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ささやかな霧雨が、開いた掌に当たり粒となって滑り落ちていく。防水加工の施されたスーツをピッタリと纏う指先は震えていて、かなり長い間それを見下ろしていたように思う。実際、しばらく私は動けなかった。崩れた街並みの片隅、路上にへたり込んだまま。抉りとられた跡、削げた傷口のついた手首の上。震えているにも関わらず、動かない2本の指を見下ろしたまま。
淡灰色の空が覆う昼下がり、息絶え転がる同僚に寄り添うこともしないまま。私はただ、自己の生末だけを考えていた。
道は途絶えた。
行き着いた答えを知った時、同時に自分が人でなしであることも悟ったのだ。
「〇〇さ〜ん。」
ガコンッ。自販機の取り出し口からコーヒーを取りながら、振り返った先。とぼとぼとした足取りで歩いてくる同僚に笑みを返してやる。
「主任にどやされましたか?」
「すご…なんで分かるんですか…」
「今日は朝から機嫌悪そうだったんで。そろそろかと思って逃げちゃいました。」
部署の空気が悪かったのは朝からで、ヤニ切れを起こす昼前頃に誰かしらに八つ当たりを始める未来は容易に想像できた。今回の標的であるこの同僚には、同情を禁じ得ない。
「察知能力〜」
「環境による要因と行動パターンを把握しておけば、事前に回避するのは意外と簡単ですよ。怪獣と一緒です。」
「流石は元隊員…」
「あはは、下っ端止まりでしたけどね。」
現場に立つ戦闘員から裏方として支える総務部へ転属をしたのは、もう2年前のこと。肉体労働しか経験の無い身での切り替えには不安しか無かったが、続けていれば慣れるものだ。この同僚との付き合いも浅くなくなりつつある。不憫に思い、飲み物ぐらい奢ってやろうと自販機に追加の小銭を入れた。
「思いのほか短く済んで良かったですね。」
「いや、そうなんすよ。マジで保科さんが来て良かった〜…」
同僚が好む飲料のボタンを押そうとして、ボタンから視線をあげる。
「…副隊長が?」
「そうそう。なんか〇〇さんに用があったみたいで、いるか〜?って顔出しに来ましたよ。おかげで主任もタジタジしちゃって、どうにか逃げれました。」
「こんな時間に、珍しいこともありますね。」
「繁忙期だし、はやめに休憩入ったのかもって伝えたらちょっと探してみるって言ってましたよ。」
「…なんの用だろ。」
私用のスマホを取り出し確認するが、連絡は来ていない。
「保科さんと〇〇さんって、同じ部隊だったんですよね?」
「まぁ…新入りの頃は直属の小隊でしたね。」
彼の小隊にいたのは1年そこらで、下の代が入ってからは別小隊に異動した。熱い思いを滾らせ、彼の背を追っていた日々が懐かしい。いっぱしの防衛隊員としての目標と、それ以上の感情。併せ持った渦中が生み出す、青臭い執着を割り切るのにはかなりの時間を要したものだ。今となっては憧れの人であるが、今でも岐点に立った時、彼の事を思い出す。彼ならどうするだろうかと考えて、浅慮にも連絡をしそうになってしまう。そのたびに自分なりの答えを出して前に進む。後方への転属願いを出したとき、〇〇を強く引き留めたのは保科だった。振り切って背を向けてきた手前、今更何をと思われるだろう。最後に連絡を取ったのは、いつだったか。
そんな保科が〇〇に用があるという事実に、起伏する心を悟られたくなくて冷めた返答をする。よく冷えた缶を手渡すとパアッと顔を明るくして同僚は大袈裟に頭を提げる。
「あざっす!…でも戻ってきてほしい、とかだったら激アツじゃないですか?」
「まさか。わざわざ私を呼び戻さずとも、今は優秀な人がわんさかいるんでしょ?」
今期の入隊者達が粒揃いであることは、風の噂に聞いている。万年人手不足といえど、退役者を呼ぶほどではないだろう。
「それに戻った所でくそのやくにも立ちませんよ。」
「…そーいう言い方するとこ、元隊員っぽいですよね。」
ほんの少し興奮気味に言う同僚に乾いた笑みを向ける。粗野な言葉選びは前に保科からも注意を受けた。防衛隊員の品位を下げないためにも気を付けなくては。
「ほんまに、言い方なぁ。」
ビクリと肩を揺らした同僚にそちらを向くと、背後に話題にしていた人が立っていた。私もかなり驚いたが。
「びっ、くりしたぁ〜」
「すまんすまん。休憩中やった?」
「あ、いえ…じゃ、私はこれで。」
休憩に入るかどうか、微妙な時間。曖昧な返事をした同僚はチラリと私を見てから、ペコリとどちらに向けたか分からないお辞儀をしてそそくさと去っていった。残された私達の空気感に、なんともいえない微妙さを覚える。なんと声をかけたものか、相変わらず胡散臭く見えるニコニコとした表情を浮かべる人だ。現在の同僚達に向けるのと同様の挨拶をするのも違う気がして、右手を目線より少し上に上げる。
「…お久しぶりです、保科副隊長殿。」
「おん、久しぶり。そんなかしこまらんでええよ。」
ビシッと佇まいを直した私を制する彼は、隊舎にいる時より緩い空気を纏っている。
「ま、隊員にも品格っちゅーもんがあるんや。気いつけや。」
「は、申し訳ありません。」
「かったいなぁ〜…ええて、もう。」
そうは言っても身に染み付いた挙動は簡単に抜けないものだ。ましてや彼を前にすると、現役だった頃の姿勢が意図せずとも滲み出す。体だけでなく、心の在り方でさえも。
血熱沸き立つあの頃の自分が戻って来るようだった。高鳴るの胸を意識的におさめながら本題に入る。
「本日はどういったご要件で?」
「ここじゃなんだし、落ち着いて話せるとこ行こか。」
了承もまたず踵を返して歩いてくいく背中から、彼の部下であった頃を思い出す。立場的には今も彼の方が上なので、部下であることに違いはないのだろうが。付いていった先は、室内演習場の一角。訓練機器は出されておらず、天井に並ぶ照明が広々とした施設内を照らしている。
「懐かしいやろ?」
立ち止まり、ポケットに両手を突っ込んだまま振り返る保科。現職で通う棟を離れた時、どこまで連れて行かれるのかと怪訝に感じたが。まさかこんなところまで来ることになるとは。
施設内に窓は無く、遠くで空調の音がする。昼間だというのに、照らす光源が人工的なものだけだからか。時間間隔が曖昧になる不思議な心地が、遠いと言うにはさして時の経たない過去を思い起こす。
「単刀注入に言うけど。戻ってこい、〇〇。」
どこへなどと、聞かずともわかった。防衛隊員が主軸に使用する施設へ足を踏み入れたときから、同僚の推測が当たっているかもしれないとは頭の隅で考えていたが。まさか的中することになろうとは。深呼吸して瞼を伏せる。嬉しかった。震えるほどに、嬉しかった。同時に、腹の底から嫌悪が湧く。それは自分に対して。
「…理由を伺っても?」
「単純な話やで。優秀な人材を後方に回すほど、うちには余裕が無い。」
「退役者を引き摺り出すほど、逼迫していないのでは?今は良い人材が揃ってると聞いてます。」
「次期小隊長が何言ってんねん。あんな大怪我してなけりゃ、今頃は他部隊の副隊長に引っ張られてたやろ。」
目を合わせられなかった。右腕の古傷がジンと疼く。肘を上げ、ダラリと下げたままの右手を掲げて見せる。
「無理です。動かないんですよ、私の手は。」
服の袖に隠れて見えないが、この腕には肘の関節下から右手首にかけて大きな古傷がある。2年前に決行された作戦にて、私が所属していた小隊は帰還時に運悪く新たに現れた怪獣と接触した。中型、フォルティチュードは大怪獣とまではいかずとも高い数値を示していた。他の小隊の援護を待つ暇はなく、殆ど刺し違える形で倒した当時の生き残りは私だけだ。
「経過、聞いてるで。」
眉をひそめて腕を下げる。
「うちの隊長が人情深いんは、自分も知ってるやろ。」
「…行動力があるのは良いことですが。褒められたことではないですね。」
防衛隊お抱えの医療部には今でも世話になっている。長く世話になっているし、掛かり付けを変えるのも面倒だからと担当医の好意に甘えていた結果がこれだ。元部下の、それも一般兵の経過まで気に掛けているとは、とんだお人好しだ。後遺症の残る深手を負った右手ではもう銃を握ることも、引き金を引くことも叶わないから。自分に出来ることはもうないからと伝えた時の彼女の表情を、今でも忘れられない。
「リハビリ頑張ってるみたいやん?」
「物を握るとまだ痺れるんです。こんな状態の人間を戦場に戻すほど、亜白隊長に心が無いとは思えませんが。」
「そらそうやろ。これは僕の一存だし。」
「…酷い人ですね。どんな神経してればそういう結論になるんですか。」
「君が一番分かってると思うけど?」
無機質な色合いの床から視線をあげる。ニッと笑う口元に見える八重歯が憎らしい。
「あん時は、君が誰よりも熱いもんを持ってた。」
「…昔の話です。」
「口には出さなかったけど。誰よりも強くなってやるーって、全身全霊で僕の後ろついてきてたなぁ。」
「生き残ることに必死でしたから。」
「他の誰よりも僕の言うことに愚直に頷いて、から回ることもあったけども。」
「あの時はっ、若くて未熟だったんです!」
段々と恥ずかしくなり、言い返す声に力が入る。
「なんで君が僕の小隊から移されたか知ってるか?」
「し、知らなくていいです。」
「君は僕を信頼しすぎてるから。他のやつの下につけて色んな考えを学ばせるべきだって亜白隊長が言い出したんよ。賢い子を愚直なままにしておくのは勿体無いから、僕も頷いたんやけど。」
饒舌に語る保科副隊長の言葉に、顔が熱くなる。向こう見ずさを自覚していたとはいえ、周りからの評価を改めて聞くといてもたってもいられなくなってくる。
「あんなことになるなら、僕の下に置いたままにすればよかったって。今でもたまに思うんよ。君の言う通りかもなぁ。…僕は酷いやつやろ?」
ありのままを聞かされ立ち尽くす私とゆっくり距離を詰めると、サラリと髪を撫ぜられる。見下ろす瞳はいつものように笑っていない。
「この先、もっとでかい脅威が来るかもしれん。君みたいな実力のある奴が必要や。」
みはった眼が歪む。そんな風に心を砕いてくれてることを、今更知りたくなかった。だからこそこの人の傍には、防衛隊には戻りたくないと思う。
「私はあの時、仲間達のそばで死を悼むよりも…、自分の隊員としての生命線が切れたことを嘆きました。」
「うん。」
「戦えなくなるかもしれないことを、貴方の背をもう追えないことが何より辛いと思った。そんな自己中心的な人間が必要だとは思えません。」
誰しもが何かを守ろうと立つ防衛隊に、利己的でいる自分は相応しくない。そう悔いている時点で、懸念点は払えていると同然なことに何故気が付かないのか。
亜白は保科に嬉しそうに語っていた。〇〇の経過は順調にで、リハビリも隊員に復帰を目指す過程の者が受ける内容をこなしている。口では戻らない事を掲げながらも、その志を諦めきれていないのだ。
絶望を知っている。それでいてまだ心は折れていない。彼女に必要なのは差し伸べる手などではなく、きっかけだ。
天邪鬼めと呆れながら、保科は考えを改める。大義を掲げたところで彼女は首を縦に振らないだろう。なら、もっとなし崩しでいってしまったほうが可能性はありそうだ。
「僕は可愛がってた部下が生きてて嬉しかったけど?」
率直な感想に揺らいだのを見逃さず、保科は畳み掛ける。よく気が付き状況を見ることに長けた感性を持っているくせして、この女に遠回しな言葉は伝わらないのだ。
「たまに会うと嬉しそーに駆け寄ってくる子がいなくなったんは、結構寂しいもんやで。君、辞めてから連絡のひとつもして来ないし。」
「…だって、わざわざ話すこともないし。」
「分からんないん?僕、君のことが好きやねんけど。強くて可愛い子に、手元に戻って来てほしいな〜って、思ってるんだけど?」
困惑を示して見上げる顔が、徐々に薄赤く染まっていく。
「普通、大事な人には戦ってほしくないものでは?」
「君はそうじゃないやろ。一般人になって戦えなくなった君がどこぞで死んだら、僕はそれこそ悲しいけど?てか、君みたいな情熱的な女がやりたいことも好きだった男も放り出して、ぬくぬくと生きていけるんか?」
「今は、それなりに、充実してますから。」
ギュッと手を握り締め、〇〇は顔を反らして吐き捨てた。保科の顔に青筋が浮かぶ。剣呑な笑みを浮かべ、保科は悟らせぬように臨戦態勢を取った。
「へぇ〜、まだ意地張るんや。」
言い終わると同時に、一歩下がって素早く〇〇の足元を払う。完全に油断していた〇〇は目を白黒させるも、キッと表情を変えて受け身をとる。パンツコーデのオフィスカジュアル。両手を床についたまま、淡い色のパンプスを履いた足が保科を蹴り上げる。保科は苦も無く腕でガードすると、そのまま足首を掴み膝をついて距離を縮める。仰向けで開いた脚の間に割って入り、身を寄せる姿は客観的に見て非常によろしくない。
「僕のこと好きじゃないの?僕は君のこと好きだけども。傍に戻ってきてくれたら、嬉しいけどなぁ〜」
「ん、く、ぅ゙〜!」
耳まで顔を赤くして空いた足で蹴りつけると、それをヒョイと躱してカラカラ笑う。
「なはは、ほら、1本とってみ!」
元来の負けず嫌い。してやられてアッサリと挑発に乗った〇〇は立ち上がって向かっていく。軽い組手で憂いを発散させてやるつもりが、元々技術も高い〇〇との立ち合いは存外に白熱した。踵の高い靴で足元が悪いことを考慮しながら適度に手を抜いてやるのは骨が折れる。ブランクを感じなせない動きでしなやかな四肢を奮う〇〇は、まるで猫科の猛獣のようだった。
続く攻防に汗が滲んできた頃、保科は潮時かと再び〇〇を床にうつ伏せに押さえつける。
「はぁ、は、んっ、」
背中で腕を掴まれ荒く息をする姿に保科はなんとなく興奮する。加えて、衰えを感じさせない〇〇に喜ばしくなり、耳元に顔を寄せた。
「全然やれてるで、自分。これで断る理由はなくなったな?」
囁く声にふるりと身を震わせ、〇〇は喉を鳴らした。
「そいで、答えは?」
息を整えていく間、汗ばんだ肌が冷えていく。久々に思いっきり体を動かしたからか、押さえられているというのに少し爽快感を感じる。
「…引き継ぎがあるんで、来期からでお願いします。」
「充分。で、僕のことは?」
「…」
「僕のことも、来期からなん?」
「……ゔ、…っ〜、好きです、好きですよ!」
保科は赤く染まった耳にチュッとキスを落とした。〇〇はもうどうにでもなれと瞼を閉じる。纏っていた靄を払拭する、まではいかずとも。憧れの人から向けられる熱意を肌で感じて断れるほど、〇〇は意固地でいられなかった。
後日、再びの転属により惜しまれながらも総務部に別れを告げ、〇〇は防衛隊員に復帰を果たした。亜白は非常に喜び、保科の受け持つ小隊への配属を快諾した。
「もっと、重心を落として。」
「くっ!」
「駄目です。それじゃ、簡単に態勢が崩れますよ。こんな風にっ。」
「い゙っ、てぇ〜、」
腕のリハビリを続けつつも、同小隊に所属する隊員達をバリバリしごいている。その1人である日比野は後頭部をさすりながらよろよろと身を起こした。
「っ、すみません。大丈夫ですか?」
やりすぎたかと構えを解いて身を案じると日比野は苦笑しつつも平気だと返す。
「いてて、大丈夫っすよ。いや〜、流石は保科副隊長の彼女…」
何気無く言われた単語にピシリと〇〇は固まる。復帰してから誰にも伝えてない事実を何故彼が知っているのか。
「な、何故それを…」
「え?いや、皆知ってると思いますよ?〇〇さんが戻ってくる前、保科副隊長が…好きな女を口説いてくるって言ってたもんで…」
返事を待たずして外堀から埋められていた事実に、〇〇は驚愕しつつも仕方ないかと肩を落とす。憧れであり、恋しい人。結局、彼に強い想いを持つ自分はいつまでたっても彼の意中のままなのだろう。今までも、これからも。
淡灰色の空が覆う昼下がり、息絶え転がる同僚に寄り添うこともしないまま。私はただ、自己の生末だけを考えていた。
道は途絶えた。
行き着いた答えを知った時、同時に自分が人でなしであることも悟ったのだ。
「〇〇さ〜ん。」
ガコンッ。自販機の取り出し口からコーヒーを取りながら、振り返った先。とぼとぼとした足取りで歩いてくる同僚に笑みを返してやる。
「主任にどやされましたか?」
「すご…なんで分かるんですか…」
「今日は朝から機嫌悪そうだったんで。そろそろかと思って逃げちゃいました。」
部署の空気が悪かったのは朝からで、ヤニ切れを起こす昼前頃に誰かしらに八つ当たりを始める未来は容易に想像できた。今回の標的であるこの同僚には、同情を禁じ得ない。
「察知能力〜」
「環境による要因と行動パターンを把握しておけば、事前に回避するのは意外と簡単ですよ。怪獣と一緒です。」
「流石は元隊員…」
「あはは、下っ端止まりでしたけどね。」
現場に立つ戦闘員から裏方として支える総務部へ転属をしたのは、もう2年前のこと。肉体労働しか経験の無い身での切り替えには不安しか無かったが、続けていれば慣れるものだ。この同僚との付き合いも浅くなくなりつつある。不憫に思い、飲み物ぐらい奢ってやろうと自販機に追加の小銭を入れた。
「思いのほか短く済んで良かったですね。」
「いや、そうなんすよ。マジで保科さんが来て良かった〜…」
同僚が好む飲料のボタンを押そうとして、ボタンから視線をあげる。
「…副隊長が?」
「そうそう。なんか〇〇さんに用があったみたいで、いるか〜?って顔出しに来ましたよ。おかげで主任もタジタジしちゃって、どうにか逃げれました。」
「こんな時間に、珍しいこともありますね。」
「繁忙期だし、はやめに休憩入ったのかもって伝えたらちょっと探してみるって言ってましたよ。」
「…なんの用だろ。」
私用のスマホを取り出し確認するが、連絡は来ていない。
「保科さんと〇〇さんって、同じ部隊だったんですよね?」
「まぁ…新入りの頃は直属の小隊でしたね。」
彼の小隊にいたのは1年そこらで、下の代が入ってからは別小隊に異動した。熱い思いを滾らせ、彼の背を追っていた日々が懐かしい。いっぱしの防衛隊員としての目標と、それ以上の感情。併せ持った渦中が生み出す、青臭い執着を割り切るのにはかなりの時間を要したものだ。今となっては憧れの人であるが、今でも岐点に立った時、彼の事を思い出す。彼ならどうするだろうかと考えて、浅慮にも連絡をしそうになってしまう。そのたびに自分なりの答えを出して前に進む。後方への転属願いを出したとき、〇〇を強く引き留めたのは保科だった。振り切って背を向けてきた手前、今更何をと思われるだろう。最後に連絡を取ったのは、いつだったか。
そんな保科が〇〇に用があるという事実に、起伏する心を悟られたくなくて冷めた返答をする。よく冷えた缶を手渡すとパアッと顔を明るくして同僚は大袈裟に頭を提げる。
「あざっす!…でも戻ってきてほしい、とかだったら激アツじゃないですか?」
「まさか。わざわざ私を呼び戻さずとも、今は優秀な人がわんさかいるんでしょ?」
今期の入隊者達が粒揃いであることは、風の噂に聞いている。万年人手不足といえど、退役者を呼ぶほどではないだろう。
「それに戻った所でくそのやくにも立ちませんよ。」
「…そーいう言い方するとこ、元隊員っぽいですよね。」
ほんの少し興奮気味に言う同僚に乾いた笑みを向ける。粗野な言葉選びは前に保科からも注意を受けた。防衛隊員の品位を下げないためにも気を付けなくては。
「ほんまに、言い方なぁ。」
ビクリと肩を揺らした同僚にそちらを向くと、背後に話題にしていた人が立っていた。私もかなり驚いたが。
「びっ、くりしたぁ〜」
「すまんすまん。休憩中やった?」
「あ、いえ…じゃ、私はこれで。」
休憩に入るかどうか、微妙な時間。曖昧な返事をした同僚はチラリと私を見てから、ペコリとどちらに向けたか分からないお辞儀をしてそそくさと去っていった。残された私達の空気感に、なんともいえない微妙さを覚える。なんと声をかけたものか、相変わらず胡散臭く見えるニコニコとした表情を浮かべる人だ。現在の同僚達に向けるのと同様の挨拶をするのも違う気がして、右手を目線より少し上に上げる。
「…お久しぶりです、保科副隊長殿。」
「おん、久しぶり。そんなかしこまらんでええよ。」
ビシッと佇まいを直した私を制する彼は、隊舎にいる時より緩い空気を纏っている。
「ま、隊員にも品格っちゅーもんがあるんや。気いつけや。」
「は、申し訳ありません。」
「かったいなぁ〜…ええて、もう。」
そうは言っても身に染み付いた挙動は簡単に抜けないものだ。ましてや彼を前にすると、現役だった頃の姿勢が意図せずとも滲み出す。体だけでなく、心の在り方でさえも。
血熱沸き立つあの頃の自分が戻って来るようだった。高鳴るの胸を意識的におさめながら本題に入る。
「本日はどういったご要件で?」
「ここじゃなんだし、落ち着いて話せるとこ行こか。」
了承もまたず踵を返して歩いてくいく背中から、彼の部下であった頃を思い出す。立場的には今も彼の方が上なので、部下であることに違いはないのだろうが。付いていった先は、室内演習場の一角。訓練機器は出されておらず、天井に並ぶ照明が広々とした施設内を照らしている。
「懐かしいやろ?」
立ち止まり、ポケットに両手を突っ込んだまま振り返る保科。現職で通う棟を離れた時、どこまで連れて行かれるのかと怪訝に感じたが。まさかこんなところまで来ることになるとは。
施設内に窓は無く、遠くで空調の音がする。昼間だというのに、照らす光源が人工的なものだけだからか。時間間隔が曖昧になる不思議な心地が、遠いと言うにはさして時の経たない過去を思い起こす。
「単刀注入に言うけど。戻ってこい、〇〇。」
どこへなどと、聞かずともわかった。防衛隊員が主軸に使用する施設へ足を踏み入れたときから、同僚の推測が当たっているかもしれないとは頭の隅で考えていたが。まさか的中することになろうとは。深呼吸して瞼を伏せる。嬉しかった。震えるほどに、嬉しかった。同時に、腹の底から嫌悪が湧く。それは自分に対して。
「…理由を伺っても?」
「単純な話やで。優秀な人材を後方に回すほど、うちには余裕が無い。」
「退役者を引き摺り出すほど、逼迫していないのでは?今は良い人材が揃ってると聞いてます。」
「次期小隊長が何言ってんねん。あんな大怪我してなけりゃ、今頃は他部隊の副隊長に引っ張られてたやろ。」
目を合わせられなかった。右腕の古傷がジンと疼く。肘を上げ、ダラリと下げたままの右手を掲げて見せる。
「無理です。動かないんですよ、私の手は。」
服の袖に隠れて見えないが、この腕には肘の関節下から右手首にかけて大きな古傷がある。2年前に決行された作戦にて、私が所属していた小隊は帰還時に運悪く新たに現れた怪獣と接触した。中型、フォルティチュードは大怪獣とまではいかずとも高い数値を示していた。他の小隊の援護を待つ暇はなく、殆ど刺し違える形で倒した当時の生き残りは私だけだ。
「経過、聞いてるで。」
眉をひそめて腕を下げる。
「うちの隊長が人情深いんは、自分も知ってるやろ。」
「…行動力があるのは良いことですが。褒められたことではないですね。」
防衛隊お抱えの医療部には今でも世話になっている。長く世話になっているし、掛かり付けを変えるのも面倒だからと担当医の好意に甘えていた結果がこれだ。元部下の、それも一般兵の経過まで気に掛けているとは、とんだお人好しだ。後遺症の残る深手を負った右手ではもう銃を握ることも、引き金を引くことも叶わないから。自分に出来ることはもうないからと伝えた時の彼女の表情を、今でも忘れられない。
「リハビリ頑張ってるみたいやん?」
「物を握るとまだ痺れるんです。こんな状態の人間を戦場に戻すほど、亜白隊長に心が無いとは思えませんが。」
「そらそうやろ。これは僕の一存だし。」
「…酷い人ですね。どんな神経してればそういう結論になるんですか。」
「君が一番分かってると思うけど?」
無機質な色合いの床から視線をあげる。ニッと笑う口元に見える八重歯が憎らしい。
「あん時は、君が誰よりも熱いもんを持ってた。」
「…昔の話です。」
「口には出さなかったけど。誰よりも強くなってやるーって、全身全霊で僕の後ろついてきてたなぁ。」
「生き残ることに必死でしたから。」
「他の誰よりも僕の言うことに愚直に頷いて、から回ることもあったけども。」
「あの時はっ、若くて未熟だったんです!」
段々と恥ずかしくなり、言い返す声に力が入る。
「なんで君が僕の小隊から移されたか知ってるか?」
「し、知らなくていいです。」
「君は僕を信頼しすぎてるから。他のやつの下につけて色んな考えを学ばせるべきだって亜白隊長が言い出したんよ。賢い子を愚直なままにしておくのは勿体無いから、僕も頷いたんやけど。」
饒舌に語る保科副隊長の言葉に、顔が熱くなる。向こう見ずさを自覚していたとはいえ、周りからの評価を改めて聞くといてもたってもいられなくなってくる。
「あんなことになるなら、僕の下に置いたままにすればよかったって。今でもたまに思うんよ。君の言う通りかもなぁ。…僕は酷いやつやろ?」
ありのままを聞かされ立ち尽くす私とゆっくり距離を詰めると、サラリと髪を撫ぜられる。見下ろす瞳はいつものように笑っていない。
「この先、もっとでかい脅威が来るかもしれん。君みたいな実力のある奴が必要や。」
みはった眼が歪む。そんな風に心を砕いてくれてることを、今更知りたくなかった。だからこそこの人の傍には、防衛隊には戻りたくないと思う。
「私はあの時、仲間達のそばで死を悼むよりも…、自分の隊員としての生命線が切れたことを嘆きました。」
「うん。」
「戦えなくなるかもしれないことを、貴方の背をもう追えないことが何より辛いと思った。そんな自己中心的な人間が必要だとは思えません。」
誰しもが何かを守ろうと立つ防衛隊に、利己的でいる自分は相応しくない。そう悔いている時点で、懸念点は払えていると同然なことに何故気が付かないのか。
亜白は保科に嬉しそうに語っていた。〇〇の経過は順調にで、リハビリも隊員に復帰を目指す過程の者が受ける内容をこなしている。口では戻らない事を掲げながらも、その志を諦めきれていないのだ。
絶望を知っている。それでいてまだ心は折れていない。彼女に必要なのは差し伸べる手などではなく、きっかけだ。
天邪鬼めと呆れながら、保科は考えを改める。大義を掲げたところで彼女は首を縦に振らないだろう。なら、もっとなし崩しでいってしまったほうが可能性はありそうだ。
「僕は可愛がってた部下が生きてて嬉しかったけど?」
率直な感想に揺らいだのを見逃さず、保科は畳み掛ける。よく気が付き状況を見ることに長けた感性を持っているくせして、この女に遠回しな言葉は伝わらないのだ。
「たまに会うと嬉しそーに駆け寄ってくる子がいなくなったんは、結構寂しいもんやで。君、辞めてから連絡のひとつもして来ないし。」
「…だって、わざわざ話すこともないし。」
「分からんないん?僕、君のことが好きやねんけど。強くて可愛い子に、手元に戻って来てほしいな〜って、思ってるんだけど?」
困惑を示して見上げる顔が、徐々に薄赤く染まっていく。
「普通、大事な人には戦ってほしくないものでは?」
「君はそうじゃないやろ。一般人になって戦えなくなった君がどこぞで死んだら、僕はそれこそ悲しいけど?てか、君みたいな情熱的な女がやりたいことも好きだった男も放り出して、ぬくぬくと生きていけるんか?」
「今は、それなりに、充実してますから。」
ギュッと手を握り締め、〇〇は顔を反らして吐き捨てた。保科の顔に青筋が浮かぶ。剣呑な笑みを浮かべ、保科は悟らせぬように臨戦態勢を取った。
「へぇ〜、まだ意地張るんや。」
言い終わると同時に、一歩下がって素早く〇〇の足元を払う。完全に油断していた〇〇は目を白黒させるも、キッと表情を変えて受け身をとる。パンツコーデのオフィスカジュアル。両手を床についたまま、淡い色のパンプスを履いた足が保科を蹴り上げる。保科は苦も無く腕でガードすると、そのまま足首を掴み膝をついて距離を縮める。仰向けで開いた脚の間に割って入り、身を寄せる姿は客観的に見て非常によろしくない。
「僕のこと好きじゃないの?僕は君のこと好きだけども。傍に戻ってきてくれたら、嬉しいけどなぁ〜」
「ん、く、ぅ゙〜!」
耳まで顔を赤くして空いた足で蹴りつけると、それをヒョイと躱してカラカラ笑う。
「なはは、ほら、1本とってみ!」
元来の負けず嫌い。してやられてアッサリと挑発に乗った〇〇は立ち上がって向かっていく。軽い組手で憂いを発散させてやるつもりが、元々技術も高い〇〇との立ち合いは存外に白熱した。踵の高い靴で足元が悪いことを考慮しながら適度に手を抜いてやるのは骨が折れる。ブランクを感じなせない動きでしなやかな四肢を奮う〇〇は、まるで猫科の猛獣のようだった。
続く攻防に汗が滲んできた頃、保科は潮時かと再び〇〇を床にうつ伏せに押さえつける。
「はぁ、は、んっ、」
背中で腕を掴まれ荒く息をする姿に保科はなんとなく興奮する。加えて、衰えを感じさせない〇〇に喜ばしくなり、耳元に顔を寄せた。
「全然やれてるで、自分。これで断る理由はなくなったな?」
囁く声にふるりと身を震わせ、〇〇は喉を鳴らした。
「そいで、答えは?」
息を整えていく間、汗ばんだ肌が冷えていく。久々に思いっきり体を動かしたからか、押さえられているというのに少し爽快感を感じる。
「…引き継ぎがあるんで、来期からでお願いします。」
「充分。で、僕のことは?」
「…」
「僕のことも、来期からなん?」
「……ゔ、…っ〜、好きです、好きですよ!」
保科は赤く染まった耳にチュッとキスを落とした。〇〇はもうどうにでもなれと瞼を閉じる。纏っていた靄を払拭する、まではいかずとも。憧れの人から向けられる熱意を肌で感じて断れるほど、〇〇は意固地でいられなかった。
後日、再びの転属により惜しまれながらも総務部に別れを告げ、〇〇は防衛隊員に復帰を果たした。亜白は非常に喜び、保科の受け持つ小隊への配属を快諾した。
「もっと、重心を落として。」
「くっ!」
「駄目です。それじゃ、簡単に態勢が崩れますよ。こんな風にっ。」
「い゙っ、てぇ〜、」
腕のリハビリを続けつつも、同小隊に所属する隊員達をバリバリしごいている。その1人である日比野は後頭部をさすりながらよろよろと身を起こした。
「っ、すみません。大丈夫ですか?」
やりすぎたかと構えを解いて身を案じると日比野は苦笑しつつも平気だと返す。
「いてて、大丈夫っすよ。いや〜、流石は保科副隊長の彼女…」
何気無く言われた単語にピシリと〇〇は固まる。復帰してから誰にも伝えてない事実を何故彼が知っているのか。
「な、何故それを…」
「え?いや、皆知ってると思いますよ?〇〇さんが戻ってくる前、保科副隊長が…好きな女を口説いてくるって言ってたもんで…」
返事を待たずして外堀から埋められていた事実に、〇〇は驚愕しつつも仕方ないかと肩を落とす。憧れであり、恋しい人。結局、彼に強い想いを持つ自分はいつまでたっても彼の意中のままなのだろう。今までも、これからも。