ドルあんlog
◆◆◆
今日も、彼女はあの男に抱かれているのだろうか。
十月末の午前二時。ぼくはそんな事を考えていた。
今年の秋は平年よりも短く、来週には最低気温が一桁になるらしい。
今日にはハロウィンで盛り上がり、明日には一気に世間はクリスマスに色が変わる。
この夜が明ければ、また彼女──あんずちゃんに会える。それだけが本当に楽しみで。
だけど、不服な事にあんずちゃんには長年交際している彼氏がいる。
ぼく以外の、どこの馬の骨かも判らない男。中学の時から付き合っているらしく。
ぼくと知り合う前から、恋人がいるなんて。
「気に入らない」
ぼくはそう独り言ちる。今まで何でも手に入れてきたぼくなのに、彼女だけは届かない。
どうして? ぼくはこんなにも想っているのに?
そんな魅力の欠片もない男のどこが良いの?
ぼくの方がきみを幸せにできるよ。
だから、こっちにおいで?
だけど彼女は「すみません、彼に悪いので」とぼくの告白をやんわり断った。
先日の、昼下がり。脳裏に焼き付いた、嫌な出来事。
そんな男、ゴミ箱に捨ててしまえばいい。
なんで、なんでぼくを選ばないの。なんで、そんな男に拘るの。
なんで、なんで、なんでなんでなんでなんでなんでなんで。
意味が分からないよ。なんで、そんな貧弱な男をきみが好きなのか。
「……気持ち悪い」
あの男が今日も彼女を満足そうに抱く姿を無意味にも想像してしまい、顔を顰める。
あんな男、消えてしまえばいい。そうしたら、あんずちゃんはぼくの所に来てくれる。
あの男を、どうにかして。
◆◆◆
十二月初旬。彼女が、あんずちゃんがぼくの家にやって来た。
「すみません、無理にお邪魔してしまって」
「ううん、全く問題ないね! さぁ、どうぞ」
「お邪魔します」
あんずちゃんは恭しく頭を下げると、玄関から部屋に移動する。
「さすが、広いですね」
「そう? 実家はこの部屋の何十倍も広いから気にしてなかったね!」
「はぁ、さすがは財閥のご子息ですね」
あんずちゃんがこんなにも近い距離にいる。なんて幸せなことなのだろう。
約一か月前ではあり得なかったけれど、今となってはそれも過去の話だね。
ぼくはあんずちゃんのために買っておいたティーセットを準備して、リビングに上機嫌で向かう。
「あんずちゃんのために用意しておいたお茶だよ。存分に堪能するといいね」
「ありがとうございます、いただきます」
お行儀の良いところもとても可愛い。彼女は両手でカップを持つとふうふう、と熱を冷ます。
「あんずちゃん、もしかして猫舌?」
「はい。かなりの」
「ふぅん」
ぼくは興味深そうに前で両手を組んで、その上に顎を乗せる。
「巴先輩は大丈夫なんですか?」
「紅茶は熱めの方が美味しいからね、平気だよ」
「そうなんですね」
ああ、『巴先輩』なんて他人行儀な呼び方しないで。いっそ、下の名前で呼んでくれてもいいのに。
彼女はそんな気も知らないで、ゆっくりとカップを傾ける。
「美味しいです」
「そう、なら良かった」
なんて平和な世界なのだろう。このまま、彼女をぼくとの世界に閉じ込められたらいいのに。誰にも邪魔される事のない、二人だけの世界に。
「……あ」
あんずちゃんはスマホに目を遣ると、一瞬だけ目を煌めかせ
た。
──この感じ、もしかすると。
心臓がドクドク、と、ぼくの血液を強く押し流す。
ぼくは嫌な予感がしたけれど、何とか平静を装って彼女に訊ねる。
「彼氏から、かな?」
「はい。私が今どこにいるのか、気になっているようで」
ああ、あの男はどこまでもぼくの邪魔をするつもりなのか。彼とは実際に対面した事はなく、あんずちゃんと一緒にいるのを見かけた程度なんだけれど。それすらも嫌悪感を抱いている。ぼくのあんずちゃんなのに。あの男はさらりとあんずちゃんを攫っていく。全く、忌々しい。
「お返事、してあげるといいね」
「はい」
本当はあの男に返信なんて、許したくはないのだけれど。あんずちゃんのこんな幸せそうな顔を目の前で見られるのなら、その程度、どうって事ないね。
「はい、お待たせしました」
「本当に彼氏が好きなんだね」
「はい。ひとりぼっちだった私に、優しく話しかけてくれたんです」
「へぇ」
そこにいたのがぼくだったならば。今君の隣にいるのは、ぼくのはずなのに。
どうして、どうしてその男を選んだの。ねぇ、あんずちゃん。
「でも、最近会ってはくれないんです」
「会ってくれない?」
ぼくは首を傾げる。
「連絡はくれるんです。でも会いたいって言ったら、それはできないって言われて……」
あんずちゃんは哀しそうな目でそう言った。そんな男、さっさと切ってしまえばいいのに。でもきっとあんずちゃんは優しいから、自分に非があるのではないかと思っているんだろうね。
「あんずちゃんは悪くないよ」
「どうして、そんな事分かるんですか?」
「だって、あんずちゃんが彼にひたむきなの、ずっと見ていたから」
にこり、と笑って見せる。だけど、あんずちゃんは表情を強張らせてぼくを見る。
「え、と。巴先輩」
「なぁに?」
「どうして、そのスマホ……」
彼女が指した先には、スマホが一台。もちろん、あんずちゃんの物ではない。
「ああ、これ?」
「だって、そのスマホ、彼と、同じ」
「うん。だってこれ、彼のスマホだからね」
あんずちゃんは目を見開いて硬直する。まぁ、普通はそんな反応するよね。
「待って、待ってください。じゃあ、今メッセージを送ってきたのは」
「うん、その予想は合ってるよ。メッセージ送ったのは、ぼく」
あんずちゃんは更に驚いて、というよりは恐怖して後退る。
「なん、で、先輩が彼のスマホを持って……」
「知りたいよね?」
ぼくはテーブルから立って、あんずちゃんに近寄る。あんずちゃんはどんどん後退って、遂には逃げ出そうとしたけれど。この部屋、既にロックが掛かってるんだよね。
「なんで、なんでですか、巴先輩。こんな事する人じゃないって思ってたのに」
「なんでって、聞きたいのはこっちだね? どうして、あの男に拘ってるの?」
言いながら、ぼくはガチャガチャと無理矢理に扉を開けようと頑張っているあんずちゃんに近づいていく。彼女にとっては、ぼくはもう恐ろしい人間にしか見えていないだろうけど。
「か、彼はどこです!?」
「別部屋で大人しくしてもらっているよ。かれこれ一か月くらい、ね」
十月末の午前二時。ぼくはあの男が疎ましすぎて、どうにかしたいと思った。
翌日の夜、ハロウィンでさぞかし彼女と楽しんだであろう所を、ぼくは攫った。
彼を攫い、でも完全に消息を絶ってしまうと怪しまれるので、メッセージアプリでの連絡だけは毎日欠かさず、彼になりすまし、やりとりするようにしていた。
彼女とのやりとりの時間は、至福のひとときだった。
ぼくとのやりとりでは絶対に話さないこともたくさん聞けたから。
でも、同時に聞きたくないことも知ることになってしまった。こんなにも、あんずちゃんは彼に依存しているのかと思うと、あの男への恨みや妬みは募っていくばかりで。
「来ないでください、お願い、来ないで!!」
そんなに怖がらなくてもいいのに。怯えているあんずちゃんも可愛くて、好きになれそう。
彼女の後ろに立つ。ぼくは扉を壁にしてあんずちゃんを逃げないように両手で閉じ込める。
「やめて、ください……」
「あんずちゃんがいけないんだよ。ぼくよりもあの男を選んだりするから」
言って、ぼくは彼女の耳に軽く口づける。
「や、だ……」
「ぼくのいうこと聞いてくれたら、彼を解放してあげてもいいよ」
「……」
あんずちゃんは黙り込む。きっと何を言われるのかも悟ってしまっているのだろう。でも彼を解放したければ、この案は飲むしかないと思うよ。
「仮に言う事を聞かないって言ったら、巴先輩は私を逃がしてくれるんですか?」
「良い所に気が付いたね。答えはノーだよ。どちらにしても、あんずちゃんを逃がすなんて選択肢はない。きみが選べるのは、彼を無事に帰すか否か」
「私が先輩を受け入れれば、彼を開放してくれますか?」
「それだけは約束してあげるね」
「……」
あんずちゃんは再び考える。きっあの男の事を考えているんだろうね。なんて優しいのだろう。そう思うと、ぼくはどれだけ残酷な選択肢を、彼女に与えているのだろう。
でも、あんずちゃんがあの男を手放しさえすれば全ては解決する。彼は無事に帰してあげるし、あんずちゃんはぼくからの寵愛を一身に受けることができる。これ以上の幸せを選ばない道はないね。
「わかりました。巴先輩の仰る通りにします」
ぼくは満足そうに口端を上げた。ああ、これで彼女はぼくのもの。
あの男の薄汚い手じゃなく、ぼくの手を取ってくれる。
もう、永遠に離さないからね。
◆◆◆
「……あんず、いるのか?」
あの男を閉じ込めている部屋。ぼくが入ってしばらくすると、そいつはそう訊いてきた。
「きみごときの貧弱な男があんずちゃんを呼び捨てにするなんて、烏滸がましい」
不快なものを見るように見下す。この男を視界に入れるだけでも吐き気がする。さっさと外に帰さないとね。
「頼む。あんずに、一度だけでいい。会わせてくれ」
「聞こえなかった? きみのような男があんずちゃんの隣に居ること自体がおかしいね」
「……」
「それに、きみはもうあんずちゃんには会えないよ」
「どういう、ことだ」
「あんずちゃんはぼくのものになってくれるって約束してくれた。きみは見放されたんだよ」
「そんな、あんずがそんな事……!」
あり得ない、と男は驚いている。その呟きにイラついて、ぼくはわざ
とらしく溜息を吐く。
「きみ、相当頭が悪いみたいだね。あんずちゃんを呼び捨てにするな、って言ったよね?」
「……」
「ぼくがきみに手を出さないうちに、さっさと出て行ってくれる?」
言うと、男は立ち上がり、ぼくの胸倉を強く掴む。
「……この、貴族野郎」
「負け犬の遠吠えにしか聞こえないね、ご苦労様」
どんなに蔑まれても、彼女自身がぼくの言う事を聞いてくれると言ってくれた。手段はどうであれ、彼女を手に入れたのはこのぼく。元彼氏の負け犬はさっさと家に帰るといい。
男は黙って、部屋を去ろうとする。
「玄関までは案内してあげる」
だけど、途中で突拍子もない行動をされても困るから、家を出るまでは手首の鎖は付けたまま。何だか囚人みたいでいい気味だ。
「ちなみに、今後もあんずちゃんに近づこうものなら、容赦なく制裁を加えるから」
「……お前、本当に最低だな」
「最低なのはどっち? あんずちゃんを独占して、さぞかしいい気分だったんだろうね?」
「あんずは、お前なんか好きにはならない」
「何とでも言うといいね。あんずちゃんはぼくが幸せにする」
「……あんずが、可哀想だ」
こんなぼくに好きになられて。迫られて。
本当に可哀想だね、あんずちゃん。
◆◆◆
「彼氏、大人しく帰ってもらったよ」
「そう、ですか」
あんずちゃんの目に涙が浮かんでいる。そりゃあ、そうだよね。あんなに想っていた彼氏に別れも告げられず、ぼくのものにされるんだから。
「私、何をされるんですか」
「何をされたい? あんずちゃんが願う愛し方をしてあげる」
そう優しく言ってみるけど、あんずちゃんは目を伏したまま。涙も拭かずにそのまま流して、ぼーっとしている。ぼくはあんずちゃんの涙を、そっとハンカチで拭き取る。
「泣かないで」
しばらく見守っていると、あんずちゃんはどこかで哀しみが爆発してしまって、溢れる程の涙を流し、嗚咽を漏らした。あの男から引き離されたのが、そんなに哀しいの。ぼくと一緒にいることより、あの男を想う方がいいの。
「あんずちゃん」
そっと、頬に触れようとする。だけど、彼女はそれを拒んだ。
「彼以外の男(ひと)に、触れられたくありません」
あんずちゃんはどこまで、あの男に侵されているのだろう。可哀想に。少し無理矢理ではあるけれど、あんずちゃんの意識をあの男から遠ざけないと。
ぼくはいけない事だと判っていながらも、あんずちゃんを押し倒し、覆い被さる。
「……っ! 先輩!?」
「ごめんね、あんずちゃん。無理矢理になんて、本当はしたくないんだけど」
言って、ぼくはあんずちゃんの首筋に顔を埋め、痕を残す。
「やめて、やめてください……! 私はこんな、こと」
「望んでないって? ぼくは望んでるよ、あんずちゃん」
一旦、あんずちゃんの首許から離れる。彼女は怯えていた。
「なん、で。なんで、こんな」
「ぼくは、あんずちゃんの隣にいたいんだ。ただ、それだけ」
「それだけのために、一か月も彼を閉じ込めていたんですか……?」
「そうだよ」
ひどく、軽蔑されるように、彼女の表情が引き攣った。
これは、嫌悪されているんだね。自分を好きな男が、自分が好きな男をひどい目に遭わせた。しかも、一か月も彼になりすまして自分と連絡まで取って。
理解しているよ。あんずちゃんがこれを機にぼくをもっと嫌うことも。この部屋から一歩でも出られると判った瞬間、きみは外の世界に助けを求めに行くことも。
だから、ぼくはきみをこの部屋から出すつもりなんてない。
ぼくは彼女のワイシャツを肩まで捲る。その肩は華奢なもので。
「ぼくだけのものだって、傷痕を付けなくちゃね」
言うと、ぼくはあんずちゃんの肩に噛み付く。彼女が痛い、痛いと泣き叫ぶ。それでもぼくは止めず、皮膚から血液が溢れ出す。
これで、しばらくこの傷は消えないだろう。治るのにも時間が掛かるように、深く噛んだ。
あんずちゃんの顔はぐしゃぐしゃに濡れている。でも、もうこれでぼくをただの先輩のアイドルだなんて、思わないよね。
ぼくはあんずちゃんの視界を手で覆う。涙の冷たさと吐息の温かさが同時に伝わってくる。
「もう、ぼくしか見えなくなるから。誰にも邪魔させないね」
言って、部屋の照明を消す。十二月初旬の午前二時。
霞む月明りの下、ちらちらと雪が降り始めた夜。
ぼくは彼女を、今日から独り占めする。
もう、逃がすことはない。