第十六話 一歩
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いつものように夕食を一人で済ませた恵は、自室でスマホをいじりながら過ごしていた。ナマエが寝るまでにはまだ時間がある。だが…昨夜の事を思えば、次の日も同じように医務室を訪れるというのも…どうなんだろうか。
—あんなに泣きじゃくるナマエは久しぶりだった。それこそ、小学生以来ではないだろうか。
〝………よしよし、大丈夫、大丈夫。〟
ナマエにねだられたとはいえ…勢いとはいえ。随分と小恥ずかしい事をしてしまった気がする。思わずスマホ画面をスクロールする手が止まった。思い出しながら頭を抱えた今の恵の顔は真っ赤である。
「よしよしって何だよ…子供か。」
誰に言うでもない独り言がポツリと漏れた。誰にも見られていなくて良かった——と思っているのは恵だけなのだが。昨夜の様子は、ばっちり家入に見られている。まだ、家入でよかったと言えるだろう。これがもし五条あたりであればどうなるか…想像するまでもない。
ナマエを起こしてしまった時、一時はどうなることかと思っていたが。今なら、あれでよかったと思える。きっかけがなかったのだ。いつまでこれが続くのかという不安もあった。ずっとナマエと会ったり話したりができなかったが、徐々に元に戻れる—そう思えた。
(まずは電話かメッセージアプリ…だろうな。)
—コンコン
何かメッセージでも送ってみるか—そんなことを考えていると、珍しく自室をノックする音がした。こんな時間に誰だろうか。パンダや狗巻はこの時間帯に訪れることはまずないし、来たとしてもこんなに控えめなノックはしない。なんだなんだと思いながらも、一応返事をする。
「—はい。」
「恵…。」
「っ!」
声を聞いた瞬間、恵の心拍数は一気に上昇した。…ナマエだ。本来のナマエであればお構いなしに勝手に入ってきていたが。さすがにそれはできなかったらしい。
そんなことよりも、昨日の今日で何かあったのだろうか。逸る心臓を落ち着かせつつ、冷静になれ、と頭の中で唱えながら。入り口に向かった。
扉を開けるとそこに居たのはやはりというかナマエで。就寝前なのか、楽そうな部屋着姿でやってきた。無防備なその姿に呆れつつもその来訪者に訊ねた。
「…どうした。こんな時間に。」
「いきなり来てごめんね。」
「いや、それはいいけど…何かあったか?」
「恵に聞いてほしい事があって…入ってもいい?」
「いや…おま……。」
「すぐ、すぐ終わるから!」
そういう事ではない。こんな時間にそんな恰好で男の部屋なんか訪ねるな。学習能力なしか。そもそもあんな事があったのに…など、言いたいことは山ほどあったが、おそらく意味がないだろう。信頼されていると言えば聞こえはいいが。嬉しいのか悲しいのかよく分からない感情の中、諦めた恵はナマエを招き入れた。
「はぁ…分かった。…入れよ。」
「ありがと。」
ナマエが部屋に入ってから、恵は扉を閉める前に何となく外の廊下を左右きょろきょろと見渡した。別にやましいことは何もないが、万が一見られていてもバツが悪い。そう、念のためである。
そうして恵が入り口の扉を閉めたその時—なんと後ろからナマエが抱き着いてきた。突然の事に思わず声を荒げた恵だったが。
「っおい!!」
「…………。」
「ナマエ?………どうした。」
「……………。」
今の恵にナマエの行動を咎めることはできなかった。…その体は震えており、怯えているようにも感じられたから。明らかに頑張ってそうしていることが嫌でも分かった。どうにかしたかったが…その背中の温もりに、無理矢理引きはがすことができないでいた。だから、恵は言葉で離れるよう伝える事しかできなかった。
「ナマエ……無理すんな。」
「…無理してない。」
「うそつけ。……震えてんだろうが。」
「違うっ。」
「違くないだろ。…いいから離れろ。」
「…やだ。」
「やだじゃねぇ。無理すんなっつってんだ。」
「無理してないってば!」
「ナマエ…いい加減に…」
いい加減にしろ、そう言おうとした時。後ろから回されていた腕に更に力が込められて、ぎゅうぎゅうに締め付けながらナマエが声を振るわせつつ言った。
「だって…恵だもん。」
「は?」
「恵だから、大丈夫だもん。」
「………。」
「こわく…ないもん。」
そういうことか、と恵は思った。ナマエはナマエなりに克服しようとしているらしい。やり方はどうかと思うが。それにしても、昨日の今日である。ナマエの心境の変化に恵の方が追い付けていない。まだ背中でよかった、と恵は思った。本人の意志とは裏腹に暴れまわる心臓。これが万が一正面からであればバレバレである。いや、そうでもない。こちらからは見えないがナマエはおそらく背中に耳をぴったりとくっつけているだろうから。恵も薄手の部屋着姿だ。完全にアウトである。
(どうしろってんだ…。)
その証拠に、背中で感じるナマエの体温と一緒に、恵に負けず劣らず暴れまわっているだろうナマエの心臓の鼓動がこちらにも伝わってきている。こうなればもうヤケである。恵は、自分の腹に回っているその震える手にそっと自分の手を重ねた。やはりというか、その手はビクッと反応を見せた。
「…ほら見ろ。」
「ちが…今のは、突然でびっくりしちゃっただけで…」
「焦るなって言ったよな。ゆっくりでいいって言ったよな。」
「うん…。」
「何真逆のことしてんだよ…。」
「だって…。」
そうして恵に抱き着いたままナマエが告げたのは、今後の事だった。たった一日で急展開である。焦るなと言った恵は、まだまだ先の事だろう、時間がかかるだろうと思っていた。それなのに。喜ばしいことなのに、恵の口から出たのは天邪鬼な一言だった。
「せっかちか。」
「だって、善は急げって…いうでしょ?」
「それにしても急ぎすぎ。」
「…だめ?」
「だめ……では、ない…。」
「ふふっ。」
くすくすと背中で笑うナマエに、恵はため息しか出ない。気づけば—ナマエの体の震えは止まっていた。
「…それで?いつまでこうしてんだ?」
「んー。」
「んーじゃねぇ。」
「…離れたくないなぁ。」
「お前なぁ…そういう…」
「ねぇ、恵。」
「あ?」
恵の心臓をつぶす気なのだろうか…こうやって恵を引っ掻き回す背中の少女は…さらに爆弾を投下する。
「明日も、明後日も寝る前にここに来てもいい?」
「…なんで。」
「リハビリ。」
「は?」
「ほら、もう震えてないでしょ?夜ちょっとだけでいいの。こうやって慣れていけばみんなとも普通に話せるようになるのも近いかなって。」
「…くっついたままで?」
「その方が落ち着くもん。」
「お前…まさかとは思うが…他の人にも同じことするつもりじゃないだろな。」
「さすがに先輩たちにはできないよ…。怒られちゃう。あ、でも悟くんとか建人くんならリハビリ付き合ってくれるかな?」
「……………。」
やはりというか…なんというか。先に聞いておいて良かった。そんなもの、断固阻止だ。五条あたりが聞いたら大変なことになるのは目に見えている。
「恵?どしたの?」
「…他の人には頼まなくていい。リハビリは俺が付き合う。」
「え、いいの?毎晩だとさすがに…」
「いいから。お前は気にすんな。」
「…そう?ありがとう。」
「あぁ。」
それから明日のことなど簡単に聞いて、ぐずるナマエを引きはがして自分の部屋へと帰らせた。明日はとりあえずまだ家入の元で手伝いをするらしい。
背中の温もりが消えて、寂しさ半分、安堵半分だった。というよりも、なぜかぐったりとした様子の恵は、ナマエを見送った後ふらふらとベッドに近付き、そのままダイブした。
「あーー…、もーーー……。」
——その日、恵がほとんど一睡もできなかったのは、もはや言うまでもないだろう。