月下美人の横顔
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午前7時。
昨夜はあんなに長いこと居座った部屋だが、自分で扉を開けるのは初めてで。いやに重圧で敷居の高そうなこの扉を開けるには、少しだけ勇気がいるような気がした。一応、防衛隊において現在最強の男が住まう部屋なのだ。本来はそれが正しい反応なのかもしれない。
「失礼します。」
雨宮は戸を開いて中に入る。小綺麗に片付いていた筈の部屋は少々散らかっていた。テーブルには食べ散らかしたピザの空箱と、封を切った飲み物が置きっぱなし。横目に見ながら、雨宮は部屋の中央に向かい、しゃがみ込む。フローリングに雑に敷かれた布団の上。丸まるように、部屋の主が寝ていた。雨宮は耳に髪をかけ床に手を着くと、眠る男の耳元に顔を寄せる。
「鳴海隊長。予定より早いですが、おいとまさせていただきます。」
囁くような小さい声。耳にかかる吐息がくすぐったいのか鳴海は身をよじる。
「ん…」
「またそのうち、遊んで下さいね。」
子供に掛けるような柔らかな声。雨宮はゆっくり立ち上がると、部屋を出ていった。扉が閉まって数秒後、鳴海はパチリと瞼を開ける。徐々に赤く染まる顔。
「昨日はあんな声で喋らなかったろ…」
深夜に雨宮が退室した後、鳴海は明け方までゲームに熱中していた。ふと見た時刻が起床時間に迫りつつあることを知り、布団に潜ってまどろんでいたのだ。扉が開く音に、鍵を締めなかったことを後悔した。どうせ長谷川だろうと高を括り、無視を決め込んでいたのだ。完全な不意打ちにすっかり目が冴えてしまった鳴海は、一睡もできずに朝を迎えることとなる。
基地の入り口を出た少し先にある駐車場。目当ての人物はすぐに見つかる。近くまで行けば車により掛かるその人は片手を上げて挨拶する。
「おはようさん。」
「おはようございます、保科副隊長。わざわざ迎えに来て頂き、ありがとうございます。」
「気にせんでええ。」
敬礼を添えた朝の挨拶に、保科はあしらうように手を振りかえす。運転席の扉を開けて乗り込むと、保科は助手席の扉を開けた。後部座席に座るつもりであった雨宮は微かに驚いたが、ペコリと頭を下げるとすぐに乗り込む。早朝、雨宮は保科のモーニングコールで目を覚ました。これから迎えに行くので準備するように。端的に伝えられた言葉が寝起きの脳みそに浸透する頃には、電話は切られていた。
車は滞りなく発進される。どうしてこんな朝早くに。そう質問する前に保科が会話を始めた。
「残念やったなぁ…折角のお出かけやったのに。」
開いたままの口を一度閉じる。
「…まったくです。でも、ご心配なさらず。被害にあったのは帰り際だったので。それなりに遊べましたよ。」
「あ、そうなん?どこいったん?」
「中華街と赤煉瓦倉庫です。肉まんとクレープとタピオカと苺タルトを食べました。」
「めっちゃ食べたやん。昼飯食べてから行ってたよな?」
「えぇ、勿論。空腹では歩けませんから。」
保科は大声で笑った。
「君、やっぱおもろいなぁ。…満喫できたようで良かったわ。色々心配だったんよ。」
雨宮は視線だけを保科に向ける。
「色々、とは?」
「んー。折角の休日が潰れてしもた事と、君自身が無事かどうかって事。お友達もな。」
安心した。そう口に出しているかのような安堵の声。雨宮は昨夜の電話を途中で切ったことが、急に申し訳なくなってきた。
「…ご心配をおかけしました。」
「アハハ、しおらしいやん。」
「…別に、そんなことありません。」
雨宮は気恥ずかしさから顔を窓に向ける。流れる景色を眺めながら、むず痒い感情をやり過ごす。
「でも報連相はしっかりせなあかんで。長谷川さんから連絡あったときは何事かと思ったわ。」
「それは、申し訳ございませんでした。」
「君からの連絡はいつまで経ってもないし、寮にも帰ってもこないし。やっとこさ連絡来たと思えば違反の報告も受けたしな。」
違反とは銃の持ち出しのことだろう。雨宮がいたたまれなくなりつつあるのを知ってか知らずか、保科は話を続ける。
「そんで。なんであないに遅くなったん、連絡。」
「事情聴取が長引きまして。」
「今朝な、基地に挨拶行った時に長谷川さんと少し話したんよ。」
沈黙。
すべて分かってて言っているのだろう。雨宮は諦めたように溜息をつくと、後部座席にもたれながら白状した。
「鳴海隊長とゲームしてました。そしたら、思いの外ハマってしまって連絡が遅れました。これで満足ですか?」
「…随分な開き直り方やん。」
心なしか、保科の顔には青筋が立っているように見えた。
「怪我もしてるって聞いて、えらい心配したのにゲームって。長谷川さんから聞いたときはえらい腹が立ったわ。君、僕のこと馬鹿にしてる?」
すべて筒抜けだったらしい。予想以上にご立腹の保科に雨宮は黙り込む。自分は躊躇無く他人に怒りや不平不満を向けるが、逆の立場には勿論慣れていない。彼女の周りの人間は雨宮に甘い者が多い。亜白や保科がそうだからだ。だからこういうときの対処法を、雨宮は知らない。
「あー…、改めて、申し訳ございませんでした。」
言葉を失いかけながら、結局彼女が思いついたのは謝罪だった。黙る保科。気まずい空気が狭い社内に満たされる。
「…怪我の具合は?」
「かすり傷です。」
「顔はせやろな。腕と膝は。」
長袖長ズボンだというのになぜ分かったのか。長谷川はすべてを話したようだ。伝わってないことが無いと思った方がいいなと、認識を改めながら素直に答える。
「擦り傷です。傷口が大きかったのでそれなりに血は流れましたが、職務に支障が無い程度です。若干痛みますが、数日もすればそれも良くなるでしょう。」
少しの間。保科は口を開いた。
「…生きてて安心したでほんまに。」
叱りながらも安堵する保科。若干穏やかになった口調に雨宮も安堵した。余裕の戻った雨宮は純粋な疑問を口にする。
「保科副隊長、何故そんなに私を心配なさるんですか?」
「なんでって君…」
「こんな朝早くに迎えに来てくださった手前ではありますが。人の入れ替わりの多い仕事でしょう。そこまでお心を砕かずとも大丈夫ですよ。」
暗に人がよく死ぬという意味合い。心遣いを無碍にするような冷たい言葉。しかし、保科はさほど不快に思わなかった。保科自身も良く理解しているから。そうでなければ長くこの仕事は続けられない。雨宮でなければと、考えてみる。彼女でなければここまで心配し、直接自分が足を運んだだろうか。
「んー…そう言われて見れば、なんでやろなぁ。」
雨宮は黙って保科の返事を待つ。保科の中で答えは上手くまとまっていなかった。しかし分かっていることが1つある。彼女でなければ、来なかったかもしれない。
「…君が危なっかしいからかな。」
「はい?」
「戦闘時も、人と接するときも。色々危ういんよなぁ、君。見ててヒヤヒヤするで。」
「なんですか、それ。駄目なやつだと思われてます?」
「そういうことじゃない。ただなぁ…てか自覚ないん?」
「ありますよ、多少は。ですが、これが私なので。」
「…ほんに、頑固者やなぁ。」
保科は乾いた笑いを溢した。
「時には折れて懐の広さも見せてかないとな。」
「有益さは無いと思いますが。」
「君もいつか、部下を引っ張る立場になる。そん時にきっと、得することもあるで。」
「でしたら小隊長にでも昇進した際に考えますよ。」
自分にはまだ関係のない話だ。雨宮はそう言い、興味を失ったように窓際にもたれかかる。
「案外、すぐかもしれんよ?」
午後14時。
呼び出された雨宮は時間ピッタリに隊長室を訪れた。ノックを数回、中からの返事を聞いてドアを開く。室内にはいつも通り亜白の姿がある。執務机から顔をあげると微笑んだ。挨拶を手短に、綺麗に背筋を伸ばして立つ雨宮。
「お帰り、雨宮。昨日は災難だったな。」
「とんでもございません。」
視線を逸らす雨宮。だから、亜白がどんな顔をしていたかは見えなかった。
「無事で良かった。」
その言い方は朝聞いた保科と似ていた。たった一言。それでも伝わる純粋な気持ち。雨宮は無性に嫌味を口にしたい心地になった。
「休日に呼び出してすまない。」
「いえ、問題ありません。」
怪獣被害にあったということで、念の為にと保科が提案してくれたのだ。尚更、朝迎えに来なくても良かった気がするが。とはいえ、休暇に呼び出すなど余程重要な要件があるのたろう。
雨宮は相変わらず亜白には思うところがある。それでも職務を疎かにするような姿勢は見せなかった。保科の説教の賜物だろう。仕事上の関係ですから。そう思わせるような態度が拭いきれないのが玉に瑕だが。
「どうだ?最近は。」
「…どう、と申されましても。特に変わった事柄はございません。」
「他の隊員達からはよく頑張っていると聞いている。」
「恐縮です。」
「弛まぬ努力を続け、戦果を上げ続けている。それはとても喜ばしいことだ。だが、突貫しすぎるのがたまにキズだな。」
「…お説教ですか?」
じろりと持ち上がる視線はやや不機嫌気味だ。フッと息を吐いて笑う亜白。
「辞令だ。来月一日より、小隊長に任命する。」
細められた目が驚きに、丸くなる。
「1人で前に進むのではなく、後ろについてくる人間を振り返るのも今後の仕事だ。心して掛かるように。」
「…了。」
「腑に落ちないか?」
「いいえ。命令であれば従います。」
「雨宮らしいな。」
ジッと亜白をみる雨宮。右手を挙げ、静かに口を開く。
「個人的な質問をしても?」
「あぁ、構わん。」
「今回の昇格は、亜白隊長の一存でしょうか?」
「何故だ?」
「いえ。そうであるならば、どういう思いで私を小隊長に任命されたのかと。純粋に疑問を感じたまでです。」
感情の無い凪いだ表情。その顔の下に一体どのような濁りを隠しているのか。どんな思いを自分に向けているのか。この2年、亜白も彼女に向き合う準備は出来ていた。
「颯鳥さんの事は、本当に申し訳なかった。」
目を閉じ、頭を下げる亜白。
「謝っても謝りきれない。私にもっと力があれば、あのような結果にはならなかった。」
「…謝ってほしいとは、言ってないですけどね。」
亜白は顔を上げ、真っ直ぐに雨宮をみる。
「私個人としては、雨宮を昇格させることに思うところが無いとは言えない。本当は前線で戦わせたくもない。」
凪いだ表情がピクリと軋む。
「しかし防衛隊のいち隊長として、能ある者に楽をさせる選択は出来ない。…この国を守る為に、君の力が必要だと判断した。」
「…大袈裟ですね。私にそこまでの力はありませんよ。」
「何と言われようが、これが今の私が出した答えだ。国の防衛の要は私一人では担えない。だから、力を貸してくれ。」
黙ったまま、目を伏せる雨宮。紛うことなき本心と誠意。亜白なりの覚悟。そこには嘘の欠片もないだろう。その真っ直ぐな意思が、善意が、決意が、眼差しが。今は亡き兄を思い出させる。きっと彼もそうだった。そうやって、死んでいったのだ。
「命令は聞きます…仕事ですから。ですが、守ってみせるなんて、言わないでくださいね。私は自分の命の責任は、自分で持ちますんで。」
一方的にそう告げると、雨宮は敬礼して部屋を出た。亜白の顔を見なかった。部屋を出た先、扉の横には保科が控えていた。じろりと見上げ、すぐに目線を下ろす。
「良いご趣味ですね。」
「また亜白隊長を虐めたんか。」
「別に。たいした話はしてませんよ。」
仮にも辞令をたいしたことなど無いと言う雨宮。その捻くれ具合にはほとほと困り果ててしまう。
「亜白隊長が殺したんか?お兄さんのこと。」
歩いて行ってしまおうとした雨宮が、足を止める。
「いつも親の仇みたいな目で見とるやん。」
2年という月日がすぎた。2人を側で見守る保科に、どうにかしてやりたいという気持ちが芽吹くには充分な時間。だから踏み込んだ。良い機会だと思ったのだ。古傷を抱える上司と、意固地な部下を良い加減、並んで歩かせてやりたかった。
「…似たようなものです。」
「何?」
「私の兄は亜白隊長に、防衛隊に殺されました。」
ぱちりと目を開く保科。雨宮は振り返らない。顔を見なくともその言葉には、根深い心の闇が垣間見える。
「防衛隊への献身こそが兄の生きがいであり、国を守る為にその命はあったようです。家族との約束なんかよりは、余程重要な事柄だったのでしょうね。」
「雨宮…」
「単純な理由です。知らないところで家族が死んだ。いまだにその事実に腹が立ち、守るとか言いながら兄の最後を看取ったあの人が許せないだけです。」
昨夜はあんなに長いこと居座った部屋だが、自分で扉を開けるのは初めてで。いやに重圧で敷居の高そうなこの扉を開けるには、少しだけ勇気がいるような気がした。一応、防衛隊において現在最強の男が住まう部屋なのだ。本来はそれが正しい反応なのかもしれない。
「失礼します。」
雨宮は戸を開いて中に入る。小綺麗に片付いていた筈の部屋は少々散らかっていた。テーブルには食べ散らかしたピザの空箱と、封を切った飲み物が置きっぱなし。横目に見ながら、雨宮は部屋の中央に向かい、しゃがみ込む。フローリングに雑に敷かれた布団の上。丸まるように、部屋の主が寝ていた。雨宮は耳に髪をかけ床に手を着くと、眠る男の耳元に顔を寄せる。
「鳴海隊長。予定より早いですが、おいとまさせていただきます。」
囁くような小さい声。耳にかかる吐息がくすぐったいのか鳴海は身をよじる。
「ん…」
「またそのうち、遊んで下さいね。」
子供に掛けるような柔らかな声。雨宮はゆっくり立ち上がると、部屋を出ていった。扉が閉まって数秒後、鳴海はパチリと瞼を開ける。徐々に赤く染まる顔。
「昨日はあんな声で喋らなかったろ…」
深夜に雨宮が退室した後、鳴海は明け方までゲームに熱中していた。ふと見た時刻が起床時間に迫りつつあることを知り、布団に潜ってまどろんでいたのだ。扉が開く音に、鍵を締めなかったことを後悔した。どうせ長谷川だろうと高を括り、無視を決め込んでいたのだ。完全な不意打ちにすっかり目が冴えてしまった鳴海は、一睡もできずに朝を迎えることとなる。
基地の入り口を出た少し先にある駐車場。目当ての人物はすぐに見つかる。近くまで行けば車により掛かるその人は片手を上げて挨拶する。
「おはようさん。」
「おはようございます、保科副隊長。わざわざ迎えに来て頂き、ありがとうございます。」
「気にせんでええ。」
敬礼を添えた朝の挨拶に、保科はあしらうように手を振りかえす。運転席の扉を開けて乗り込むと、保科は助手席の扉を開けた。後部座席に座るつもりであった雨宮は微かに驚いたが、ペコリと頭を下げるとすぐに乗り込む。早朝、雨宮は保科のモーニングコールで目を覚ました。これから迎えに行くので準備するように。端的に伝えられた言葉が寝起きの脳みそに浸透する頃には、電話は切られていた。
車は滞りなく発進される。どうしてこんな朝早くに。そう質問する前に保科が会話を始めた。
「残念やったなぁ…折角のお出かけやったのに。」
開いたままの口を一度閉じる。
「…まったくです。でも、ご心配なさらず。被害にあったのは帰り際だったので。それなりに遊べましたよ。」
「あ、そうなん?どこいったん?」
「中華街と赤煉瓦倉庫です。肉まんとクレープとタピオカと苺タルトを食べました。」
「めっちゃ食べたやん。昼飯食べてから行ってたよな?」
「えぇ、勿論。空腹では歩けませんから。」
保科は大声で笑った。
「君、やっぱおもろいなぁ。…満喫できたようで良かったわ。色々心配だったんよ。」
雨宮は視線だけを保科に向ける。
「色々、とは?」
「んー。折角の休日が潰れてしもた事と、君自身が無事かどうかって事。お友達もな。」
安心した。そう口に出しているかのような安堵の声。雨宮は昨夜の電話を途中で切ったことが、急に申し訳なくなってきた。
「…ご心配をおかけしました。」
「アハハ、しおらしいやん。」
「…別に、そんなことありません。」
雨宮は気恥ずかしさから顔を窓に向ける。流れる景色を眺めながら、むず痒い感情をやり過ごす。
「でも報連相はしっかりせなあかんで。長谷川さんから連絡あったときは何事かと思ったわ。」
「それは、申し訳ございませんでした。」
「君からの連絡はいつまで経ってもないし、寮にも帰ってもこないし。やっとこさ連絡来たと思えば違反の報告も受けたしな。」
違反とは銃の持ち出しのことだろう。雨宮がいたたまれなくなりつつあるのを知ってか知らずか、保科は話を続ける。
「そんで。なんであないに遅くなったん、連絡。」
「事情聴取が長引きまして。」
「今朝な、基地に挨拶行った時に長谷川さんと少し話したんよ。」
沈黙。
すべて分かってて言っているのだろう。雨宮は諦めたように溜息をつくと、後部座席にもたれながら白状した。
「鳴海隊長とゲームしてました。そしたら、思いの外ハマってしまって連絡が遅れました。これで満足ですか?」
「…随分な開き直り方やん。」
心なしか、保科の顔には青筋が立っているように見えた。
「怪我もしてるって聞いて、えらい心配したのにゲームって。長谷川さんから聞いたときはえらい腹が立ったわ。君、僕のこと馬鹿にしてる?」
すべて筒抜けだったらしい。予想以上にご立腹の保科に雨宮は黙り込む。自分は躊躇無く他人に怒りや不平不満を向けるが、逆の立場には勿論慣れていない。彼女の周りの人間は雨宮に甘い者が多い。亜白や保科がそうだからだ。だからこういうときの対処法を、雨宮は知らない。
「あー…、改めて、申し訳ございませんでした。」
言葉を失いかけながら、結局彼女が思いついたのは謝罪だった。黙る保科。気まずい空気が狭い社内に満たされる。
「…怪我の具合は?」
「かすり傷です。」
「顔はせやろな。腕と膝は。」
長袖長ズボンだというのになぜ分かったのか。長谷川はすべてを話したようだ。伝わってないことが無いと思った方がいいなと、認識を改めながら素直に答える。
「擦り傷です。傷口が大きかったのでそれなりに血は流れましたが、職務に支障が無い程度です。若干痛みますが、数日もすればそれも良くなるでしょう。」
少しの間。保科は口を開いた。
「…生きてて安心したでほんまに。」
叱りながらも安堵する保科。若干穏やかになった口調に雨宮も安堵した。余裕の戻った雨宮は純粋な疑問を口にする。
「保科副隊長、何故そんなに私を心配なさるんですか?」
「なんでって君…」
「こんな朝早くに迎えに来てくださった手前ではありますが。人の入れ替わりの多い仕事でしょう。そこまでお心を砕かずとも大丈夫ですよ。」
暗に人がよく死ぬという意味合い。心遣いを無碍にするような冷たい言葉。しかし、保科はさほど不快に思わなかった。保科自身も良く理解しているから。そうでなければ長くこの仕事は続けられない。雨宮でなければと、考えてみる。彼女でなければここまで心配し、直接自分が足を運んだだろうか。
「んー…そう言われて見れば、なんでやろなぁ。」
雨宮は黙って保科の返事を待つ。保科の中で答えは上手くまとまっていなかった。しかし分かっていることが1つある。彼女でなければ、来なかったかもしれない。
「…君が危なっかしいからかな。」
「はい?」
「戦闘時も、人と接するときも。色々危ういんよなぁ、君。見ててヒヤヒヤするで。」
「なんですか、それ。駄目なやつだと思われてます?」
「そういうことじゃない。ただなぁ…てか自覚ないん?」
「ありますよ、多少は。ですが、これが私なので。」
「…ほんに、頑固者やなぁ。」
保科は乾いた笑いを溢した。
「時には折れて懐の広さも見せてかないとな。」
「有益さは無いと思いますが。」
「君もいつか、部下を引っ張る立場になる。そん時にきっと、得することもあるで。」
「でしたら小隊長にでも昇進した際に考えますよ。」
自分にはまだ関係のない話だ。雨宮はそう言い、興味を失ったように窓際にもたれかかる。
「案外、すぐかもしれんよ?」
午後14時。
呼び出された雨宮は時間ピッタリに隊長室を訪れた。ノックを数回、中からの返事を聞いてドアを開く。室内にはいつも通り亜白の姿がある。執務机から顔をあげると微笑んだ。挨拶を手短に、綺麗に背筋を伸ばして立つ雨宮。
「お帰り、雨宮。昨日は災難だったな。」
「とんでもございません。」
視線を逸らす雨宮。だから、亜白がどんな顔をしていたかは見えなかった。
「無事で良かった。」
その言い方は朝聞いた保科と似ていた。たった一言。それでも伝わる純粋な気持ち。雨宮は無性に嫌味を口にしたい心地になった。
「休日に呼び出してすまない。」
「いえ、問題ありません。」
怪獣被害にあったということで、念の為にと保科が提案してくれたのだ。尚更、朝迎えに来なくても良かった気がするが。とはいえ、休暇に呼び出すなど余程重要な要件があるのたろう。
雨宮は相変わらず亜白には思うところがある。それでも職務を疎かにするような姿勢は見せなかった。保科の説教の賜物だろう。仕事上の関係ですから。そう思わせるような態度が拭いきれないのが玉に瑕だが。
「どうだ?最近は。」
「…どう、と申されましても。特に変わった事柄はございません。」
「他の隊員達からはよく頑張っていると聞いている。」
「恐縮です。」
「弛まぬ努力を続け、戦果を上げ続けている。それはとても喜ばしいことだ。だが、突貫しすぎるのがたまにキズだな。」
「…お説教ですか?」
じろりと持ち上がる視線はやや不機嫌気味だ。フッと息を吐いて笑う亜白。
「辞令だ。来月一日より、小隊長に任命する。」
細められた目が驚きに、丸くなる。
「1人で前に進むのではなく、後ろについてくる人間を振り返るのも今後の仕事だ。心して掛かるように。」
「…了。」
「腑に落ちないか?」
「いいえ。命令であれば従います。」
「雨宮らしいな。」
ジッと亜白をみる雨宮。右手を挙げ、静かに口を開く。
「個人的な質問をしても?」
「あぁ、構わん。」
「今回の昇格は、亜白隊長の一存でしょうか?」
「何故だ?」
「いえ。そうであるならば、どういう思いで私を小隊長に任命されたのかと。純粋に疑問を感じたまでです。」
感情の無い凪いだ表情。その顔の下に一体どのような濁りを隠しているのか。どんな思いを自分に向けているのか。この2年、亜白も彼女に向き合う準備は出来ていた。
「颯鳥さんの事は、本当に申し訳なかった。」
目を閉じ、頭を下げる亜白。
「謝っても謝りきれない。私にもっと力があれば、あのような結果にはならなかった。」
「…謝ってほしいとは、言ってないですけどね。」
亜白は顔を上げ、真っ直ぐに雨宮をみる。
「私個人としては、雨宮を昇格させることに思うところが無いとは言えない。本当は前線で戦わせたくもない。」
凪いだ表情がピクリと軋む。
「しかし防衛隊のいち隊長として、能ある者に楽をさせる選択は出来ない。…この国を守る為に、君の力が必要だと判断した。」
「…大袈裟ですね。私にそこまでの力はありませんよ。」
「何と言われようが、これが今の私が出した答えだ。国の防衛の要は私一人では担えない。だから、力を貸してくれ。」
黙ったまま、目を伏せる雨宮。紛うことなき本心と誠意。亜白なりの覚悟。そこには嘘の欠片もないだろう。その真っ直ぐな意思が、善意が、決意が、眼差しが。今は亡き兄を思い出させる。きっと彼もそうだった。そうやって、死んでいったのだ。
「命令は聞きます…仕事ですから。ですが、守ってみせるなんて、言わないでくださいね。私は自分の命の責任は、自分で持ちますんで。」
一方的にそう告げると、雨宮は敬礼して部屋を出た。亜白の顔を見なかった。部屋を出た先、扉の横には保科が控えていた。じろりと見上げ、すぐに目線を下ろす。
「良いご趣味ですね。」
「また亜白隊長を虐めたんか。」
「別に。たいした話はしてませんよ。」
仮にも辞令をたいしたことなど無いと言う雨宮。その捻くれ具合にはほとほと困り果ててしまう。
「亜白隊長が殺したんか?お兄さんのこと。」
歩いて行ってしまおうとした雨宮が、足を止める。
「いつも親の仇みたいな目で見とるやん。」
2年という月日がすぎた。2人を側で見守る保科に、どうにかしてやりたいという気持ちが芽吹くには充分な時間。だから踏み込んだ。良い機会だと思ったのだ。古傷を抱える上司と、意固地な部下を良い加減、並んで歩かせてやりたかった。
「…似たようなものです。」
「何?」
「私の兄は亜白隊長に、防衛隊に殺されました。」
ぱちりと目を開く保科。雨宮は振り返らない。顔を見なくともその言葉には、根深い心の闇が垣間見える。
「防衛隊への献身こそが兄の生きがいであり、国を守る為にその命はあったようです。家族との約束なんかよりは、余程重要な事柄だったのでしょうね。」
「雨宮…」
「単純な理由です。知らないところで家族が死んだ。いまだにその事実に腹が立ち、守るとか言いながら兄の最後を看取ったあの人が許せないだけです。」
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