「…すまない、こんなになるなんて。」
「い、いえ。いつもはこんなにならないのに…。」
少し気が緩んだようです、と苦笑しつつ、なんとか歩く依紗の手を自身の肩に乗せさせる。
「先生、背が高いからちょっと…。」
「じゃあ、腕にしよう。つかまりなさい。」
「はい…ありがとうございます。」
「コート、羽織れるか。」
「えと…。」
「鞄、持つから。羽織りなさい。」
店を出てタクシーをつかまえると2人で乗り込んだ。依紗の家の場所を尋ね、堂本はドライバーにそれを伝える。
走り出して程なくすると依紗の頭が大きく揺れた。道を曲がるとそのまま堂本の肩に乗る。すっかり眠ってしまったかつての教え子の重みに薄く笑い、堂本は流れていく景色を眺めていた。
「…大丈夫か。」
「はい…。」
堂本は彼女を部屋まで送り届ける。なんとか依紗を起こしたものの、くったりと力の抜けた彼女は歩くこともままならず、仕方なしに鍵を借りてドアを開け、抱きかかえて、かかとに指を入れて靴を脱がせる。1Kの間取りの、比較的片付いた部屋の中に横たわるベッド。そこにおろしてコートを落とすと、ひとつ息をつく。
「せんせい…。」
「本当にすまない。こんなになるまで飲ませてしまって。」
「ううん、私がいけないんです、おとななのに。」
「僕から見たらまだまだ子供だよ。飲むものはあるかな。自分でできる?」
「はい…。」
「じゃあ、これで。」
「まって、先生、行かないで。」
「私、堂本先生がすき…。」
依紗の言葉に堂本は困ったように笑う。そして半身を起こした彼女の頭を撫でる。
「…それは違う。徳重は、少し参っているところにたまたま優しくされて安心してしまっただけだ。」
その言葉に依紗は首を横に振った。
「そんなことない!私は先生のこと、ずっと、」
「徳重、君が俺を先生と呼ぶ限りは、先生と生徒だよ。そこに男と女はない。」
そう言うと堂本は背を向ける。しかし手の中の鍵と書籍を見つめた後、もう一度振り返る。
「…鍵は、しめられる?」
「えっと」
「新聞受けもないな…。鍵、借りていくよ。日が昇ったら返しに来よう。」
「それって、どういう」
「タクシーを待たせているから行く。おやすみ。」
そう言って包装された書籍をテーブルに置き、ドアを開けて出て行く。鍵が閉まり、足音が遠ざかって行く。
依紗はそのままベッドに倒れ込む。
「また明日。……堂本さん。」
おとなとこども
明日が来るまでに、練習しておこう。
あなたを先生ではなく、
ひとりの男性として愛していると証明するために。