月下美人の横顔
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「お前、向いてねぇよ。」
壁も天井もない白い空間に伸びる椅子の影。そこに座る男の影はない。向けられた気怠げな眼差しを見返すと、誰だかなんてすぐに分かった。
「俺が作ったトレーニングメニュー、日付跨ぐ前に終わったこともねぇくせに。」
「…あれは、普通の人間が適宜遂行するには行き過ぎた内容なだけ。」
小隊を持つようになり、訓練内容をソックリそのまま適用したがゆえに、ようやく理解できた暴挙。
「気付くのが遅い時点で見識が狭いね。一瞬の判断の遅れが仲間と自分の死に繋がるの、分かってんのか?」
「貴方にだけは言われたくないけど。」
「うるせぇな、出来損ない。」
嫌味っぽく歯を見せ笑う男の視線の先には、1人の女が立っている。
「経歴がさして変わらない人間を出来損ない呼ばわりするのはどうかと思うけど、ね。」
「いーや、お前と違って俺はあと半年もしたら昇進して副隊長になってたね。優秀だったからな。」
「じゃあなんでそうしなかったの。誰かに託したりせず貴方が、颯鳥兄さん自身が先頭を目指したら良かったじゃない。」
小馬鹿にした誹りに返す言葉は、鋭い切れ味を帯びる。それでいて、薄刃の脆さを併せ持つ。
女の様子に、颯鳥は態度を崩し狼狽える。
「あー…もう、泣くなよ帆鳥。…俺が悪かったよ。」
表情を変えぬまま、とめどなく流れる涙。責める視線の先に座る颯鳥は下を向いて謝罪した。
「お前が泣くと駄目なんだよ俺。昔から知ってるだろ?」
「撤回して。私は出来損ないじゃない。」
「…じゃあなんて言ったら防衛隊やめてくれるんだよ〜…」
「やめない。貴方がそうだったように。」
「んー、頑固。」
深く吐き出した溜息。自分も防衛隊に入るからとの決意表明に対し、ならば最低限こなして見せろと渡したトレーニングメニュー。ノートに纏められた内容は現役の隊員ですら音を上げるものだった。自分のように戦場に立って欲しくなかったから、諦めさせるために示した壁。よもや青春を費やし上り詰めてくるなど誰が想像出来ただろうか。本気の尺度を測りかねた自分の落ち度。
いいや。自分の死が後押しの要因であるなど、とうに分かりきっている。こうと決めた事は曲げない。ならばこれも運命かと、諦めをつけた颯鳥は顔を上げて帆鳥を見据える。
「じゃ、ひとつ頼みを聞いてよ。」
「嫌。」
「クッ…クソガキ…」
「なんで私との約束を守らなかった貴方の言うことなんか、聞かなければならないの。」
ぐうの音も出ない。帰ってくると口に出した言葉を反故にしたのだ。守れなかった最後の約束の意味は大きい。
「もっともなんだけどさ。そこをなんとか頼むよ帆鳥。」
罪悪感と呆れが半分。それでも聞いてもらわねばならない。暫しの無言の間が過ぎ、帆鳥は嫌々頷いた。
「…善処することを検討する感じで、よければ。」
「いいよ、充分だ。あのさ…亜白にもっと優しくしてやって。あれは俺が勝手にやったことだから。」
「結果として、貴方は死んだのに?」
「ん、そうだよ。俺、帆鳥と親父のことはすげー大事じゃん?それと同じくらい、亜白の事が大事だと思ったんだよね。だから守りたかった。後悔はまったくしてない。」
あの時向けていた感情は、正確には家族に向けるそれとは違うけど、大事だった事実に嘘はない。気がつけば体が動いていた。
「…その心は?」
「そ、そこまで言わせんの?」
「交渉においてハッキリしないのは嫌い。」
「…なんか前にもまして捻ねたな〜」
「で?答えは。」
形にして示すには勇気が必要で羞恥を伴うその感情。子供の頃なら、いや大人になっても変わらないだろう。颯鳥は頭をガシガシとかいてヤケクソ気味に答える。
「恋だよ、恋!お前にはまだ分かんねーかもしれねーけどな!」
「はぁ?別に…分かるし。」
「嘘つくんじゃねーよ!」
露骨に目を逸らした帆鳥に対して、颯鳥は前のめりに非難を浴びせる。
「あ~、もう。まぁいいや。…そろそろ時間だ。」
颯鳥は立ち上がると、帆鳥の前まで歩いてくる。緩慢な動作と見下ろす眼差しには名残惜しさと口惜しさが。
「んなもんと混ざりやがって…なんでも良いか。なんであってもいいから、しっかりやれ。」
「……分かった。」
手の甲で目元を拭い、閉じた瞼を開いた先には緩い見送りの笑顔。
「やめないなら、ちゃんと生き延びろ。そんで、シワクチャのババアになるまで生きてから死ねよ、帆鳥。」
指先で押された肩に体が傾く。
地面に倒れる感覚の直後に開いた眼。
薄い水色の空に流れる雲。
「いき、てる。」
カサついた声。大きな波音と、遠くに聞こえるカモメの鳴き声。まばたきもせず、起こした体を襲う重い疲労と倦怠感。霞む視界で見回す辺りは、最後に見た波打ち際と似た景色。海に浸かったままの腰から先が急に冷たく感じる。防衛隊のスーツを身に纏ったままの事に遅れながらも慌てて腹を触る。息を呑むと同じくして、背筋が冷える。貫かれた傷が、空いたはずの穴がそこにはなかった。理解できない状況に脳を巡る血が熱くなり、痛みだす心地。表情を歪めた拍子に顔が引き攣る感覚。触れるとぬるつく感触がする。砂まみれだが乾いていた指先が濡れていた。
「…涙?」
瞳を霞ませていた正体は、いまだ溢れつづける涙だった。
じんわりと温かく。乾いた心臓が潤い、しとどに血を垂れ流すような痛み。ついさっきまで誰かに会って、話していた気がする。でもそれが誰で何を話したかまでは思い出せなかった。
何人かの職員が配備されているにも関わらず、長い沈黙が支配している一室はまるでお通夜のような空気だ。間もなく本当に執り行われることになると思えば、それはより一層重くなる。前触れなく鳴り響く電話のコール音は静寂を崩し、誰もが億劫そうに発生源に目をやる。1人の職員が受話器を取り応対をする最中、ややあって立ち上がる。勢いよく押された椅子のキャスターがゴロゴロと転がっていった。保留ボタンを押すのも忘れ、職員は受話器を片手に部屋を飛び出し走っていく。
バンッとノックもなく乱暴に開かれた部屋の中央、デスクに向き合っていたその人は顔を上げる。
「亜白隊長!あの、いまっ、○○県〇〇市の病院より連絡が来てて、先ほど雨宮小隊長が運ばれたらしいです!」
慌ただしい報告を咎めることができず、というよりは言葉が出ず。返事を待たず職員は報告を続ける。
「ご無事だそうですよ!!」
病院の一角。海がよく見える窓辺の個室にて。雨宮はウンザリとした表情をしていた。
「佐渡、いい加減にして。」
「だっで〜っ、雨宮さん、いっ、生ぎでる〜〜!」
「あー、もう。鬱陶しい。くっつかないで下さい。」
「小隊長…許してやって下さいよ。貴女が1週間近く行方不明でこっちは気が気じゃなかったんだから…」
ベッドに寝転ぶ雨宮にしがみついて泣きじゃくる佐渡。
「たく、心構えが足りないのでは?頭がすげ変わることなんて多々あることですよ。」
「ゔ〜、人の心がない発言、本物だぁ〜」
病衣の袖がびしゃびしゃに濡れても実力行使に出ないあたりは、彼女も優しい人間であると沖村は内心微笑んだ。私服姿の隊員2人は亜白に命じられ安否確認に訪れていた。本当は亜白自身がすぐにでも来たかっただろうが、場を離れられない職務がありやむを得ずといったところだろう。面会の許可を得て訪れた病室の主は、思いのほかケロッとしていた。わざわざ来たんですか、との発言に沖村は怒り心頭だった。どれだけ心配したと思ってんだとひとこと言ってやりたかったが、激しく取り乱す佐渡の様子に何も言えなくなってしまった。
「はぁ…一応報告義務があるので、体調が良い内に経緯を聞いても?」
預かってきた職務をこなそうと問う沖村に、雨宮は佐渡をそのままにして淡々と報告を始める。話を聞いていくうち、段々と青ざめる沖村。
「…貴女、よく助かりましたね。」
「運が良かったってことです、ね。」
雨宮が目覚めた場所は、最後に倒れた場所から数十キロ離れていた。東京湾より漂流し東北地方に漂着するまでによく無事でいたものだ。その間意識が無かったというのだから奇跡に他ならない。漂着後に意識が回復してしばらく、起き上がると自分の足で付近を探索した。現在地を確認できるものを持たない雨宮は数時間彷徨った後、空腹と脱水症状で倒れているところを市民から通報されて病院に搬送された。酷い症状は見られず、五体満足の雨宮に経緯を聞いた医者はドン引きしていた。ありえない、と。環境的要因含め、肉体的に強靭であってもここまで健康なのはおかしい。しかし嘘を言っているようにも見えないので、経過観察の為に入院となった。
「神様っているんですね。」
「いません。私の強運がもたらした結果です。」
「この状況でそんなん言えるのは貴女だけです…」
沖村は呆れを通り越して逆に感心した。
「とにかく回復するまでは…元気っぽいからなんとも言えませんが。療養期間ということでしばらく休暇をいただけるそうです。」
「ふむ。ま、長期休暇だと思ってのびのびさせていただきますよ。」
ごろりと寝返りをうちながら佐渡をどかす雨宮。スンスンと鼻をすすりながら佐渡は鞄からティッシュを取り出す。
「そういえば、本日は保科副隊長もこちらにいらっしゃるそうですよ。」
「え、俺聞いてない。」
「はい。言い忘れてましたから。遅くなるっておっしゃってましたけど、もうそろそろつく頃…」
話しながら鼻をかむ佐渡。言い終わるタイミングでちょうどよく病室の扉がガラリと開いた。座る両名から視線を外しそちらを向く雨宮は、目があってすぐに感想を告げる。
「貴方まで来たんですか。」
貼り付けた笑みに青筋が浮かぶのが見え、沖村はあちゃーと片手で顔を押さえた。
「…こんの、ボケナスが!!」
廊下には確実に響いたであろう声量。怒号が耳に入った瞬間、沖村と佐渡は反射的に席を立つ。
「じゃあ小隊長、俺達はこれで失礼します。何かあったら連絡してください。」
「雨宮さんっ、ファイトですよっ。」
言い終えると2人は保科の前でビシッと敬礼して部屋から出ていく。片手を上げて軽く挨拶をすると入れ替わりで保科は部屋に入る。ピシャリと閉められた戸の向こうから看護師が注意に来る気配はない。
「えぇ身分やな?こんな広々した部屋借りて。」
「自腹なんで。使う暇が無いのでお金はありますから。こういう時ぐらいは1人で穏やかに過ごしたいです。」
「ほーん…そんなら、こういう事も出来るわけやなぁ!?」
「イタ、痛い痛い!」
ズカズカと大股で歩み寄った保科。雨宮は頭を片腕でロックされて頭頂部を拳でグリグリとされる。
「怪我人!怪我人ですよ!」
「看護師さんから聞いとるわボケ!重症じゃないし元気そうやってなぁ!」
「んぎぎ、やめ、やめてくださいっ。」
若干涙目になったところで離してやると、仰向けで頭頂部を押さえる雨宮。保科はベッドに片膝を掛け乗り上げると、無遠慮に病衣の合わせ目を開いた。
「は?ちょっと、セクシャルハラスメント!」
顔を真赤にして叩きこもうとした右ストレートは呆気なく掴まれる。
「ええから、ちょっと黙り。」
シーツに縫い付けられた手首は動かず、保科の声には静かだが凄みがある。怒涛の流れに飲まれて雨宮は言葉に詰まる。保科は黒いインナーを捲り驚愕した。
引き締まった白く薄い腹には、傷があった形跡すら残っていない。触ってみても滑らかな肌があるだけだ。何故どうしてと疑問が占めるよりも、沸き立つのは大きな感情。
「………良かった。」
保科は脱力して頭を下げた。握り締められた手首からスルリと力が抜けていくが、雨宮は殴る気になれなかった。
作戦の実行中、保科が最後に雨宮を見たのは開始前のこと。小隊からの援護要請。取り逃した敵と彼女の最後。大量の血痕と、浜に打ち捨てられた一部の装備品。全てを見て生還は難しいと最初に諦めかけたのは亜白だった。奇しくも雨宮颯鳥と似通った最後を遂げた雨宮帆鳥。トラウマとの繋がりから結論付けるのは早計だと諭しながらも、心の何処かでは保科も諦めていた。
だから聞いた話だけでは、生きていると信じることが出来なかった。しかし何かの間違いか別人なんじゃないかと疑念を消せないまま、顔を合わせたのは間違いなく本人で。
「よく、生きとったな。」
失うことの耐え難きを伝える、弱々しい声。あげた手が宙を彷徨い、ポスリと小さな手が肩に触れる。
「どいて下さい。」
「…悪かったな。」
顔を上げて離れる保科を見て、サッと病衣の合わせ目を閉じる。
「私自身、どうして現状のまま肉体が維持され、無事でいるのか分かりません。」
「基地に戻ったら検査がたくさん待っとるやろなぁ。」
「致命傷を受けたはずです、が。傷口に付着していた怪獣の一部が核を内包していたので…」
言いにくいそうにする雨宮に保科はなんとも言えない表情をする。
「……いまんとこは、問題ないん?」
「はい。意識が戻って何日か立ちますが、特にこれといって変化の兆しはありません。」
「そ。なら君も僕も管轄外。取り敢えずは待つしかないな。」
「はい、その通りです。」
保科はベッドから足を下ろして椅子に座る。
「帰ったら亜白隊長にもちゃんと挨拶してやり。どえらい落ち込んどったで。」
「…分かりました。」
「素直やん。」
「まぁ…そうです、ね。……あの…質問があります。」
「ん?」
理由は分からないけれど。聞かなければならない気がした。死の淵に立てば価値観も変わるものなのか。ここで終わりだと強く自覚した時は、諦めを自覚する暇すら無かった。後悔すらも考えずに、そのまま終わりたかった。しかしせっかく拾った命だ。最後に思った疑問くらいには答えを求めても良いかも知れない。
「保科副隊長って、私のこと好きなんですか?」
友人の確信。未解決の問題。次、また聞く機会はもう来ないかも知れない。
せっかくだからと問い掛けた当の本人は、真顔で見返してくるだけだ。長い無言の間に耐え兼ね、やっぱなんでもないですと言いかけた時に保科はようやく動きを見せた。座ったばかりの椅子から立ち、腰を折って屈むと保科は枕元に腕をついた。
「え…っ」
柔らかな感触に、時が止まる。
深く吸った息が肺で熱く渦巻く頃、保科は唇を離した。
「そうだって言ったらどうするん?」
思うように声が出なかった。
「ラブの方だったら、正解。」
頬を撫でる指の背がやけに冷たいのは、自分が熱いから。
握り締めた病衣から手を離して間髪入れずに左ストレートを放つ。しかし保科の動体視力はそれを超え、再び簡単に掴まれる。ニッと笑った口元に八重歯が見えた。
「すぐ暴力に訴えるのはあかんて。」
攻撃的な挙動を警戒し、右手も掴んで押さえ込むとやけに無防備な姿に見える。血色良く染まった肌の上、困惑で悩ましげな表情。こういう時、どうしたら良いかわからないと書いてある。
「…かわいー顔するやん。」
「っ、ぁ、ちょ、ま、」
もう一度キスが降ってくる。身構えて顔を背けると地肌にかかる髪がくすぐったくて。異性として意識した瞬間、匂いが近く感じられて。首筋が熱くて、自分の鼓動がうるさすぎて、どうにかなってしまいそうだ。
そんなタイミングで、ガラリと戸が開く。
「失礼しまーす。面会時間、そろそろ終わりですよー。」
「…は、はーい。」
ぎこちなく返事する保科と、半身を起こしたまま俯く雨宮。保科が離れるのと雨宮が押し退けるのはほぼ同時だった。
背筋の伸びた看護師は不思議そうな顔で室内に入ると、顔を覗き込んで慌て始める。
「あら、顔が赤いわね。少し熱っぽいのかしら?」
「そーなんですよ。体調崩してるっぽいんで、見たって下さい。」
「彼氏さん、今日はお時間なのでまた明日にでもいらっしゃってくださ「違います!!」い…」
殆ど被せるように告げた全力否定。勢いの強さに若い看護師は笑顔を引き攣らせる。
「あはは、こんだけ元気なら大丈夫やんな。ほなまた来るんで。」
満足そうに笑うと保科は小さく手を振って返っていく。威嚇するように見送る雨宮の姿に看護師はなんとなく察したのだった。
壁も天井もない白い空間に伸びる椅子の影。そこに座る男の影はない。向けられた気怠げな眼差しを見返すと、誰だかなんてすぐに分かった。
「俺が作ったトレーニングメニュー、日付跨ぐ前に終わったこともねぇくせに。」
「…あれは、普通の人間が適宜遂行するには行き過ぎた内容なだけ。」
小隊を持つようになり、訓練内容をソックリそのまま適用したがゆえに、ようやく理解できた暴挙。
「気付くのが遅い時点で見識が狭いね。一瞬の判断の遅れが仲間と自分の死に繋がるの、分かってんのか?」
「貴方にだけは言われたくないけど。」
「うるせぇな、出来損ない。」
嫌味っぽく歯を見せ笑う男の視線の先には、1人の女が立っている。
「経歴がさして変わらない人間を出来損ない呼ばわりするのはどうかと思うけど、ね。」
「いーや、お前と違って俺はあと半年もしたら昇進して副隊長になってたね。優秀だったからな。」
「じゃあなんでそうしなかったの。誰かに託したりせず貴方が、颯鳥兄さん自身が先頭を目指したら良かったじゃない。」
小馬鹿にした誹りに返す言葉は、鋭い切れ味を帯びる。それでいて、薄刃の脆さを併せ持つ。
女の様子に、颯鳥は態度を崩し狼狽える。
「あー…もう、泣くなよ帆鳥。…俺が悪かったよ。」
表情を変えぬまま、とめどなく流れる涙。責める視線の先に座る颯鳥は下を向いて謝罪した。
「お前が泣くと駄目なんだよ俺。昔から知ってるだろ?」
「撤回して。私は出来損ないじゃない。」
「…じゃあなんて言ったら防衛隊やめてくれるんだよ〜…」
「やめない。貴方がそうだったように。」
「んー、頑固。」
深く吐き出した溜息。自分も防衛隊に入るからとの決意表明に対し、ならば最低限こなして見せろと渡したトレーニングメニュー。ノートに纏められた内容は現役の隊員ですら音を上げるものだった。自分のように戦場に立って欲しくなかったから、諦めさせるために示した壁。よもや青春を費やし上り詰めてくるなど誰が想像出来ただろうか。本気の尺度を測りかねた自分の落ち度。
いいや。自分の死が後押しの要因であるなど、とうに分かりきっている。こうと決めた事は曲げない。ならばこれも運命かと、諦めをつけた颯鳥は顔を上げて帆鳥を見据える。
「じゃ、ひとつ頼みを聞いてよ。」
「嫌。」
「クッ…クソガキ…」
「なんで私との約束を守らなかった貴方の言うことなんか、聞かなければならないの。」
ぐうの音も出ない。帰ってくると口に出した言葉を反故にしたのだ。守れなかった最後の約束の意味は大きい。
「もっともなんだけどさ。そこをなんとか頼むよ帆鳥。」
罪悪感と呆れが半分。それでも聞いてもらわねばならない。暫しの無言の間が過ぎ、帆鳥は嫌々頷いた。
「…善処することを検討する感じで、よければ。」
「いいよ、充分だ。あのさ…亜白にもっと優しくしてやって。あれは俺が勝手にやったことだから。」
「結果として、貴方は死んだのに?」
「ん、そうだよ。俺、帆鳥と親父のことはすげー大事じゃん?それと同じくらい、亜白の事が大事だと思ったんだよね。だから守りたかった。後悔はまったくしてない。」
あの時向けていた感情は、正確には家族に向けるそれとは違うけど、大事だった事実に嘘はない。気がつけば体が動いていた。
「…その心は?」
「そ、そこまで言わせんの?」
「交渉においてハッキリしないのは嫌い。」
「…なんか前にもまして捻ねたな〜」
「で?答えは。」
形にして示すには勇気が必要で羞恥を伴うその感情。子供の頃なら、いや大人になっても変わらないだろう。颯鳥は頭をガシガシとかいてヤケクソ気味に答える。
「恋だよ、恋!お前にはまだ分かんねーかもしれねーけどな!」
「はぁ?別に…分かるし。」
「嘘つくんじゃねーよ!」
露骨に目を逸らした帆鳥に対して、颯鳥は前のめりに非難を浴びせる。
「あ~、もう。まぁいいや。…そろそろ時間だ。」
颯鳥は立ち上がると、帆鳥の前まで歩いてくる。緩慢な動作と見下ろす眼差しには名残惜しさと口惜しさが。
「んなもんと混ざりやがって…なんでも良いか。なんであってもいいから、しっかりやれ。」
「……分かった。」
手の甲で目元を拭い、閉じた瞼を開いた先には緩い見送りの笑顔。
「やめないなら、ちゃんと生き延びろ。そんで、シワクチャのババアになるまで生きてから死ねよ、帆鳥。」
指先で押された肩に体が傾く。
地面に倒れる感覚の直後に開いた眼。
薄い水色の空に流れる雲。
「いき、てる。」
カサついた声。大きな波音と、遠くに聞こえるカモメの鳴き声。まばたきもせず、起こした体を襲う重い疲労と倦怠感。霞む視界で見回す辺りは、最後に見た波打ち際と似た景色。海に浸かったままの腰から先が急に冷たく感じる。防衛隊のスーツを身に纏ったままの事に遅れながらも慌てて腹を触る。息を呑むと同じくして、背筋が冷える。貫かれた傷が、空いたはずの穴がそこにはなかった。理解できない状況に脳を巡る血が熱くなり、痛みだす心地。表情を歪めた拍子に顔が引き攣る感覚。触れるとぬるつく感触がする。砂まみれだが乾いていた指先が濡れていた。
「…涙?」
瞳を霞ませていた正体は、いまだ溢れつづける涙だった。
じんわりと温かく。乾いた心臓が潤い、しとどに血を垂れ流すような痛み。ついさっきまで誰かに会って、話していた気がする。でもそれが誰で何を話したかまでは思い出せなかった。
何人かの職員が配備されているにも関わらず、長い沈黙が支配している一室はまるでお通夜のような空気だ。間もなく本当に執り行われることになると思えば、それはより一層重くなる。前触れなく鳴り響く電話のコール音は静寂を崩し、誰もが億劫そうに発生源に目をやる。1人の職員が受話器を取り応対をする最中、ややあって立ち上がる。勢いよく押された椅子のキャスターがゴロゴロと転がっていった。保留ボタンを押すのも忘れ、職員は受話器を片手に部屋を飛び出し走っていく。
バンッとノックもなく乱暴に開かれた部屋の中央、デスクに向き合っていたその人は顔を上げる。
「亜白隊長!あの、いまっ、○○県〇〇市の病院より連絡が来てて、先ほど雨宮小隊長が運ばれたらしいです!」
慌ただしい報告を咎めることができず、というよりは言葉が出ず。返事を待たず職員は報告を続ける。
「ご無事だそうですよ!!」
病院の一角。海がよく見える窓辺の個室にて。雨宮はウンザリとした表情をしていた。
「佐渡、いい加減にして。」
「だっで〜っ、雨宮さん、いっ、生ぎでる〜〜!」
「あー、もう。鬱陶しい。くっつかないで下さい。」
「小隊長…許してやって下さいよ。貴女が1週間近く行方不明でこっちは気が気じゃなかったんだから…」
ベッドに寝転ぶ雨宮にしがみついて泣きじゃくる佐渡。
「たく、心構えが足りないのでは?頭がすげ変わることなんて多々あることですよ。」
「ゔ〜、人の心がない発言、本物だぁ〜」
病衣の袖がびしゃびしゃに濡れても実力行使に出ないあたりは、彼女も優しい人間であると沖村は内心微笑んだ。私服姿の隊員2人は亜白に命じられ安否確認に訪れていた。本当は亜白自身がすぐにでも来たかっただろうが、場を離れられない職務がありやむを得ずといったところだろう。面会の許可を得て訪れた病室の主は、思いのほかケロッとしていた。わざわざ来たんですか、との発言に沖村は怒り心頭だった。どれだけ心配したと思ってんだとひとこと言ってやりたかったが、激しく取り乱す佐渡の様子に何も言えなくなってしまった。
「はぁ…一応報告義務があるので、体調が良い内に経緯を聞いても?」
預かってきた職務をこなそうと問う沖村に、雨宮は佐渡をそのままにして淡々と報告を始める。話を聞いていくうち、段々と青ざめる沖村。
「…貴女、よく助かりましたね。」
「運が良かったってことです、ね。」
雨宮が目覚めた場所は、最後に倒れた場所から数十キロ離れていた。東京湾より漂流し東北地方に漂着するまでによく無事でいたものだ。その間意識が無かったというのだから奇跡に他ならない。漂着後に意識が回復してしばらく、起き上がると自分の足で付近を探索した。現在地を確認できるものを持たない雨宮は数時間彷徨った後、空腹と脱水症状で倒れているところを市民から通報されて病院に搬送された。酷い症状は見られず、五体満足の雨宮に経緯を聞いた医者はドン引きしていた。ありえない、と。環境的要因含め、肉体的に強靭であってもここまで健康なのはおかしい。しかし嘘を言っているようにも見えないので、経過観察の為に入院となった。
「神様っているんですね。」
「いません。私の強運がもたらした結果です。」
「この状況でそんなん言えるのは貴女だけです…」
沖村は呆れを通り越して逆に感心した。
「とにかく回復するまでは…元気っぽいからなんとも言えませんが。療養期間ということでしばらく休暇をいただけるそうです。」
「ふむ。ま、長期休暇だと思ってのびのびさせていただきますよ。」
ごろりと寝返りをうちながら佐渡をどかす雨宮。スンスンと鼻をすすりながら佐渡は鞄からティッシュを取り出す。
「そういえば、本日は保科副隊長もこちらにいらっしゃるそうですよ。」
「え、俺聞いてない。」
「はい。言い忘れてましたから。遅くなるっておっしゃってましたけど、もうそろそろつく頃…」
話しながら鼻をかむ佐渡。言い終わるタイミングでちょうどよく病室の扉がガラリと開いた。座る両名から視線を外しそちらを向く雨宮は、目があってすぐに感想を告げる。
「貴方まで来たんですか。」
貼り付けた笑みに青筋が浮かぶのが見え、沖村はあちゃーと片手で顔を押さえた。
「…こんの、ボケナスが!!」
廊下には確実に響いたであろう声量。怒号が耳に入った瞬間、沖村と佐渡は反射的に席を立つ。
「じゃあ小隊長、俺達はこれで失礼します。何かあったら連絡してください。」
「雨宮さんっ、ファイトですよっ。」
言い終えると2人は保科の前でビシッと敬礼して部屋から出ていく。片手を上げて軽く挨拶をすると入れ替わりで保科は部屋に入る。ピシャリと閉められた戸の向こうから看護師が注意に来る気配はない。
「えぇ身分やな?こんな広々した部屋借りて。」
「自腹なんで。使う暇が無いのでお金はありますから。こういう時ぐらいは1人で穏やかに過ごしたいです。」
「ほーん…そんなら、こういう事も出来るわけやなぁ!?」
「イタ、痛い痛い!」
ズカズカと大股で歩み寄った保科。雨宮は頭を片腕でロックされて頭頂部を拳でグリグリとされる。
「怪我人!怪我人ですよ!」
「看護師さんから聞いとるわボケ!重症じゃないし元気そうやってなぁ!」
「んぎぎ、やめ、やめてくださいっ。」
若干涙目になったところで離してやると、仰向けで頭頂部を押さえる雨宮。保科はベッドに片膝を掛け乗り上げると、無遠慮に病衣の合わせ目を開いた。
「は?ちょっと、セクシャルハラスメント!」
顔を真赤にして叩きこもうとした右ストレートは呆気なく掴まれる。
「ええから、ちょっと黙り。」
シーツに縫い付けられた手首は動かず、保科の声には静かだが凄みがある。怒涛の流れに飲まれて雨宮は言葉に詰まる。保科は黒いインナーを捲り驚愕した。
引き締まった白く薄い腹には、傷があった形跡すら残っていない。触ってみても滑らかな肌があるだけだ。何故どうしてと疑問が占めるよりも、沸き立つのは大きな感情。
「………良かった。」
保科は脱力して頭を下げた。握り締められた手首からスルリと力が抜けていくが、雨宮は殴る気になれなかった。
作戦の実行中、保科が最後に雨宮を見たのは開始前のこと。小隊からの援護要請。取り逃した敵と彼女の最後。大量の血痕と、浜に打ち捨てられた一部の装備品。全てを見て生還は難しいと最初に諦めかけたのは亜白だった。奇しくも雨宮颯鳥と似通った最後を遂げた雨宮帆鳥。トラウマとの繋がりから結論付けるのは早計だと諭しながらも、心の何処かでは保科も諦めていた。
だから聞いた話だけでは、生きていると信じることが出来なかった。しかし何かの間違いか別人なんじゃないかと疑念を消せないまま、顔を合わせたのは間違いなく本人で。
「よく、生きとったな。」
失うことの耐え難きを伝える、弱々しい声。あげた手が宙を彷徨い、ポスリと小さな手が肩に触れる。
「どいて下さい。」
「…悪かったな。」
顔を上げて離れる保科を見て、サッと病衣の合わせ目を閉じる。
「私自身、どうして現状のまま肉体が維持され、無事でいるのか分かりません。」
「基地に戻ったら検査がたくさん待っとるやろなぁ。」
「致命傷を受けたはずです、が。傷口に付着していた怪獣の一部が核を内包していたので…」
言いにくいそうにする雨宮に保科はなんとも言えない表情をする。
「……いまんとこは、問題ないん?」
「はい。意識が戻って何日か立ちますが、特にこれといって変化の兆しはありません。」
「そ。なら君も僕も管轄外。取り敢えずは待つしかないな。」
「はい、その通りです。」
保科はベッドから足を下ろして椅子に座る。
「帰ったら亜白隊長にもちゃんと挨拶してやり。どえらい落ち込んどったで。」
「…分かりました。」
「素直やん。」
「まぁ…そうです、ね。……あの…質問があります。」
「ん?」
理由は分からないけれど。聞かなければならない気がした。死の淵に立てば価値観も変わるものなのか。ここで終わりだと強く自覚した時は、諦めを自覚する暇すら無かった。後悔すらも考えずに、そのまま終わりたかった。しかしせっかく拾った命だ。最後に思った疑問くらいには答えを求めても良いかも知れない。
「保科副隊長って、私のこと好きなんですか?」
友人の確信。未解決の問題。次、また聞く機会はもう来ないかも知れない。
せっかくだからと問い掛けた当の本人は、真顔で見返してくるだけだ。長い無言の間に耐え兼ね、やっぱなんでもないですと言いかけた時に保科はようやく動きを見せた。座ったばかりの椅子から立ち、腰を折って屈むと保科は枕元に腕をついた。
「え…っ」
柔らかな感触に、時が止まる。
深く吸った息が肺で熱く渦巻く頃、保科は唇を離した。
「そうだって言ったらどうするん?」
思うように声が出なかった。
「ラブの方だったら、正解。」
頬を撫でる指の背がやけに冷たいのは、自分が熱いから。
握り締めた病衣から手を離して間髪入れずに左ストレートを放つ。しかし保科の動体視力はそれを超え、再び簡単に掴まれる。ニッと笑った口元に八重歯が見えた。
「すぐ暴力に訴えるのはあかんて。」
攻撃的な挙動を警戒し、右手も掴んで押さえ込むとやけに無防備な姿に見える。血色良く染まった肌の上、困惑で悩ましげな表情。こういう時、どうしたら良いかわからないと書いてある。
「…かわいー顔するやん。」
「っ、ぁ、ちょ、ま、」
もう一度キスが降ってくる。身構えて顔を背けると地肌にかかる髪がくすぐったくて。異性として意識した瞬間、匂いが近く感じられて。首筋が熱くて、自分の鼓動がうるさすぎて、どうにかなってしまいそうだ。
そんなタイミングで、ガラリと戸が開く。
「失礼しまーす。面会時間、そろそろ終わりですよー。」
「…は、はーい。」
ぎこちなく返事する保科と、半身を起こしたまま俯く雨宮。保科が離れるのと雨宮が押し退けるのはほぼ同時だった。
背筋の伸びた看護師は不思議そうな顔で室内に入ると、顔を覗き込んで慌て始める。
「あら、顔が赤いわね。少し熱っぽいのかしら?」
「そーなんですよ。体調崩してるっぽいんで、見たって下さい。」
「彼氏さん、今日はお時間なのでまた明日にでもいらっしゃってくださ「違います!!」い…」
殆ど被せるように告げた全力否定。勢いの強さに若い看護師は笑顔を引き攣らせる。
「あはは、こんだけ元気なら大丈夫やんな。ほなまた来るんで。」
満足そうに笑うと保科は小さく手を振って返っていく。威嚇するように見送る雨宮の姿に看護師はなんとなく察したのだった。
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