月下美人の横顔
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「次。」
宙を舞う人間。弾力性のあるマットに背を打ち弾む隊員が、うめき声を漏らす。
「次。」
足を払われ伏した隊員の頭の真横に、拳が叩き付けられる。短い悲鳴に顔色を変えぬまま、雨宮は次の者を呼ぶ。
ハリのある声と鍛えた四肢のぶつかる音。四方でペアになった各々が組手の鍛錬に励む中、雨宮との立ち合いを待ち並ぶ者らはどんよりとした空気を纏っている。
「小隊長、今日はより一層容赦ないですね。」
「何言ってる、毎日だよ。」
隊員同士のぼやきは正しく、今日に限った話ではない。失踪し発見されてから復帰するまでに約半月。復帰してからというもの雨宮は絶好調だった。
1週間足らずの長期休暇(入院)を終え、退院日に迎えに来たのは亜白だった。目があった瞬間、何も言わずに抱き締められた雨宮は不服そうな表情をしたが振りほどかなかった。人通りの多い大型病院の正面玄関にて、劇的な再開を果たしたであろう2人の姿を温かい眼差しで見る通行人達。それらに言い訳することもできずムシャクシャしようが心配をかけた手前、無碍にはできない。痺れを切らし、とっとと帰ろうと腕を引かれた亜白は驚いたがすぐに顔を明るくした。新幹線の2列シートに並ぶ2人に、温和な空気の老婆が何を勘違いしたのか、「姉妹かしら?仲が良いのねぇ。」なんて声を掛けた。発狂しそうになる雨宮に対し、亜白は否定するでもなく社交辞令を返していた。わざわざ訂正するのも面倒、にしては嬉しそうな表情は忘れられない。思い返すだけで苛立つことこの上ない。怒りのパワーを源に放たれる技は普段より数倍容赦が無い。嫌悪感とは違うその感情を受け入れるには、雨宮はまだ未熟だった。
「次!」
「小隊長、もう4周目ですよ。」
回ってきた順番の先頭で、諌める沖村は口元を引き攣らせていた。小隊メンバーを順番に相手取る雨宮は、多少時間差はあれどひっきりなしに動き続けており現在負けなしだ。
「なんですか?病み上がりの私に比べ、貴方達はまだまだ元気なはずでしょう。軟弱な発言をする暇があるならっ…」
食い気味な発言で今にも飛び掛かってきそうな憤りを見せるが、流石の雨宮も息を切らしている。顔を伝う汗が目に見える程だ。これはいかんと沖村は首を振る。
「10分ほど、休憩を挟みましょうよ。」
「不要です。」
「…皆、貴女にのされて負けっぱなしです。リフレッシュを兼ねて対策を考える時間を与えてはいかがです?ただ倒され続けるだけでは成長もクソも無いでしょ。」
提案と共に目を合わせること数秒、雨宮は頷きチラリと時計に視線をやる。
「分かりました、と言いたいところですが。…少し時間を押してしまいましたね。15分休憩を挟み、次の訓練に移ります。立てた対策は次の機会に発揮してください。」
「了。」
直後、全体に通る声で指示を出す雨宮。固唾をのんで見守っていた隊員達は感嘆の声を漏らす。まさに猛獣使い。散っていく隊員達を尻目に沖村は背を向ける雨宮の後を追う。
「ちょっとばかし、肩に力入りすぎてません?」
「…何故?」
「見ていてわからんほど、浅い付き合いじゃ無いでしょうに。」
沖村は水の入ったボトルを差し出す。素直に受け取り、汗を拭ったタオルを肩にかけたままキャップを開ける。容赦の無さはともかくとして、やはり普段より落ち着きが無く見える。いっそ冷徹とも言えるほどの鋭さが、今の彼女にはない。どこか熱く滾るそれは、怒りか否か。
「…保科副隊長と何かありましたか?」
「っぅ、ゲホ…」
噎せて水を零す雨宮。図星のような反応、しかしあまりにリアクションが顕著である。
「なんで副隊長だと思うんですか。」
「いや、見舞いに行った日ですよ。あの後だいぶ絞られたのかと…」
亜白と何かあったとしても、誰かとの諍いによる不機嫌を訓練に持ち込むタイプではない。沖村自身は雨宮の人間性をそう評していた。であれば、保科に前の作戦に関してお叱りを受けたか。己の未熟を良しとせず過度に励むタイプの人だからと、純粋な気遣いからの言葉。実際には彼の憶測は半分正解で、半分間違いだった。亜白に対して思うところと、もう半分は己の実力不足に対する焦り。もっと強くならなくてはと、訓練に打ち込んでいる間は忘れることが出来ていたが。予想外の方向から衝撃を与えられ、後回しにしていた問題をしっかり思い出してしまう。死角から攻撃を受け顔を強張らせる雨宮の反応は有り体で、沖村は自分の発言に確信を持つ。
「焦って突っ張らなくても、貴女は優秀なんだから。立場があるから厳しく言うでしょうが副隊長だって、貴女が邁進してることは分かってるでしょ。」
「うるさい。」
ピシャリと返された暴言に沖村は目を丸くする。説教臭くなったとは言え、攻撃的過ぎる返しだ。背伸びしてズイッと距離を詰めると雨宮は沖村をギッと睨む。
「あのセクハラ男に、そんな思慮深さがあるんならっ、…っ」
グッと言葉を詰まらせた顔はほんのり赤く染まっていた。
えっ、何その顔と問う間もなく。雨宮は顔を逸らすと小走りで去っていった。困惑からほんの少し立ち尽くしていた沖村に声が掛かる。
「おう沖村〜、調子はどや?」
「あっ、副隊長。」
背後から呼ばれた声に、ぞんざいな態度を取ってしまうがすぐに姿勢を整え敬礼する。
「様子見に来たんやけど、順調か?」
「はい。皆、この短期間でかなり動きが良くなりました。」
先の作戦においての反省。対小型怪獣戦への重点的な対策として、格闘訓練の枠を長くした事についてだろう。雨宮が復帰するまでは保科自ら全体に直接指導を入れていた事も幸いして、隊員達の能力は順調に底上げされている。
「なら良かったわ。んで、雨宮は元気そうか?」
「まぁ…はい。」
元気過ぎて困っています。心配せずとも非常に、いや非情に旺盛です。常ならば、ボコられる隊員達を思ってそんな感想を告げただろうが。つい先程まで話題に上がっていた保科を見て、つい微妙な反応をする沖村。曖昧な返答に保科は首をかしげた。
「なんや、やっぱ調子悪いんか?」
「いや、んなことは無さそうですが…」
段々と言い難い感じを出す沖村に対し保科はケロッとしている。あまりプライベートなことを聞くのもどうかと思うが、意を決して上司の為だと問うてみる。
「あの…雨宮さんになんかしました?」
「………なんかって?」
長い沈黙が答えであることを悟りながらも、率直に言う。
「セクハラとか…」
「いやいやいや、君が思うようなことはないて。…ま、ちょっと色々あったけども。」
保科は即座に片手を振って否定を示すが、続いた言葉に含みがある。沖村は少し後悔してきた。なんか、聞かなきゃ良かったかも。この世に完璧な組織は無く、起こり得る問題も多数存在するだろうが。こう、デリケートな部類に入る男女間の厄介事は、運悪く挟まれようもんならストレスが段違いなのだ。
「いや、俺は関係無いんで…いいんですけど…それってどうなんすか?」
いいと言う割には最終的に咎める沖村。年端もとまではいかないが、若い部下に手を出すのはどうなんだろうか。いや、お互いにフリーなら別にいいんだけども。問題は相手が雨宮だという点にある。濁しに濁された沖村の言い分に保科は誤解だと言う。
「ちゃうねん、あの…チューしただけだから。」
「うわっ…」
そこまで具体的には聞いてねぇよ、と沖村は顔で語る。この言い分だと付き合って無いっぽいことが何より厄介だ。
「プライベートなことにはあんま口出ししたくないですが…雨宮さんは結構純粋なんですよ?」
沖村からしてみれば雨宮は妹に近い存在だった。まだ自分も若い部類に入るとは言え歳を重ねれば、ついで付き合いが長ければそれらしい親しみを持つのも自然なことだと割り切っているが。実の兄の件も知っている手前、距離感には気を払っているとはいえ。流石にこれに関しては見て見ぬふりは出来なかった。出来れば彼女の傷付いた姿は見たくない。何より尊敬する上司である保科が軽々しい行いを、よりにもよって自身が所属する部隊の小隊長にしている姿など、なおのこと見たくない。
「知ってる。」
しかし即答した保科の様子を見て、沖村の心配は秒で吹き飛ぶ。後ろめたさも軽薄さも微塵もなく、心得ているという顔だった。なんだ、ちゃんとする気はあるのかと安心する。悪しからずっぽい関係ならもう言うことはない。言う必要もない。踏み込む必要さえない。考えてみれば雨宮の反応も嫌悪というより照れ隠しに近かった。他人の色恋に面倒はつきものである。これ以上聞きたくない、てか関わりたくない。問題が無さそうなことを察した沖村は、面倒くさくなり会話することを切り捨てた。
「…もういいです。」
「…ちが、違うんやて!」
「何が違うんですか!」
悪い方向に勘違いしてそうにも見て取れる沖村の態度に慌てる保科と、肩を掴まれ逃げようとする沖村。喚く2人に何事かとチラチラ視線が集まる中、冷めた声が響く。
「沖村隊員。こちらの準備が滞っていますので、とっとと来てください。」
「っ、了!」
これ幸いと逃げる沖村。低い声音に他の隊員達も慌ててその場を後に、次の訓練場所へ向かう。
隊員達の去った室内訓練場には2人だけが残された。
「…ようやっと見つけたわ。君、戻ってから顔も見せに来ないんやから。」
「べつに、タイミングが無かっただけです。」
ガッツリ目を逸らして言う雨宮に保科は苦笑する。立川基地に戻ってきてから2人きりで顔を合わせるのは初めてだった。遠目に見ることはあっても、特に会話をしようと近付くことはない。雨宮が避けていたからだ。
「そんな嫌だった?君から聞いたのに。」
「いっ…嫌とか…論点が違います。」
好意を持つかどうかの質問の先は、一切考えていなかった。端的に言えば、気になったから聞いた。完全なるノープラン。恋愛初心者の愚行。高田による回答、好意を伝えられてから考えたら?の先を好奇心によって自分自身で進めてしまった手前、対応策は皆無である。
「論点ってーと…何、手ぇ出された事について?沖村が言うにはそういうことらしいやん?」
一步一步と距離を詰める保科と、じりじりと後退する雨宮。
「僕的には、君にも気持ちがあるもんだと思ったんだけどなぁ〜」
笑った口の端に見える八重歯が、今日に限っては不穏に見える。緊張により下がる足に比べ、大きな歩幅が距離を詰める方が速く保科は雨宮を見下ろした。
「っ、き、勤務時間中ですよ!」
真っ当な意見を盾に狼狽する雨宮に、保科はうんうんと頷く。
「でもちゃんと話さなあかんやろ?君、逃げるしなぁ…」
「…」
ぐうの音も出ない事実。今まさに逃げ出す機会を伺っている雨宮は黙り込む。恋愛コンテンツの猛者、親友高田夏美ならばこういうときどうするのだろうか。したいようにしろとしか言わないだろう。いない人間に助力を求めだすのは、精神的に追い詰められた境地のひとつだ。
保科は俯く雨宮の耳に顔を寄せると、小声で言った。
「夜、ちょっと話そか。僕の部屋おいで。」
た、助けてくれ高田…
心の中で助けを求めるも、無論助力に応える返事は無い。
宙を舞う人間。弾力性のあるマットに背を打ち弾む隊員が、うめき声を漏らす。
「次。」
足を払われ伏した隊員の頭の真横に、拳が叩き付けられる。短い悲鳴に顔色を変えぬまま、雨宮は次の者を呼ぶ。
ハリのある声と鍛えた四肢のぶつかる音。四方でペアになった各々が組手の鍛錬に励む中、雨宮との立ち合いを待ち並ぶ者らはどんよりとした空気を纏っている。
「小隊長、今日はより一層容赦ないですね。」
「何言ってる、毎日だよ。」
隊員同士のぼやきは正しく、今日に限った話ではない。失踪し発見されてから復帰するまでに約半月。復帰してからというもの雨宮は絶好調だった。
1週間足らずの長期休暇(入院)を終え、退院日に迎えに来たのは亜白だった。目があった瞬間、何も言わずに抱き締められた雨宮は不服そうな表情をしたが振りほどかなかった。人通りの多い大型病院の正面玄関にて、劇的な再開を果たしたであろう2人の姿を温かい眼差しで見る通行人達。それらに言い訳することもできずムシャクシャしようが心配をかけた手前、無碍にはできない。痺れを切らし、とっとと帰ろうと腕を引かれた亜白は驚いたがすぐに顔を明るくした。新幹線の2列シートに並ぶ2人に、温和な空気の老婆が何を勘違いしたのか、「姉妹かしら?仲が良いのねぇ。」なんて声を掛けた。発狂しそうになる雨宮に対し、亜白は否定するでもなく社交辞令を返していた。わざわざ訂正するのも面倒、にしては嬉しそうな表情は忘れられない。思い返すだけで苛立つことこの上ない。怒りのパワーを源に放たれる技は普段より数倍容赦が無い。嫌悪感とは違うその感情を受け入れるには、雨宮はまだ未熟だった。
「次!」
「小隊長、もう4周目ですよ。」
回ってきた順番の先頭で、諌める沖村は口元を引き攣らせていた。小隊メンバーを順番に相手取る雨宮は、多少時間差はあれどひっきりなしに動き続けており現在負けなしだ。
「なんですか?病み上がりの私に比べ、貴方達はまだまだ元気なはずでしょう。軟弱な発言をする暇があるならっ…」
食い気味な発言で今にも飛び掛かってきそうな憤りを見せるが、流石の雨宮も息を切らしている。顔を伝う汗が目に見える程だ。これはいかんと沖村は首を振る。
「10分ほど、休憩を挟みましょうよ。」
「不要です。」
「…皆、貴女にのされて負けっぱなしです。リフレッシュを兼ねて対策を考える時間を与えてはいかがです?ただ倒され続けるだけでは成長もクソも無いでしょ。」
提案と共に目を合わせること数秒、雨宮は頷きチラリと時計に視線をやる。
「分かりました、と言いたいところですが。…少し時間を押してしまいましたね。15分休憩を挟み、次の訓練に移ります。立てた対策は次の機会に発揮してください。」
「了。」
直後、全体に通る声で指示を出す雨宮。固唾をのんで見守っていた隊員達は感嘆の声を漏らす。まさに猛獣使い。散っていく隊員達を尻目に沖村は背を向ける雨宮の後を追う。
「ちょっとばかし、肩に力入りすぎてません?」
「…何故?」
「見ていてわからんほど、浅い付き合いじゃ無いでしょうに。」
沖村は水の入ったボトルを差し出す。素直に受け取り、汗を拭ったタオルを肩にかけたままキャップを開ける。容赦の無さはともかくとして、やはり普段より落ち着きが無く見える。いっそ冷徹とも言えるほどの鋭さが、今の彼女にはない。どこか熱く滾るそれは、怒りか否か。
「…保科副隊長と何かありましたか?」
「っぅ、ゲホ…」
噎せて水を零す雨宮。図星のような反応、しかしあまりにリアクションが顕著である。
「なんで副隊長だと思うんですか。」
「いや、見舞いに行った日ですよ。あの後だいぶ絞られたのかと…」
亜白と何かあったとしても、誰かとの諍いによる不機嫌を訓練に持ち込むタイプではない。沖村自身は雨宮の人間性をそう評していた。であれば、保科に前の作戦に関してお叱りを受けたか。己の未熟を良しとせず過度に励むタイプの人だからと、純粋な気遣いからの言葉。実際には彼の憶測は半分正解で、半分間違いだった。亜白に対して思うところと、もう半分は己の実力不足に対する焦り。もっと強くならなくてはと、訓練に打ち込んでいる間は忘れることが出来ていたが。予想外の方向から衝撃を与えられ、後回しにしていた問題をしっかり思い出してしまう。死角から攻撃を受け顔を強張らせる雨宮の反応は有り体で、沖村は自分の発言に確信を持つ。
「焦って突っ張らなくても、貴女は優秀なんだから。立場があるから厳しく言うでしょうが副隊長だって、貴女が邁進してることは分かってるでしょ。」
「うるさい。」
ピシャリと返された暴言に沖村は目を丸くする。説教臭くなったとは言え、攻撃的過ぎる返しだ。背伸びしてズイッと距離を詰めると雨宮は沖村をギッと睨む。
「あのセクハラ男に、そんな思慮深さがあるんならっ、…っ」
グッと言葉を詰まらせた顔はほんのり赤く染まっていた。
えっ、何その顔と問う間もなく。雨宮は顔を逸らすと小走りで去っていった。困惑からほんの少し立ち尽くしていた沖村に声が掛かる。
「おう沖村〜、調子はどや?」
「あっ、副隊長。」
背後から呼ばれた声に、ぞんざいな態度を取ってしまうがすぐに姿勢を整え敬礼する。
「様子見に来たんやけど、順調か?」
「はい。皆、この短期間でかなり動きが良くなりました。」
先の作戦においての反省。対小型怪獣戦への重点的な対策として、格闘訓練の枠を長くした事についてだろう。雨宮が復帰するまでは保科自ら全体に直接指導を入れていた事も幸いして、隊員達の能力は順調に底上げされている。
「なら良かったわ。んで、雨宮は元気そうか?」
「まぁ…はい。」
元気過ぎて困っています。心配せずとも非常に、いや非情に旺盛です。常ならば、ボコられる隊員達を思ってそんな感想を告げただろうが。つい先程まで話題に上がっていた保科を見て、つい微妙な反応をする沖村。曖昧な返答に保科は首をかしげた。
「なんや、やっぱ調子悪いんか?」
「いや、んなことは無さそうですが…」
段々と言い難い感じを出す沖村に対し保科はケロッとしている。あまりプライベートなことを聞くのもどうかと思うが、意を決して上司の為だと問うてみる。
「あの…雨宮さんになんかしました?」
「………なんかって?」
長い沈黙が答えであることを悟りながらも、率直に言う。
「セクハラとか…」
「いやいやいや、君が思うようなことはないて。…ま、ちょっと色々あったけども。」
保科は即座に片手を振って否定を示すが、続いた言葉に含みがある。沖村は少し後悔してきた。なんか、聞かなきゃ良かったかも。この世に完璧な組織は無く、起こり得る問題も多数存在するだろうが。こう、デリケートな部類に入る男女間の厄介事は、運悪く挟まれようもんならストレスが段違いなのだ。
「いや、俺は関係無いんで…いいんですけど…それってどうなんすか?」
いいと言う割には最終的に咎める沖村。年端もとまではいかないが、若い部下に手を出すのはどうなんだろうか。いや、お互いにフリーなら別にいいんだけども。問題は相手が雨宮だという点にある。濁しに濁された沖村の言い分に保科は誤解だと言う。
「ちゃうねん、あの…チューしただけだから。」
「うわっ…」
そこまで具体的には聞いてねぇよ、と沖村は顔で語る。この言い分だと付き合って無いっぽいことが何より厄介だ。
「プライベートなことにはあんま口出ししたくないですが…雨宮さんは結構純粋なんですよ?」
沖村からしてみれば雨宮は妹に近い存在だった。まだ自分も若い部類に入るとは言え歳を重ねれば、ついで付き合いが長ければそれらしい親しみを持つのも自然なことだと割り切っているが。実の兄の件も知っている手前、距離感には気を払っているとはいえ。流石にこれに関しては見て見ぬふりは出来なかった。出来れば彼女の傷付いた姿は見たくない。何より尊敬する上司である保科が軽々しい行いを、よりにもよって自身が所属する部隊の小隊長にしている姿など、なおのこと見たくない。
「知ってる。」
しかし即答した保科の様子を見て、沖村の心配は秒で吹き飛ぶ。後ろめたさも軽薄さも微塵もなく、心得ているという顔だった。なんだ、ちゃんとする気はあるのかと安心する。悪しからずっぽい関係ならもう言うことはない。言う必要もない。踏み込む必要さえない。考えてみれば雨宮の反応も嫌悪というより照れ隠しに近かった。他人の色恋に面倒はつきものである。これ以上聞きたくない、てか関わりたくない。問題が無さそうなことを察した沖村は、面倒くさくなり会話することを切り捨てた。
「…もういいです。」
「…ちが、違うんやて!」
「何が違うんですか!」
悪い方向に勘違いしてそうにも見て取れる沖村の態度に慌てる保科と、肩を掴まれ逃げようとする沖村。喚く2人に何事かとチラチラ視線が集まる中、冷めた声が響く。
「沖村隊員。こちらの準備が滞っていますので、とっとと来てください。」
「っ、了!」
これ幸いと逃げる沖村。低い声音に他の隊員達も慌ててその場を後に、次の訓練場所へ向かう。
隊員達の去った室内訓練場には2人だけが残された。
「…ようやっと見つけたわ。君、戻ってから顔も見せに来ないんやから。」
「べつに、タイミングが無かっただけです。」
ガッツリ目を逸らして言う雨宮に保科は苦笑する。立川基地に戻ってきてから2人きりで顔を合わせるのは初めてだった。遠目に見ることはあっても、特に会話をしようと近付くことはない。雨宮が避けていたからだ。
「そんな嫌だった?君から聞いたのに。」
「いっ…嫌とか…論点が違います。」
好意を持つかどうかの質問の先は、一切考えていなかった。端的に言えば、気になったから聞いた。完全なるノープラン。恋愛初心者の愚行。高田による回答、好意を伝えられてから考えたら?の先を好奇心によって自分自身で進めてしまった手前、対応策は皆無である。
「論点ってーと…何、手ぇ出された事について?沖村が言うにはそういうことらしいやん?」
一步一步と距離を詰める保科と、じりじりと後退する雨宮。
「僕的には、君にも気持ちがあるもんだと思ったんだけどなぁ〜」
笑った口の端に見える八重歯が、今日に限っては不穏に見える。緊張により下がる足に比べ、大きな歩幅が距離を詰める方が速く保科は雨宮を見下ろした。
「っ、き、勤務時間中ですよ!」
真っ当な意見を盾に狼狽する雨宮に、保科はうんうんと頷く。
「でもちゃんと話さなあかんやろ?君、逃げるしなぁ…」
「…」
ぐうの音も出ない事実。今まさに逃げ出す機会を伺っている雨宮は黙り込む。恋愛コンテンツの猛者、親友高田夏美ならばこういうときどうするのだろうか。したいようにしろとしか言わないだろう。いない人間に助力を求めだすのは、精神的に追い詰められた境地のひとつだ。
保科は俯く雨宮の耳に顔を寄せると、小声で言った。
「夜、ちょっと話そか。僕の部屋おいで。」
た、助けてくれ高田…
心の中で助けを求めるも、無論助力に応える返事は無い。
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