第十五話 呪文
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高専に入学してから一ヶ月と少し経つが、これまでは何をするにも一緒だった。授業も任務も訓練も。ずっと一緒にこなしてきた恵とナマエだったが、あの日から……ずっと別行動が続いている。
ナマエは療養のため―といっても怪我は既に完治している。今は家入の仕事の手伝いや、真希と一緒に座学だったり、また時には新田と書類整理をしたりと、それなりに日々忙しくしていた。ちなみに、何をする時でも膝の上にはツカモトが鎮座している。修行は怠るな、ということらしい。その甲斐あってかナマエの呪力コントロールの精度は以前に比べてかなり上がっている。
夜に関しては… 。本人はもう平気だと進言したが家入の許可は降りず、寮の自室に戻ると言うナマエの意向は却下され、今も医務室の一番奥のベッドを一つ占領している状態である。
一方の恵だが―――そもそも二級術師である。最近では一人で任務を任されることも増え、合間にパンダたちと体術の訓練をしたり、時には授業も一緒に受けさせてもらったりしていた。
その間、スマホという文明の利器があるにも関わらず二人が連絡を取り合うことは一度もなかった。
だが、ずっと会っていないと思っているのはナマエの方だけであった。恵は、任務があった日でもどんなに訓練で疲れ果てても、夜になると必ずナマエが居る医務室を訪れていた。もちろん、事前に家入にナマエが寝たかどうかを確認してから。
その日のナマエの様子を家入から聞いて、しばらく医務室で過ごしてから自室に戻る。それが恵のルーティンになっていた。
そんなこんなで五月も半分を過ぎた。そして今日も、日課のように恵は医務室の扉を開く。
一言二言、家入と言葉を交わしパーテーションの奥へ。サイドテーブルに置かれ鼻ちょうちんを膨らませているツカモトをついジト目で睨んでしまった。いや、四六時中一緒に居るコイツに罪はないし、ましてや呪骸である。頭に浮かんだ思考を振り払うようにガシガシと頭をかいてから、ベッドに近付き傍のパイプ椅子にそーっと腰かけた。恵はいつもこの瞬間に少し緊張する。パイプ椅子はどうしてもその仕組みや素材からか、座るときに独特の軋み音がするからだ。今日もうっかり起こしてしまわないようにゆっくりと慎重に座ってからナマエを見た恵は、表情を暗くした。
(また…泣いたのか。)
薄ぼんやりとした照明の中、近付いたことでやっと気付いた。完全に照明を落とすことをナマエが嫌がったため、ベッドの付近は常夜灯に切り替えている。はっきりとは見えないが、心なしか眉を顰めた表情にも見えなくもない。だが、ナマエが泣いているのは今日が初めてではなかった。泣いているだけならまだましだ。酷い時は魘されて何かから逃げるようにベットで藻掻くこともあった。大人しく何事もなく寝ている事の方が少ない。
家入の話では、日中は比較的表情も明るく落ち着いているらしい。何かと忙しくさせて、誰かと一緒に居させることで考え込む暇を与えていないというのもあるが。こうして一人になると思い出すのか…眠ることで無意識になのか…こうなってしまう。
そんなナマエに恵ができるのは、涙を拭い、少しでも穏やかに眠れるようにと願う事だけだった。
「大丈夫。……大丈夫だ。」
何が大丈夫なのかと言われると言葉に詰まるが。それでも何度も、何度も呪文のように、言い聞かせるように。親指で目尻の涙を拭いながらごくごく小さな声で呟く。ナマエを起こしてしまわないように。
「んん……」
恵の声に反応したのか、顔に触れたせいか。ナマエの眉がピクリと動き、小さく声が漏れた。まずい、起こしてしまう、と慌ててナマエの顔から手を離した恵だったが、遅かった。
「あ……れ……?」
「…………」
まだ覚醒しきらない様子のナマエと目が合ったが、何と言っていいか分からなかった。何より、ナマエは会いたくなかったはずだ。焦りから何も言葉が浮かばない。
「めぐみ……ゆ、め……?」
「…………」
少し舌足らずな話し方をするナマエは夢と勘違いしているのか?このまま夢だと思われたままの方がいいかもしれない。恵がそんなことをぐるぐると考え込んでいると、恵の手に恐る恐ると言った感じでナマエが手を伸ばしてきた。
「ほんもの…だ…。」
「悪い…もう、帰るから…」
ナマエの手が自分に触れる前に、と恵は立ち上がろうとした。ナマエを怖がらせるために来たわけじゃない。それに…初めて拒絶されたあの日の事が恵の脳裏に過ぎった。また、拒絶されるかもしれない…。それを想像しただけで逃げ出したくなった。自分でも思った以上に堪えていたらしい。
「ま…って…!おねがい、待って…!」
少し掠れた声でナマエが引き留めた。そして、もぞもぞとベッドから起き上がりゆっくりと恵の方を向いた。完全に起こしてしまった。バツが悪そうな顔で恵は目を逸らしてしまう。
「あの、…久しぶり、だね。」
「あぁ…起こして悪かったな。」
「ううん。気にしないで。」
「……。」
「………。」
気まずい沈黙が続く。それもそうだ、二人が言葉を交わすのはあの日以来なのだから。常夜灯の明かりのみとはいえ、知らず知らずの内に視線を落としてしまった恵は今ナマエがどんな顔をしているのかが分からない。時間にしておそらく数分の沈黙のあと、先に声を発したのはナマエだった。
「ごめんね。」
「…お前は何も悪くないだろ。」
「そうじゃなくて…。あの時…せっかく助けに来てくれたのに…私は…暴れて…恵に……もしかしたら酷い事とか…言っちゃったかもしれない。ずっと、ずっと謝りたかったの。…ごめんなさい。」
「っ。」
思わず顔を上げた恵はナマエと目が合ってそのまま固まった。まさかあの日の事をナマエの方から話し出すとは考えもしなかった恵は息を呑んだ。それに、あの時暴れたのを覚えている事にも驚いた。咄嗟の事に対応ができない。普段の頭の回転の速さは一体どこへ行ったのか。ナマエを見つめたままの恵が何も言えずにいると、ナマエがそれに、と続けた。
「それにね、ずっと、任務にも…授業にも出られなくて…色んな人に、迷惑をかけてるのも…分かってるの。みん…なにも、あやまり…たくて、…ほんとは、早く…元の生活にも……もど…りた……いのに……、でも…でも……っ。」
だんだんと声が震えてきて途切れ途切れに話すナマエの目には今にも零れ落ちそうなほどに涙が溜まっているのが薄暗い中でも分かった。とても見ていられない状況に、恵は宥めるように声を掛けた。
「ナマエ……もう、いいから。無理して話さなくていい。」
「ずっ……と…、ッ……ヒック………ック………めぐ…み…に……あいたか………ったの……っ。」
「っ!ナマエ…。」
瞳に溜まった涙は瞬きと共についに零れ落ちた。しゃくりあげながら大粒の涙を流すナマエ。ずっと、自分には会いたくないと思われていると思っていた。それなのに、今目の前でボロボロと泣きながら自分に会いたかったと言う。恵は、今すぐナマエを抱きしめて腕の中に閉じ込めてしまいたい衝動に駆られた。だが、それはできない。きっと怯えさせてしまうし、嫌なことを思い出させてしまうかもしれない。それが怖くてできなかった。
「めぐみ…に、ック……あっ…て…っ。もう、………ウウッ……だいじょ…ぶ……だよ……って、もう……へい…き…だよ…って……ック……ヒック…、わらっ…て、…また…、まえ……みたい…に……ズズッ……っ。」
「……あぁ、戻れる。前みたいに。絶対戻れる。…だから、焦らなくていい。」
「ううっ……!」
できるだけ穏やかな声色で、ゆっくりと。落ち着かせるように、宥めるように、怖がらせないように。慎重にナマエに告げた。
「急がなくていい、だから、大丈夫だ。」
「っ!……ううぅぅぅっ…。」
「お前は、大丈夫。焦らなくても、ちゃんと待ってるから。大丈夫だ。…大丈夫。」
抱きしめられない代わりに、何度も大丈夫だと言った。そう、来る日も来る日も眠っているナマエに何度も言っていたように。ナマエに言い聞かせるように、そして自分に言い聞かせるように。
「ううっ…ヒック……めぐみ……ううぅ〰〰〰〰…!」
「…あぁ、大丈夫だから…。」
「うぅぅぅ〰〰〰…!」
落ち着くどころか更に泣き出してしまった。どうしたものか…。幼い頃であれば泣いているナマエには頭を撫でてやるのが一番効果があった。だが、さすがに今はマズいだろうか…嚙み殺したように泣き続けるナマエに困り果てた恵は、恐る恐る…ナマエの頭に手を伸ばした。そして、少し震えながら、そっと、ナマエの頭にその手を乗せた。
「っ!」
「っ悪い。」
「ごめ……だい…じょぶ…。」
一瞬ビクッとしたナマエに慌てて手を離した恵だったが。ナマエ自らその手を取り、震えながらもそのまま頭へと誘導した。
「グスッ……むかし、みたい……に、よしよし……って、して……」
「………よしよし、大丈夫、大丈夫。」
「うん……うん……グスッ………ズズッ…。」
そうやってしばらく頭を撫でていると、ようやく少し落ち着いたのか。鼻をすすりながらではあるが少しだけ顔を上げた。
「落ち着いたか…?」
「うん…ズズッ……ありがと…。」
その言葉に安堵した恵はそっと息を吐き、ゆっくりと手を元の位置に戻した。そして、近くのティッシュペーパーを数枚取り、ナマエに手渡した。顔は涙でぐしゃぐしゃだ。…もっと早く渡せばよかったが、もう遅い。
「夢じゃなかった…。」
「…あ?」
突拍子もないことを言い出すナマエに、恵からは思わず訝し気な声が出てしまった。マズいと思ったが、そんなことは気にしていない様子で、鼻声のナマエは続けた。
「…すごくこわい…夢を見てたの。ほとんど、毎晩。」
「…っ。」
「でもね、毎回どこかから『大丈夫』って声がして。何回も聞こえて。そしたら、そのこわい夢はすーって消えるの。」
「………。」
「恵だったんだね。…毎日、来てくれてたんでしょ?」
「………さぁな。」
秘密にしていたものを見られた時のような、隠していたことがバレてしまったような…どこかバツの悪い気分だった。おかげでぶっきらぼうな返事しかできない。
「…ふふっ。そっか。でも、ありがとう。」
「……。」
緩やかに少しだけ弧を描いたその口元に、その表情に。恵は釘付けになった。普段のナマエとは程遠いものの、それは、笑顔だった。実際は半月弱しか経っていないのに、笑った顔を何年も見ていなかったような錯覚さえ起こした。
「勇気が出せなくてごめんね。弱くて…ごめん。でも、もう『大丈夫』だよ。」
「だから…謝んな。お前は、何一つ悪くない。」
「けど…」
「謝罪禁止。」
「…えー…。」
久しぶりに、会話をした。目を見て話せた。それだけで、呪霊でも憑いていたんじゃないかというほどに重かった肩がものすごく楽になった気がした。
ナマエの心の傷が完全に癒えたわけではないし、時間はまだかかるかもしれないが、きっとナマエは戻ってくる。…そう思えた。
「さっきから言ってるだろ。焦んな。ゆっくりでいい。お前のペースでいい。それまで待っててやるよ。なんせお前は…『大丈夫』だからな。…俺が保証する。」
「…!うんっ。」
そっけない言い方しかできなかったが、ナマエにはしっかり伝わったようだ。
気付けば、早く寝ないと翌日に響く時間になってしまった。瞼をしっかり冷やす様に、布団は肩までかけるように……ハイハイ、わかったから…などなど、口うるさい母親と反抗期の子供のようなやり取りを経て、恵も自室に戻り眠りについた。
—その日、ナマエがいつもの悪夢を見ることは無かった。