ドルあんlog



 ◆◆◆


 私は日和先輩に呼び出され、指定された場所にやって来た。

 そこは普段来る事のない場所。人気もなく、私と先輩の二人だけだった。

 季節は八月上旬。平年よりも長かった梅雨も明けて、すっかり夏本番を迎えている。

 そんな猛暑の斜陽に向かうように立っていた先輩は、私に気が付いて振り向く。


「あんずちゃん、ごめんね。急に呼び出したりして」

「いえ、どうかしたんですか?」


 私は何気なく訊ねる。そこにいつもの太陽のような日和先輩の笑顔はなく。


「実はね──もう、この関係を終わりにしたいんだよね」


 そう、一言だけ言い放たれた。

 一瞬では何を言われたのか理解出来ず、思わず硬直してしまった。

 この関係を終わりにする。つまりは恋人としての縁を切りたい、という事?


「……私、日和先輩を傷つけるような事しましたか?」

「うん。だって、あんずちゃんは×××××だから」

「え? 今、何と?」


 視界がぐにゃりと歪む。同時に聴覚も途切れてしまった。

 そのせいで重要な部分が上手く聞き取れなかった。すぐに聞き返したが、先輩は黙したまま。

 ただ、その時の日和先輩の顔はしばらく忘れられそうにない。

 目を伏せ、まるで何かを重く悩んでいるかのような。そんな暗い表情だった。

 こんな日和先輩は初めて見る。本当にどうしてしまったのだろう。

 私は、懸命に記憶を遡って自分の落ち度を探る。でも、明確に思い当たる節はない。

 もしかしたら、普段から愛情表現しなかったのが良くなかったのだろうか。

 日和先輩はいつも進んで愛情表現を示してくれるけれど、私はいつも受け身でいたから。自ら先輩に愛情表現を示した事は数えられる程度しかしていない。それが、どこかで日和先輩を傷つけてしまっていたのかも知れない。


「先輩……待って下さい、私は──」



 どんなに手を伸ばしても、どうしてか近くにいるはずの先輩に届かない。

 どんどん距離は離れていき、先輩は斜陽の光に飲み込まれていく。

 その燃えるような色の眩しさに、私はぐっと目を瞑ってしまった。



--*--*--*--



「……ってください、私は、まだ……」

「あんずちゃん」


 その聞き慣れた甘く柔らかな声音にはっとして、目を覚ました。


「………ゆ、め……?」

「随分とうなされていたよ。大丈夫?」

「…………」


 ゆっくりと記憶を手繰り寄せていく。

 今日は私の家に日和先輩がお泊まりに来ていて。

 いつもならひとりで眠るシングルベッドに、今日は二人で寄り添うように眠っていて。

 狭くも愛おしい熱帯夜を迎えていた中での、あの悪夢だ。

 私はあの出来事が夢だと理解した瞬間、溜まっていた涙が一気に溢れて流れた。

 日和先輩は突然泣き出した私にかなり驚いていたけれど察してくれて、ぎゅっと私を優しく胸で受け止めてくれた。

 気持ちが昂ぶって、嗚咽を漏らす。先輩はそれでも頭を撫でてくれる。


「大丈夫、もう怖くないよ」

「……っ、ごめんなさい……ごめんなさい」

「どうして謝るの? もしかして、夢の中で何かあった?」

「……実は」


 私は夢の一部始終を日和先輩に話した。最後まで真剣に聞いてくれたけれど、その後に彼はくすくすと笑って。


「ぼくがあんずちゃんに別れを告げる? そんな事は絶対にありえないね!」


 いつもみたく太陽のような笑顔を見せてくれる。ああ、そうだ。これが、今私が一番欲しいものだ。

 夢の中の日和先輩が一向に見せてくれなかったものを、現実の日和先輩は魅せてくれる。

 そう思うと、彼への愛おしさが以前よりも増していく。私は自然と笑みを零していた。


「うん。やっぱりあんずちゃんは笑った顔が一番だね、良い日和……♪」



 月明かりの見える窓から涼風が吹き抜ける。その瞬間に、私は日和先輩の頬にに手を添えて。


「あんずちゃん?」


 きょとんとする彼に、慣れないながらもそっと口付けた。

 私からするなんて、正直言って初めてかも知れない。そのくらい、いつもはしてもらう側で。

 恋は、お互いに愛さなきゃいけないのに。育むのはすごく時間が掛かるけれど、崩れ去るのはほんの一瞬だから。

 あの悪夢は、もしかしたらそれを教えるためのものだったのかも、なんて。

 唇を離して、日和先輩を真っ直ぐに見つめる。


「今夜は、私から愛させて下さい。いつも、先輩に頼ってばかりなので」
「ふふ。それはとっても楽しみ、だね」


 言って、日和先輩は優しく、楽しそうに微笑んだ。



--*--*--*--



 あんずちゃんが悪夢を見たらしい。どうやら、ぼくに別れを告げられる夢を。

 そんな事、絶対にありえないのに。ぼくはあんずちゃんが愛おしくてたまらなくて、もっと傍にいたい。

 万が一、いや兆が一、あんずちゃんがぼくを拒んだとしても、ぼくはきっとその手を、その心を離す事はないね。

 きみはもうぼくの仕掛けた罠の真っ只中にいて、そこから逃れる事なんて出来ないんだよ?

 唯一無二の、ぼくの大切で可愛い恋人。これ以上に、ぼくからの寵愛を受けられる子はいないだろうね。


 悪夢を見た後のあんずちゃんは、すごく積極的だった。

 普段は受け身で、ぼくからの愛情表現を恥ずかしがりながらも受け止めてくれているけれど。

 今晩は自らキスをしてくれたりして。悪夢を通して、彼女の中で何かしらの変化があったみたい。

 今も、彼女はぼくに深く、濃厚なキスを与えてくれている。それが、どうしようもなく嬉しくて。


「ん……あんずちゃん、本当に今晩は積極的だね?」

「……別れを告げられて、思ったんです。日和先輩はいつも愛情を注いでくれるけど、じゃあ私自身はどうなのかって」


 私はいつも受け取る側で、与えていないって。恋はお互いに愛さなきゃ成り立たないのに。

 そう言って、彼女はまたぼくに軽く口付ける。


「そうだね。ほんのちょっとだけど、確かにあんずちゃんからもしてくれたら良いのにって思う事もあったね」

「私、日和先輩に甘えてたんです。先輩なら私を愛してくれるから大丈夫、って」

「まぁ、それに間違いはないけどね?」

「でも、それじゃダメなんです。私も、行動で示さないといけないって」


 あんずちゃん、どうやら今回の悪夢で相当堪えたみたい。

 そんなにぼくに別れを告げられるのが苦しい事なんだね。それが分かっただけでも、ぼくは嬉しいよ。

 彼女に愛されていない、なんて事はぼくに限ってありえないけれど、言葉にされるとやはり違う。

 あまり口数が多くないあんずちゃんだから、尚更かな。

 あんずちゃんはぼくの両肩を押さえて、ベッドに押し付ける。

 普段はぼくがそちらの立場なんだけど、あんずちゃんが行動で示してくれるなら。

 ぼくは喜んで、それを受けるよ。


「あの」

「ん、どうしたの?」

「首辺りに痕、付けても良いですか?」


 頬を紅潮させ、ばつが悪そうに顔を背けながら彼女は言う。

 僕は思わず、吹き出して笑ってしまう。


「な、何がおかしいんですか……」

「いや、可愛いなって思っただけだね」

「……っ」

「良いよ。あんずちゃんには何をされても構わない」


 ぼくがその気になれば、形勢逆転だって簡単に出来るけれど。

 それよりも、今の彼女の思いを無碍にはしたくなかった。

 だからぼくは目を閉じて、彼女に身を委ねた。



--*--*--*--



「結局、日和先輩が主導権を握ってしまうんですね」

「上の者が主導権を握るのは当然だね?」


 秘め事の後、ぼくとあんずちゃんは二人で向かい合ってベッドに寝転んでいた。

 初めこそ、あんずちゃんが健気に頑張ってはいたけれど。

 ぼくもこんなに愛されているのに何もしないなんて事は出来ないから、我慢しきれずに立場を逆転させた。

 まぁ、端からあんずちゃんばかりに愛させるつもりはなかったんだけど。


「……、です」

「え、何か言った?」


 聞き返すと、あんずちゃんは十数秒黙ったままだった。

 だけど、意を決したように一言。


「日和先輩、好きです」


 ぼくは少しばかり驚いてしまった。

 そういえば、あんずちゃんから『好き』って言われたの、今回が初めてかも。

 彼女のこういう純粋な想いが、どうしようもなく愛おしくて。だから、手放したくないんだよね。


「うん。ぼくもあんずちゃんの事、愛してるよ」


 言って、ぼくは彼女の額に自らの額を合わせる。

 あんずちゃんも可笑しくなったのか、お互いに笑い合った。


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