短編集
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
じりじりと煩わしく思える蝉の鳴き声の奥、上の階から聴こえる合唱とピアノの音に耳を傾けてどれくらい経っただろうか。頭を預けたコンクリートの冷たさと、湿った肌を撫で去っていくそよ風が心地良くて。とても動く気になれやしない。
良い季節だ。じっとりと暑くて、すぐに汗をかいてしまうし強すぎる日照りは容赦なく肌を焼くけれど。それも、もうすぐ終わってしまうと思えば寂しく感じる。
「いつまでそこにいんだよ。」
穏やかな時間に終止符を打ったのは、唐突な乱入者の声。正体を見るために、閉じたていた五感のひとつをパチリと開ける。
「…鳴海君は、サボり?」
「は、じゃなくてお前もだろ。」
ブスッとした表情で私を見下ろす彼は陽射しの下に立っていた。目に見えて汗を掻いている彼はこの校舎裏に、私が座るこの日陰の壁際に用があるらしい。
「私は違うよ。君と違って放課後ちゃーんと用事があるから、今日の練習には参加しなかったの。」
「ならさっさと行けばいいだろ。そこは僕の特等席だ。」
地べたに席も何も無いだろうに。やれやれと立ち上がって制服のスカートについた土を払う。
「私くらい忙しいと、ちょっとくらい休憩も必要なの。部活にも入ってない君とは違うんだよね。…1回くらい練習行ってみたら?」
「…文句あんのかよ。」
「無くはないけど。そんなだから嫌われちゃうんじゃない?」
合唱コンクールは来月だ。委員会と塾と部活。二足ならぬ、三足のわらじの私からすれば万年帰宅部の鳴海君は遊びたい放題。クラスで浮き気味の彼が、放課後の練習すら出なくても何も言われやしないだろうが。よりイメージが悪くなるのは深刻である。
「余計なお世話だね。僕は自分のしたいようにする。」
「ほんと我が強いんだから〜…じゃあ、遺憾にもサボり魔から怒られたちゃったことですし。そろそろ行くとしますか。」
練習に参加しなかったのは放課後に塾があるからだけど。予定時刻はとっくの昔に過ぎていた。憂鬱だけど行かないと、そろそろヤバいかも。
「良いタイミングに来てくれたね。ありがとう。」
鳴海君に声をかけられなければ終わる頃までここにいたかも知れない。なんせ、離れがたい程の風物詩だ。疲労と億劫さで重い腰を上げるには、些か環境が出来上がりすぎている。彼は私がいた場所に腰を下ろすと、携帯ゲームをいじり始めた。わざわざ此処を指定せずとも、離れた場所も空いているのに。呆れたことだ。
「ばいばい鳴海君。また明日ね。」
「…ん。」
笑顔で手を降っても返ってくるのはおざなりな返事だけ。いつもの事だと気にせずに、スクールバッグを肩に掛け直して駐輪場に向かった。
「△△さん!?どうしたのそれっ…」
「あはは…ちょっと転んじゃって。」
頬に貼られた大きなガーゼは誰の目から見ても、大仰に映ることだろう。朝のホームルームが始まる5分前には必ず教室に来る担任の教師が、入口を潜って早々告げたセリフは挨拶ではなく私への心配だった。登校時間が被ったのが良くなかったかもしれない。ざわつく教室の視線が大きな声につられてチラチラと此方を向く。少し話してから自分の席について、ようやくひと息入れる。
「…チャリでコケたのか?」
「まー…そんなとこ。おはよ、鳴海君。」
1番後ろの窓際の席が私で、その隣は鳴海君だ。真面目な学級委員の私の隣に据えられた問題児。私が面倒をみるだろうという担任の目論見は大正解で、しょっちゅう机をくっつけて教科書を見せている。ノートくらい持ってこいっての。これでテストの成績は常にトップなのだから腹立たしいことこの上ない。
「1限、数学だけど。」
「無い。」
「…もう、しょうがないな。」
出席確認の点呼を聞きながら小声で問うが、今日も今日とて彼はいつも通りだ。変わる気も無いのだろうと鞄から教科書類を出して準備する。
「大袈裟に転んだにしては、腕とか膝は無事だったんだな。」
切り離されたみたいに、音が遠くに聞こえる。ペンケースを出そうと、鞄を覗いていた視線を上げる。鳴海君は静かな目でこっちを見ていた。何か言わなくちゃと思ったけど、上手く言葉を選べなかった。選択を選びきれないまま、薄く唇を開いた。吸った息がやけに冷えている。
「△△さん。」
「っ、はい。」
名前を呼ばれて慌てて返事をすると、徐々に周りの音が戻って来る。遠く離れた世界に帰ってきた心地。それに安堵しながら口を動かすと、いつものようにすんなり喋れていた。
「不幸中の幸いだね。顔から突っ込んだにしては悪くないんじゃない?」
「んなわけあるかよ。傷が残ったらどうすんだ。」
途端に嫌悪を示した彼に思わず微笑む。
「へー…鳴海君って案外優しいんだね?」
「別に、そういうつもりじゃ…」
「あはは、照れるな照れるな。」
なんだ、反抗期のくせして素直な面もあるんじゃないか。憎まれ口を叩く姿ばかり見ているからか、良いところを発見出来て素直に嬉しくなる。これが出来の悪い子ほどなんとやら、っていうやつかな。
今日は放課後、いつものように練習へ参加したけれど。歌う時に口を大きく開けたとき、口内の傷がヒリヒリと痛んでちょっとだけ辛かった。鳴海君はいつも通り練習には来ていなくて、クラスの女子達が口々に文句を言っていた。委員長、頑張って連れてきてよと冗談っぽく言われて愛想笑いを返す。昨日、一応声を掛けはしたけど。来たら来たで空気感がヤバくなりそうだな。お互いの為に、もしかしたらこれで良いのかもしれない。
9月下旬になっても、秋の気配は遠くまだまだ暑い日が続く。地球温暖化とは別に、大型怪獣の発生による地形変動が関係しているのでは?なんてニュースを見た。確かに怪獣大国日本なんて呼ばれているくらいだし。1つ山が崩れれば空気の流れも変わるだろう。都心のビルだって同じ。すぐに同じ高層ビルを建て直せるわけじゃない。それでも壊れたものを元の形に直す為、頑張っている人達にへ感謝しなければ。私の頬の痣も治ってはきたけれど、ガーゼはまだつけっぱなしだ。気温の高い日はつらいけど。薄くなってきたとは言え、青痣が見えてるのはそこそこグロテスクだから。周囲への配慮ってやつ。
「あれ?」
漕いでいた自転車を止める。学校の帰り道、夕暮れで眩しい公園には知った人影がある。逆光で見えにくいけれど、ブランコに座っているのは確かに鳴海君だ。自転車を公園の端に寄せて降りると、彼のもとに向かう。
「おーい。」
「…げっ。」
鳴海君の足元から何かが走り去っていく。目で追うそれは野良猫だ。サボって猫と戯れているなど、なんというご身分だろうか。羨ましいことこの上ない。
「健全な青少年は帰る時間だぞー。」
「うっせ。まだ18時前だろ。」
「ダメダメ、怖いのは怪獣だけじゃないんだから。」
危ない人間だっているのだと言っても、鳴海君は聞かないだろうが。隣のブランコに腰掛けて緩く漕ぐ。公園の遊具に乗るのなんていつぶりだろう。
「鳴海君はバイトもしてないんだし。帰るの遅いとおうちの人、心配するんじゃない?」
「何歳だよ。それに僕に家族はいない。」
バッサリと、特に気負った空気も持たずに発されたそれは逆にこちらを困らせる。
「…知ってるけどさー、施設の人だって心配はするでしょ?」
「はん、どうだかな。大人が子供だからって理由で全員可愛がるわけじゃないぞ。」
「うわっ、擦れてるね〜」
鋭い言葉に切り返す言葉などありはしない。乾いた笑いをこぼしながら強めにブランコを漕ぐと、存外に気分が上がる。久々にやると楽しい。
「鳴海君は器用だからさ。やろうと思えば何でも出来るでしょ?もーちょい協調性を身につければ、何にだってなれると思うけどな。それこそ、大人から可愛がられたりだって出来るんじゃない?」
「あんま知ったことを言うなよ。世の中そこまで上手く出来てない。それに、お前が1番分かってんじゃないのか?」
鳴海君はチラリと此方を見る。
「…スカートの下、なんか履いた方が良いんじゃないのか。」
「やだー、鳴海君のえっち!」
「だ、誰がえっちだボケ!」
ブランコを止めてキャーッとわざとらしく両手を頬で覆うと、鳴海君が大声を上げる。純粋な反応でからかい甲斐がありそうなのはまことによろしい。彼が言いたいのが、スカート丈とか下着が見えそうとか、そういったことじゃないのは分かっている。
「…見えちゃった?」
「しっかりな。」
大きな溜息をつく鳴海君。彼に見えてしまったのは、私の太腿あたりにある大きな痣だろう。
「教師に相談した方が良いんじゃないのか?」
「なんていうの?親から虐待されてますって言えば、解決する?」
「知らん。だが、何もしないよりははるかにマシだ。」
「ん〜…別に、毎日殴ったり蹴られたりされてるわけでも無いしな〜…」
私の親は少し、過剰なところがあるのだ。優秀な人達だけど。ところによりムラがあるとか、そういうのが許せない人達。何でも平均以上の優秀さで無いと駄目。自分の子供もそうあるべきって思ってるのが、少し厄介なだけ。
「ネグレクトって言うらしいぞ。職員がたまに言ってるのを聞く。お前が思ってるより、問題は大きく見えるがな。」
「でもさ、子育って誰かに教わってやるわけじゃないから。私達と同じで、失敗しちゃうことだってあるんじゃない?」
「余計、正さなければならないだろ。子育てを受けてるお前自身が間違いだと認識してるのが、何よりの判断材料だ。」
賢い人だと思った。頭がよく回るし鋭い見識を持つ。こういうときに発揮するくらいなら普段から真面目にやってほしい。そうすれば、私が気にしなくてもクラスで上手くやれるだろうに。
「ふーん。鳴海君、私のこと心配してくれるんだ。」
でも、懐かない猫を手懐けたみたいで嬉しくなる。学校で彼の面倒を見ている私だけの特権みたいで。ブランコから身を乗り出して覗き込むように鳴海君の顔を見上げる。
「〜っ…あぁ、心配だよっ。」
顔を赤くして気恥ずかしていても、彼は否定しなかった。
「鳴海君はさ、大人になったら何になりたい?」
「なんだよ急に。問題をすり替えるな。」
「良いじゃん、教えてよ。明るい話がしたいから。」
「…別にねぇよ。今のところ、なりたいもんなんてない。」
「夢もないの?」
「無いね。」
気不味そうに答える鳴海君。
「じゃあさ、私達結婚しない?」
「はっ、はぁ〜〜〜!?何言ってんだお前!!」
「声でか!」
顔を真っ赤にする鳴海君と、ケラケラ笑う私。
「親がさ〜。良い大学出て、良い会社に就職して。良い人と結婚しろってうるさいんだよね。鳴海君は要領良いし何にでもなれそうじゃん?だから良い会社に就職して、私の旦那さんになってよー。」
「なんッ、で、僕がお前の為に会社員になんなきゃいけねーんだよ!」
「えー、ケチだな。鳴海君がいっつもテスト満点なのは、私が教科書見せてあげてるからでしょ?」
「ふざけんな!教科書見なくたって満点取れるわ!」
「嘘ばっかり〜」
茶化してみつつも、本当にやりかねないのが鳴海君である。授業さえ聞いていれば何とかなりそうなほど、頭の作りが良いのは羨ましい。そうなって机をくっつけることもなくなると、少しばかり寂しくも思うが。
「私の親、子供のことはすっごく管理したがるから。結婚するまで家出れなそうだし。鳴海君が結婚してくれると、嬉しいんだけどな〜?」
にーっと笑って目を細めると、鳴海君は言葉に詰まる。流石に困らせすぎたか。
「なーんて冗談冗談。さて、そろそろ帰るとしますか。」
よっ、とブランコから降りる。陽が落ちて辺りは暗くなりはじめている。
「鳴海君も早く帰りなよ?」
「…」
「何その顔。…ははーん、さては私のことが心配なんだね?」
「ふざけるなよ。そんな楽観視出来ることじゃないだろ。」
「良いんだよ、楽観視しても。ここまでやってこれたんだから。この先もきっと大丈夫。」
大丈夫。きっと私は、私達は。ちゃんとした大人になれるから。今まで上手くやってこれたんだから、きっとこれからも大丈夫。
「じゃあね、鳴海君。私は塾だけど、明日はちゃんと練習行くんだぞー?」
なんて、朝イチで顔を合わせるというのに。この楽しい気分を引っ張りたくて。最後まで何か余計な一言を言いたくなってしまう。塾が無いのに門限の18時を過ぎてしまったから。きっと帰ったらまた殴られるだろう。家に帰るのは憂鬱だけど、親が嫌いなわけじゃない。だから、これで良いのだ。
鳴海君は返事をしなかった。
次の日は、朝から天気が悪かった。曇り空の下、降りしきる雨の勢いは強くて。学校に行くのがいつも以上にダルかった。サボってやろうとも思ったが、施設に居座るわけにもいかず、雨が降っているからどこかの公園でだべることも出来ない。うだうだと布団で悩ん出るとき、頭の中には前日に帰りを見送った少女の姿があった。振り返り際、屈託のない笑顔を向けこっちに指をさす少女は、明日の練習にはちゃんと行けと言っていた。なんでそんな風に笑えるのか分からなかった。帰ったら、また親から暴力を振るわれるかもしれないのに。理解できなかった。理解できないけれど、しょうがないから学校に行こうと思った。あいつのことだから、隣の席に僕がいないことで余計な心配をするかもしれない。自分の心配も出来ない奴に、そんなことを思われるのが癪だから、それだけだ。
しかし日常とはある日突然、簡単に壊れるものだ。ましてやここは怪獣災害の多い国なのだから。
通学の為に施設を出てすぐだった。警報が鳴って、避難誘導を受けてから。重要な物を施設に置き忘れた事に気がついて、シェルターから飛び出して、戻ったら怪獣がいて。防衛隊の対応の遅さに歯噛みしながら、はじめて怪獣に向かっていった。怪獣の死骸から拾った腕を武器にして戦って。すんなり倒せてしまったことに驚愕と、苛立ちを覚えながら。遅れて到着した防衛隊の隊員に引き摺られるようにして連れてこられた救護施設には、〇〇がいた。
「あ、鳴海君だ。」
簡易的な診察台に腰掛け微笑む〇〇はいつもの調子に見える。が、全然いつも通りじゃなかった。最近ずっとガーゼを貼っていた箇所とは別に眉上あたり、額の上に痣が出来ていて、口の端が切れている。セーラー服の下、腕や脚は包帯だらけだ。
「無事だったんだね、良かった。」
「お前っ…何も良くないだろ!」
胸倉を掴むと、少し驚いた顔をして見上げる〇〇。慌てて職員が止めに入り離される。
「その傷、怪獣に襲われて出来たわけじゃないだろ!」
「え、なんで分かるの?」
「んなもんっ、襲われたらとっくに死んでるに決まってるだろうが!」
誰もが自分のように簡単に怪獣を倒せるなど思ってない。運動部でも無い〇〇が遭遇すればひとたまりもないことは確かだ。
「そうなんだよね。着替えたは良いけどちょっと具合が悪くて、家にいたら逃げ遅れちゃってさ。」
「なんで、普通にしてんだよ!!」
もっと怒れよ。生みの親だとしてもここまで自分を害されて、何故なんでも無さそうにしているのか。どうして自分を大切に出来ないのか。
「お前…僕と一緒に来い。」
「えー?」
「何されるか分かんねぇだろ!」
治療を受けてこのあと避難シェルターに向かうのだろう。親と一緒にしていてはまた何をされるか分かったもんじゃない。〇〇は困ったように笑った。
「ありがとう、心配してくれて。でも大丈夫だよ。」
「何がっ、」
「死んじゃったんだ、私の親。お母さんもお父さんも、家の前に転がってた。」
怒りが鎮火したのは一瞬だった。でも、何も言えなかった。
結局、〇〇は僕と一緒に避難所に向かった。近くに頼れる親戚もいないらしい。こんなことがあったから、しばらくは学校も休校で。〇〇はぼーっと避難所で過ごしていた。その間に僕は、防衛隊の四ノ宮からの指示で基地に向かい適性検査を受け、色々あって入隊試験を受けることになった。〇〇の外傷は治っていったが、内面はどうか分からない。学校が再開して、周囲から両親を亡くしたことでいたく気にかけられていたが、当の本人は普通に過ごしていてた。何事もなかったように。周りの大人達からは気丈に振る舞っているのだとか言われたのが、納得いかなかった。
「委員長、明日がんばろーね!」
「うん、そうだね。」
こんな時だからこそ、学校の催事は中止しないらしい。延期された合唱コンクールはいよいよ明日で、僕は結局一度も練習には参加しなかった。練習が終わる頃、校舎の入り口がずらずらと帰宅する生徒で賑わう中。他の生徒と一緒に喋りながら靴を履き替える〇〇の腕を引っ掴み、校門を出る。
「ちょっ、ちょっと!何々?」
「ツラかせ。」
通学に自転車を使わなくなったのは知っているのだ、何も問題は無いだろう。ズンズン歩くのに引き摺られるように歩く〇〇は、何も言わなかった。前に話した公園に着いてから、腕を離した。月をまたいで日の入りが早くなったから。既に辺りは暗くて空に浮かぶ星が見る。
「なによー、明日は朝早いんだよ?」
「知るか。」
「なんか怒ってる?」
「怒ってない。」
怒ってなどいない。いないが、気に食わないことならある。
「お前、感情死んでんのか?」
点滅する街灯に照らされる〇〇の顔には影が落ちる。いつものように笑ってはいなかった。
「…どういう意味?」
「腹立つんだよ、いつも良いように振る舞いやがって。」
季節は変わろうとしているのに、色々なことがあったのに。あらゆる変化を経ても、彼女はあの日から何も変わっていない。夕暮れの下、ブランコに乗っていた日から。その停滞が気に入らなかった。なぜか、ムシャクシャしてならない。
「どうすんだよ、これから。」
「…生きていくよ、普通に。」
「同じようにか?自分を傷付けるやつが現れても、何事も無かったように生きていくのかよ?」
まもなくして、避難所での生活も終わるだろう。今までとは違う生活になって、大学に行って、就職して。変わらず、理不尽を受け入れて生きていく。それが普通だとでも言いたいのだろうか。
「んー…鳴海君の言いたいこと、ちょっと分かったかも。」
〇〇の消えていた表情に、色彩が戻ってくる。
「…明日の合唱コンクールさ、実はそれほど楽しみじゃないんだよね。」
「あ゙?なんの関係が…」
「両親がさ、結構楽しみにしてたんだ。」
言葉を失った。この期に及んでまだ未練があるというのか。絶句する鳴海を置いて、〇〇は話を続ける。
「家族のことが好きだったから。親の笑った顔が好きだったから。だから今まで色々頑張ってきたんだけど。両親が家の前で死んでるのを見て、何も思わなかったんだよね。」
柔らかなその笑顔はどこか脆く見えた。
「私はさ、2人の死を悲しめない自分に対して、悲しくなったんだ。だから、本当は好きじゃなかったのかもしれない。好きだと思っていただけで空っぽだったのかも。鳴海君が心配してくれるのは凄く嬉しい。でも、私はこんな人間だから。」
「いいや、お前はそんな人間じゃない。嫌いになる理由があったから、悲しめなかっただけだ。」
〇〇が失望したのは自分に対して。マニュアル通りの喜怒哀楽の変化に対応していない理由が分からない。心が壊れてしまっていることに、〇〇自身は気付いていない。理由を理解していても、受け入れたくない、気が付かないでいる為に作った堰が、鳴海によって崩されかけていた。
物心ついた頃から、本当の意味で自分を気に掛ける人がいなかった鳴海にとって〇〇は稀有な人間だった。だから〇〇のことが気に掛かって仕方がない。自分を大事にしてくれる人を大事にしたいと思うのは、正常な反応だ。ただ表面的な状態だけを見て、周囲のように彼女を判断したくなかった。
「…△△。お前、僕と結婚しろ。」
「……なんで今、プロポーズ?」
急に真顔に戻った〇〇に対して、鳴海は羞恥心に駆られて頭を掻きむしる。
「何かと世話になってる奴をっ!今後現れるかもしれない変なやつのっ、DVとか、そんな奴らの傍に置いときたくないだろが!!」
「…私ちゃんとした人と結婚したいから。ヒモとか無理だよ?」
「こ、こないだはお前から言ったくせにっ!…防衛隊に入るから大丈夫だっての!」
「……でも、鳴海君が死んだ時に悲しめなかったら嫌だ。」
「あぁ〜?僕がお前の親みたいな奴等と一緒だって言いたいのか?」
「そういうわけじゃないけど…」
「じゃあ、別にいいだろ。」
「………」
〇〇は険しい表情のまま、腕を組んで熟考する。暫くして、閃いたとでもいうようにパチンと指を鳴らした。
「鳴海君、ちょっと私にキスしてみてよ。」
「なんでだよ!?」
「いや、そんな人助けみたいな理由で結婚って鳴海君に申し訳ないし。ほら、夫婦になるなら将来的にセックスとかするわけじゃない?最低限キスくらいできないと、お互いにしんどいと思うわけ。」
「……お前は出来るのかよ。」
「出来るよ。だって私、鳴海君のこと好きだもん。」
真っ直ぐに向ける瞳の先は、鳴海の眼を穿つように。偽りを映さず実直だ。
突然かまされた衝撃の事実に鳴海は硬直する。
「まさかとは思うけど。日頃から私が鳴海君に優しくしてるのは、私が学級委員長だからだと思ってた?」
無言の肯定は半分正解。もう半分は、ただの世話焼き気質だという勘違い。〇〇はまったく頭が痛いと首をふる。
「甘い、甘いね鳴海君。私だって年頃の女の子なんだから、好きじゃない人の面倒まで見ないよ。下心ありきに決まってるじゃん。」
結果が実るかはともかくとして、恋心とはそんなもんである。
「出来るの?出来ないの?」
「でっ…出来るに決まってるだろ!」
「…へぇ〜?出来るんだ〜?」
によによと笑う〇〇に腹が立ち、鳴海は大股で距離を詰めると細い両腕をガシッと掴む。ビクリと肩を振るわした〇〇は徐々に頬を赤くする。
「…本当にするんだね?」
「…おう。」
緊張のあまり鳴海は顔が大変なことになっているが、気にせずに〇〇は瞼を伏せて静かに目を閉じる。
鳴海は数回、深呼吸してから瞼を閉じて口付けた。思いの外、勢い付いたせいか〇〇の背が後ろに傾くがしっかり支えた。
柔らかいとか、熱いとかと、〇〇のか細い呼吸。
情報量の多さで頭がパンクする寸前、鳴海は唇を離した。
「満足かよ?」
若干キレ気味な鳴海に〇〇は頷く。
「うん、大満足。」
晴れやかに笑う〇〇の目は赤くなり、涙が溢れていた。
「っ、おかしいな。すっごく嬉しいはずなのにっ、涙が止まらない。」
「…たぶんそれで、良いんだよ。」
「でも、好きな人の前では笑ってたいからっ、これじゃ困る。」
「僕はやだね。そんな無機質な奴とは結婚したくない。だからちゃんと泣いて、怒れるようになれ。」
翌日、合唱コンクールにて。たいそう不機嫌かつ遺憾な表情で壇上に立つ鳴海にクラスメイト達はビビリ散らかしていた。おまけに歌唱量は最悪である。輪の空気をぶち壊した鳴海はより、クラスで浮いたが〇〇は満足そうだった。
学校を卒業後、防衛隊に入隊してから数日。長谷川は書類片手に鳴海を見下ろしていた。眉間には深くシワが刻まれている。
「あー…履歴書なんだが。」
「なんだよ。さんざん確認しただろ?」
不遜な態度に青筋をたてつつも、長谷川は咳払いして広げた履歴書に指をさして指摘する。扶養家族の下の欄、配偶者の欄に関して。
「配偶者の有無だが…有に丸がついている。これに間違いはないか?」
「あぁ。僕には嫁がいる。最近籍を入れた。」
当人に確認するのが怖すぎると、長谷川に対応を投げた事務員含め、場にいた全員が固まった。
「…問題無いだろ?年齢は満たしている。」
超大型新人、期待のルーキー鳴海が第1部隊に激震を走らせた。後日、諸事情で基地を訪れた嫁が真人間であったことからさらなる激震が走ったのはまた別のお話。
良い季節だ。じっとりと暑くて、すぐに汗をかいてしまうし強すぎる日照りは容赦なく肌を焼くけれど。それも、もうすぐ終わってしまうと思えば寂しく感じる。
「いつまでそこにいんだよ。」
穏やかな時間に終止符を打ったのは、唐突な乱入者の声。正体を見るために、閉じたていた五感のひとつをパチリと開ける。
「…鳴海君は、サボり?」
「は、じゃなくてお前もだろ。」
ブスッとした表情で私を見下ろす彼は陽射しの下に立っていた。目に見えて汗を掻いている彼はこの校舎裏に、私が座るこの日陰の壁際に用があるらしい。
「私は違うよ。君と違って放課後ちゃーんと用事があるから、今日の練習には参加しなかったの。」
「ならさっさと行けばいいだろ。そこは僕の特等席だ。」
地べたに席も何も無いだろうに。やれやれと立ち上がって制服のスカートについた土を払う。
「私くらい忙しいと、ちょっとくらい休憩も必要なの。部活にも入ってない君とは違うんだよね。…1回くらい練習行ってみたら?」
「…文句あんのかよ。」
「無くはないけど。そんなだから嫌われちゃうんじゃない?」
合唱コンクールは来月だ。委員会と塾と部活。二足ならぬ、三足のわらじの私からすれば万年帰宅部の鳴海君は遊びたい放題。クラスで浮き気味の彼が、放課後の練習すら出なくても何も言われやしないだろうが。よりイメージが悪くなるのは深刻である。
「余計なお世話だね。僕は自分のしたいようにする。」
「ほんと我が強いんだから〜…じゃあ、遺憾にもサボり魔から怒られたちゃったことですし。そろそろ行くとしますか。」
練習に参加しなかったのは放課後に塾があるからだけど。予定時刻はとっくの昔に過ぎていた。憂鬱だけど行かないと、そろそろヤバいかも。
「良いタイミングに来てくれたね。ありがとう。」
鳴海君に声をかけられなければ終わる頃までここにいたかも知れない。なんせ、離れがたい程の風物詩だ。疲労と億劫さで重い腰を上げるには、些か環境が出来上がりすぎている。彼は私がいた場所に腰を下ろすと、携帯ゲームをいじり始めた。わざわざ此処を指定せずとも、離れた場所も空いているのに。呆れたことだ。
「ばいばい鳴海君。また明日ね。」
「…ん。」
笑顔で手を降っても返ってくるのはおざなりな返事だけ。いつもの事だと気にせずに、スクールバッグを肩に掛け直して駐輪場に向かった。
「△△さん!?どうしたのそれっ…」
「あはは…ちょっと転んじゃって。」
頬に貼られた大きなガーゼは誰の目から見ても、大仰に映ることだろう。朝のホームルームが始まる5分前には必ず教室に来る担任の教師が、入口を潜って早々告げたセリフは挨拶ではなく私への心配だった。登校時間が被ったのが良くなかったかもしれない。ざわつく教室の視線が大きな声につられてチラチラと此方を向く。少し話してから自分の席について、ようやくひと息入れる。
「…チャリでコケたのか?」
「まー…そんなとこ。おはよ、鳴海君。」
1番後ろの窓際の席が私で、その隣は鳴海君だ。真面目な学級委員の私の隣に据えられた問題児。私が面倒をみるだろうという担任の目論見は大正解で、しょっちゅう机をくっつけて教科書を見せている。ノートくらい持ってこいっての。これでテストの成績は常にトップなのだから腹立たしいことこの上ない。
「1限、数学だけど。」
「無い。」
「…もう、しょうがないな。」
出席確認の点呼を聞きながら小声で問うが、今日も今日とて彼はいつも通りだ。変わる気も無いのだろうと鞄から教科書類を出して準備する。
「大袈裟に転んだにしては、腕とか膝は無事だったんだな。」
切り離されたみたいに、音が遠くに聞こえる。ペンケースを出そうと、鞄を覗いていた視線を上げる。鳴海君は静かな目でこっちを見ていた。何か言わなくちゃと思ったけど、上手く言葉を選べなかった。選択を選びきれないまま、薄く唇を開いた。吸った息がやけに冷えている。
「△△さん。」
「っ、はい。」
名前を呼ばれて慌てて返事をすると、徐々に周りの音が戻って来る。遠く離れた世界に帰ってきた心地。それに安堵しながら口を動かすと、いつものようにすんなり喋れていた。
「不幸中の幸いだね。顔から突っ込んだにしては悪くないんじゃない?」
「んなわけあるかよ。傷が残ったらどうすんだ。」
途端に嫌悪を示した彼に思わず微笑む。
「へー…鳴海君って案外優しいんだね?」
「別に、そういうつもりじゃ…」
「あはは、照れるな照れるな。」
なんだ、反抗期のくせして素直な面もあるんじゃないか。憎まれ口を叩く姿ばかり見ているからか、良いところを発見出来て素直に嬉しくなる。これが出来の悪い子ほどなんとやら、っていうやつかな。
今日は放課後、いつものように練習へ参加したけれど。歌う時に口を大きく開けたとき、口内の傷がヒリヒリと痛んでちょっとだけ辛かった。鳴海君はいつも通り練習には来ていなくて、クラスの女子達が口々に文句を言っていた。委員長、頑張って連れてきてよと冗談っぽく言われて愛想笑いを返す。昨日、一応声を掛けはしたけど。来たら来たで空気感がヤバくなりそうだな。お互いの為に、もしかしたらこれで良いのかもしれない。
9月下旬になっても、秋の気配は遠くまだまだ暑い日が続く。地球温暖化とは別に、大型怪獣の発生による地形変動が関係しているのでは?なんてニュースを見た。確かに怪獣大国日本なんて呼ばれているくらいだし。1つ山が崩れれば空気の流れも変わるだろう。都心のビルだって同じ。すぐに同じ高層ビルを建て直せるわけじゃない。それでも壊れたものを元の形に直す為、頑張っている人達にへ感謝しなければ。私の頬の痣も治ってはきたけれど、ガーゼはまだつけっぱなしだ。気温の高い日はつらいけど。薄くなってきたとは言え、青痣が見えてるのはそこそこグロテスクだから。周囲への配慮ってやつ。
「あれ?」
漕いでいた自転車を止める。学校の帰り道、夕暮れで眩しい公園には知った人影がある。逆光で見えにくいけれど、ブランコに座っているのは確かに鳴海君だ。自転車を公園の端に寄せて降りると、彼のもとに向かう。
「おーい。」
「…げっ。」
鳴海君の足元から何かが走り去っていく。目で追うそれは野良猫だ。サボって猫と戯れているなど、なんというご身分だろうか。羨ましいことこの上ない。
「健全な青少年は帰る時間だぞー。」
「うっせ。まだ18時前だろ。」
「ダメダメ、怖いのは怪獣だけじゃないんだから。」
危ない人間だっているのだと言っても、鳴海君は聞かないだろうが。隣のブランコに腰掛けて緩く漕ぐ。公園の遊具に乗るのなんていつぶりだろう。
「鳴海君はバイトもしてないんだし。帰るの遅いとおうちの人、心配するんじゃない?」
「何歳だよ。それに僕に家族はいない。」
バッサリと、特に気負った空気も持たずに発されたそれは逆にこちらを困らせる。
「…知ってるけどさー、施設の人だって心配はするでしょ?」
「はん、どうだかな。大人が子供だからって理由で全員可愛がるわけじゃないぞ。」
「うわっ、擦れてるね〜」
鋭い言葉に切り返す言葉などありはしない。乾いた笑いをこぼしながら強めにブランコを漕ぐと、存外に気分が上がる。久々にやると楽しい。
「鳴海君は器用だからさ。やろうと思えば何でも出来るでしょ?もーちょい協調性を身につければ、何にだってなれると思うけどな。それこそ、大人から可愛がられたりだって出来るんじゃない?」
「あんま知ったことを言うなよ。世の中そこまで上手く出来てない。それに、お前が1番分かってんじゃないのか?」
鳴海君はチラリと此方を見る。
「…スカートの下、なんか履いた方が良いんじゃないのか。」
「やだー、鳴海君のえっち!」
「だ、誰がえっちだボケ!」
ブランコを止めてキャーッとわざとらしく両手を頬で覆うと、鳴海君が大声を上げる。純粋な反応でからかい甲斐がありそうなのはまことによろしい。彼が言いたいのが、スカート丈とか下着が見えそうとか、そういったことじゃないのは分かっている。
「…見えちゃった?」
「しっかりな。」
大きな溜息をつく鳴海君。彼に見えてしまったのは、私の太腿あたりにある大きな痣だろう。
「教師に相談した方が良いんじゃないのか?」
「なんていうの?親から虐待されてますって言えば、解決する?」
「知らん。だが、何もしないよりははるかにマシだ。」
「ん〜…別に、毎日殴ったり蹴られたりされてるわけでも無いしな〜…」
私の親は少し、過剰なところがあるのだ。優秀な人達だけど。ところによりムラがあるとか、そういうのが許せない人達。何でも平均以上の優秀さで無いと駄目。自分の子供もそうあるべきって思ってるのが、少し厄介なだけ。
「ネグレクトって言うらしいぞ。職員がたまに言ってるのを聞く。お前が思ってるより、問題は大きく見えるがな。」
「でもさ、子育って誰かに教わってやるわけじゃないから。私達と同じで、失敗しちゃうことだってあるんじゃない?」
「余計、正さなければならないだろ。子育てを受けてるお前自身が間違いだと認識してるのが、何よりの判断材料だ。」
賢い人だと思った。頭がよく回るし鋭い見識を持つ。こういうときに発揮するくらいなら普段から真面目にやってほしい。そうすれば、私が気にしなくてもクラスで上手くやれるだろうに。
「ふーん。鳴海君、私のこと心配してくれるんだ。」
でも、懐かない猫を手懐けたみたいで嬉しくなる。学校で彼の面倒を見ている私だけの特権みたいで。ブランコから身を乗り出して覗き込むように鳴海君の顔を見上げる。
「〜っ…あぁ、心配だよっ。」
顔を赤くして気恥ずかしていても、彼は否定しなかった。
「鳴海君はさ、大人になったら何になりたい?」
「なんだよ急に。問題をすり替えるな。」
「良いじゃん、教えてよ。明るい話がしたいから。」
「…別にねぇよ。今のところ、なりたいもんなんてない。」
「夢もないの?」
「無いね。」
気不味そうに答える鳴海君。
「じゃあさ、私達結婚しない?」
「はっ、はぁ〜〜〜!?何言ってんだお前!!」
「声でか!」
顔を真っ赤にする鳴海君と、ケラケラ笑う私。
「親がさ〜。良い大学出て、良い会社に就職して。良い人と結婚しろってうるさいんだよね。鳴海君は要領良いし何にでもなれそうじゃん?だから良い会社に就職して、私の旦那さんになってよー。」
「なんッ、で、僕がお前の為に会社員になんなきゃいけねーんだよ!」
「えー、ケチだな。鳴海君がいっつもテスト満点なのは、私が教科書見せてあげてるからでしょ?」
「ふざけんな!教科書見なくたって満点取れるわ!」
「嘘ばっかり〜」
茶化してみつつも、本当にやりかねないのが鳴海君である。授業さえ聞いていれば何とかなりそうなほど、頭の作りが良いのは羨ましい。そうなって机をくっつけることもなくなると、少しばかり寂しくも思うが。
「私の親、子供のことはすっごく管理したがるから。結婚するまで家出れなそうだし。鳴海君が結婚してくれると、嬉しいんだけどな〜?」
にーっと笑って目を細めると、鳴海君は言葉に詰まる。流石に困らせすぎたか。
「なーんて冗談冗談。さて、そろそろ帰るとしますか。」
よっ、とブランコから降りる。陽が落ちて辺りは暗くなりはじめている。
「鳴海君も早く帰りなよ?」
「…」
「何その顔。…ははーん、さては私のことが心配なんだね?」
「ふざけるなよ。そんな楽観視出来ることじゃないだろ。」
「良いんだよ、楽観視しても。ここまでやってこれたんだから。この先もきっと大丈夫。」
大丈夫。きっと私は、私達は。ちゃんとした大人になれるから。今まで上手くやってこれたんだから、きっとこれからも大丈夫。
「じゃあね、鳴海君。私は塾だけど、明日はちゃんと練習行くんだぞー?」
なんて、朝イチで顔を合わせるというのに。この楽しい気分を引っ張りたくて。最後まで何か余計な一言を言いたくなってしまう。塾が無いのに門限の18時を過ぎてしまったから。きっと帰ったらまた殴られるだろう。家に帰るのは憂鬱だけど、親が嫌いなわけじゃない。だから、これで良いのだ。
鳴海君は返事をしなかった。
次の日は、朝から天気が悪かった。曇り空の下、降りしきる雨の勢いは強くて。学校に行くのがいつも以上にダルかった。サボってやろうとも思ったが、施設に居座るわけにもいかず、雨が降っているからどこかの公園でだべることも出来ない。うだうだと布団で悩ん出るとき、頭の中には前日に帰りを見送った少女の姿があった。振り返り際、屈託のない笑顔を向けこっちに指をさす少女は、明日の練習にはちゃんと行けと言っていた。なんでそんな風に笑えるのか分からなかった。帰ったら、また親から暴力を振るわれるかもしれないのに。理解できなかった。理解できないけれど、しょうがないから学校に行こうと思った。あいつのことだから、隣の席に僕がいないことで余計な心配をするかもしれない。自分の心配も出来ない奴に、そんなことを思われるのが癪だから、それだけだ。
しかし日常とはある日突然、簡単に壊れるものだ。ましてやここは怪獣災害の多い国なのだから。
通学の為に施設を出てすぐだった。警報が鳴って、避難誘導を受けてから。重要な物を施設に置き忘れた事に気がついて、シェルターから飛び出して、戻ったら怪獣がいて。防衛隊の対応の遅さに歯噛みしながら、はじめて怪獣に向かっていった。怪獣の死骸から拾った腕を武器にして戦って。すんなり倒せてしまったことに驚愕と、苛立ちを覚えながら。遅れて到着した防衛隊の隊員に引き摺られるようにして連れてこられた救護施設には、〇〇がいた。
「あ、鳴海君だ。」
簡易的な診察台に腰掛け微笑む〇〇はいつもの調子に見える。が、全然いつも通りじゃなかった。最近ずっとガーゼを貼っていた箇所とは別に眉上あたり、額の上に痣が出来ていて、口の端が切れている。セーラー服の下、腕や脚は包帯だらけだ。
「無事だったんだね、良かった。」
「お前っ…何も良くないだろ!」
胸倉を掴むと、少し驚いた顔をして見上げる〇〇。慌てて職員が止めに入り離される。
「その傷、怪獣に襲われて出来たわけじゃないだろ!」
「え、なんで分かるの?」
「んなもんっ、襲われたらとっくに死んでるに決まってるだろうが!」
誰もが自分のように簡単に怪獣を倒せるなど思ってない。運動部でも無い〇〇が遭遇すればひとたまりもないことは確かだ。
「そうなんだよね。着替えたは良いけどちょっと具合が悪くて、家にいたら逃げ遅れちゃってさ。」
「なんで、普通にしてんだよ!!」
もっと怒れよ。生みの親だとしてもここまで自分を害されて、何故なんでも無さそうにしているのか。どうして自分を大切に出来ないのか。
「お前…僕と一緒に来い。」
「えー?」
「何されるか分かんねぇだろ!」
治療を受けてこのあと避難シェルターに向かうのだろう。親と一緒にしていてはまた何をされるか分かったもんじゃない。〇〇は困ったように笑った。
「ありがとう、心配してくれて。でも大丈夫だよ。」
「何がっ、」
「死んじゃったんだ、私の親。お母さんもお父さんも、家の前に転がってた。」
怒りが鎮火したのは一瞬だった。でも、何も言えなかった。
結局、〇〇は僕と一緒に避難所に向かった。近くに頼れる親戚もいないらしい。こんなことがあったから、しばらくは学校も休校で。〇〇はぼーっと避難所で過ごしていた。その間に僕は、防衛隊の四ノ宮からの指示で基地に向かい適性検査を受け、色々あって入隊試験を受けることになった。〇〇の外傷は治っていったが、内面はどうか分からない。学校が再開して、周囲から両親を亡くしたことでいたく気にかけられていたが、当の本人は普通に過ごしていてた。何事もなかったように。周りの大人達からは気丈に振る舞っているのだとか言われたのが、納得いかなかった。
「委員長、明日がんばろーね!」
「うん、そうだね。」
こんな時だからこそ、学校の催事は中止しないらしい。延期された合唱コンクールはいよいよ明日で、僕は結局一度も練習には参加しなかった。練習が終わる頃、校舎の入り口がずらずらと帰宅する生徒で賑わう中。他の生徒と一緒に喋りながら靴を履き替える〇〇の腕を引っ掴み、校門を出る。
「ちょっ、ちょっと!何々?」
「ツラかせ。」
通学に自転車を使わなくなったのは知っているのだ、何も問題は無いだろう。ズンズン歩くのに引き摺られるように歩く〇〇は、何も言わなかった。前に話した公園に着いてから、腕を離した。月をまたいで日の入りが早くなったから。既に辺りは暗くて空に浮かぶ星が見る。
「なによー、明日は朝早いんだよ?」
「知るか。」
「なんか怒ってる?」
「怒ってない。」
怒ってなどいない。いないが、気に食わないことならある。
「お前、感情死んでんのか?」
点滅する街灯に照らされる〇〇の顔には影が落ちる。いつものように笑ってはいなかった。
「…どういう意味?」
「腹立つんだよ、いつも良いように振る舞いやがって。」
季節は変わろうとしているのに、色々なことがあったのに。あらゆる変化を経ても、彼女はあの日から何も変わっていない。夕暮れの下、ブランコに乗っていた日から。その停滞が気に入らなかった。なぜか、ムシャクシャしてならない。
「どうすんだよ、これから。」
「…生きていくよ、普通に。」
「同じようにか?自分を傷付けるやつが現れても、何事も無かったように生きていくのかよ?」
まもなくして、避難所での生活も終わるだろう。今までとは違う生活になって、大学に行って、就職して。変わらず、理不尽を受け入れて生きていく。それが普通だとでも言いたいのだろうか。
「んー…鳴海君の言いたいこと、ちょっと分かったかも。」
〇〇の消えていた表情に、色彩が戻ってくる。
「…明日の合唱コンクールさ、実はそれほど楽しみじゃないんだよね。」
「あ゙?なんの関係が…」
「両親がさ、結構楽しみにしてたんだ。」
言葉を失った。この期に及んでまだ未練があるというのか。絶句する鳴海を置いて、〇〇は話を続ける。
「家族のことが好きだったから。親の笑った顔が好きだったから。だから今まで色々頑張ってきたんだけど。両親が家の前で死んでるのを見て、何も思わなかったんだよね。」
柔らかなその笑顔はどこか脆く見えた。
「私はさ、2人の死を悲しめない自分に対して、悲しくなったんだ。だから、本当は好きじゃなかったのかもしれない。好きだと思っていただけで空っぽだったのかも。鳴海君が心配してくれるのは凄く嬉しい。でも、私はこんな人間だから。」
「いいや、お前はそんな人間じゃない。嫌いになる理由があったから、悲しめなかっただけだ。」
〇〇が失望したのは自分に対して。マニュアル通りの喜怒哀楽の変化に対応していない理由が分からない。心が壊れてしまっていることに、〇〇自身は気付いていない。理由を理解していても、受け入れたくない、気が付かないでいる為に作った堰が、鳴海によって崩されかけていた。
物心ついた頃から、本当の意味で自分を気に掛ける人がいなかった鳴海にとって〇〇は稀有な人間だった。だから〇〇のことが気に掛かって仕方がない。自分を大事にしてくれる人を大事にしたいと思うのは、正常な反応だ。ただ表面的な状態だけを見て、周囲のように彼女を判断したくなかった。
「…△△。お前、僕と結婚しろ。」
「……なんで今、プロポーズ?」
急に真顔に戻った〇〇に対して、鳴海は羞恥心に駆られて頭を掻きむしる。
「何かと世話になってる奴をっ!今後現れるかもしれない変なやつのっ、DVとか、そんな奴らの傍に置いときたくないだろが!!」
「…私ちゃんとした人と結婚したいから。ヒモとか無理だよ?」
「こ、こないだはお前から言ったくせにっ!…防衛隊に入るから大丈夫だっての!」
「……でも、鳴海君が死んだ時に悲しめなかったら嫌だ。」
「あぁ〜?僕がお前の親みたいな奴等と一緒だって言いたいのか?」
「そういうわけじゃないけど…」
「じゃあ、別にいいだろ。」
「………」
〇〇は険しい表情のまま、腕を組んで熟考する。暫くして、閃いたとでもいうようにパチンと指を鳴らした。
「鳴海君、ちょっと私にキスしてみてよ。」
「なんでだよ!?」
「いや、そんな人助けみたいな理由で結婚って鳴海君に申し訳ないし。ほら、夫婦になるなら将来的にセックスとかするわけじゃない?最低限キスくらいできないと、お互いにしんどいと思うわけ。」
「……お前は出来るのかよ。」
「出来るよ。だって私、鳴海君のこと好きだもん。」
真っ直ぐに向ける瞳の先は、鳴海の眼を穿つように。偽りを映さず実直だ。
突然かまされた衝撃の事実に鳴海は硬直する。
「まさかとは思うけど。日頃から私が鳴海君に優しくしてるのは、私が学級委員長だからだと思ってた?」
無言の肯定は半分正解。もう半分は、ただの世話焼き気質だという勘違い。〇〇はまったく頭が痛いと首をふる。
「甘い、甘いね鳴海君。私だって年頃の女の子なんだから、好きじゃない人の面倒まで見ないよ。下心ありきに決まってるじゃん。」
結果が実るかはともかくとして、恋心とはそんなもんである。
「出来るの?出来ないの?」
「でっ…出来るに決まってるだろ!」
「…へぇ〜?出来るんだ〜?」
によによと笑う〇〇に腹が立ち、鳴海は大股で距離を詰めると細い両腕をガシッと掴む。ビクリと肩を振るわした〇〇は徐々に頬を赤くする。
「…本当にするんだね?」
「…おう。」
緊張のあまり鳴海は顔が大変なことになっているが、気にせずに〇〇は瞼を伏せて静かに目を閉じる。
鳴海は数回、深呼吸してから瞼を閉じて口付けた。思いの外、勢い付いたせいか〇〇の背が後ろに傾くがしっかり支えた。
柔らかいとか、熱いとかと、〇〇のか細い呼吸。
情報量の多さで頭がパンクする寸前、鳴海は唇を離した。
「満足かよ?」
若干キレ気味な鳴海に〇〇は頷く。
「うん、大満足。」
晴れやかに笑う〇〇の目は赤くなり、涙が溢れていた。
「っ、おかしいな。すっごく嬉しいはずなのにっ、涙が止まらない。」
「…たぶんそれで、良いんだよ。」
「でも、好きな人の前では笑ってたいからっ、これじゃ困る。」
「僕はやだね。そんな無機質な奴とは結婚したくない。だからちゃんと泣いて、怒れるようになれ。」
翌日、合唱コンクールにて。たいそう不機嫌かつ遺憾な表情で壇上に立つ鳴海にクラスメイト達はビビリ散らかしていた。おまけに歌唱量は最悪である。輪の空気をぶち壊した鳴海はより、クラスで浮いたが〇〇は満足そうだった。
学校を卒業後、防衛隊に入隊してから数日。長谷川は書類片手に鳴海を見下ろしていた。眉間には深くシワが刻まれている。
「あー…履歴書なんだが。」
「なんだよ。さんざん確認しただろ?」
不遜な態度に青筋をたてつつも、長谷川は咳払いして広げた履歴書に指をさして指摘する。扶養家族の下の欄、配偶者の欄に関して。
「配偶者の有無だが…有に丸がついている。これに間違いはないか?」
「あぁ。僕には嫁がいる。最近籍を入れた。」
当人に確認するのが怖すぎると、長谷川に対応を投げた事務員含め、場にいた全員が固まった。
「…問題無いだろ?年齢は満たしている。」
超大型新人、期待のルーキー鳴海が第1部隊に激震を走らせた。後日、諸事情で基地を訪れた嫁が真人間であったことからさらなる激震が走ったのはまた別のお話。
5/5ページ