月下美人の横顔
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「ケッ、しけた景色だな。」
大型施設の屋上より見下ろす広大な敷地の先、彼方に並ぶ街並みは模型のように小さく目に映る。それらを仏頂面で睨みながら、だらしなく柵にもたれて鳴海は悪態をついた。咎めることなく、しかし同調もせずに雨宮は、目を伏せたまま異を唱えた。
「立川市民に失礼ですよ。都心部といえど品川もそう変わらないはずかと。基地は都市から距離がありますので。」
「…いいや、変わるね。しけている。」
「…具体的には?」
「ここが第3の本拠地ってところだ。それ以外に理由があるか?」
完全なる私怨のみで構成された軽率すぎる発言に苦笑する。
「ごもっともです、とでも言えばよろしいですか?」
「いい。嫌味はよせ。今日はそんなかったるいやり取りをしに来たわけじゃない。」
見下した視線を持ち上げ真っ直ぐに向けられたそれに、雨宮は応えるように目を上げた。
荒れた乾風に沿いなびく長髪。冷えた肌の上で赤く色付く頬と鼻先。首筋まで覆う黒いインナーの上に、白い厚手のジャンパーがよく映えた。支給された隊服は防護に優れた素材だが、冬季の寒さを凌ぎきるほどの力はない。
「こんなとこに呼び出して、告白でもするつもりですか。」
「んなわけっ、あるか馬鹿!」
恥じらいを払拭しようと騒ぐ様子は逆に茶化しにくい。気不味さから掛ける言葉に悩む思考。しかし自身の返答はただひとつであるはずだと意思を強く持つ。
「なら、どうされたんですか。わざわざお嫌いな第3の本拠地まで来られるなんて。任務以外は堕落が本分である貴方らしくもない。」
小生意気な口が述べる事実に鳴海は不機嫌そうに眉を寄せた。睨みをきかす視線に雨宮は臆することはない。対峙するように2人が立つ第3基地本部の屋上。目下地上の敷地では他部隊が訓練に励む様子が見られる。真昼を過ぎた時刻、急な来訪により現れた鳴海の指名により、雨宮は午後の訓練を抜け出ていた。あからさまに用向きはなんだと急かしはせずとも、それなり重心を保った態度で彼の言葉を待ってる。
「…お前、うちに来ないか?」
呆気により思考が絡み、思わず開いた唇より空気が抜け出ていく。
「………うち、とは?」
「分かるだろ。」
わからないふりではなく、雨宮は一旦落ち着く為に聞き返したつもりだ。だとしても、鳴海にとって彼女の戸惑いなど関係ない。
「移籍の誘いだ。」
明確な言葉に、いよいよ雨宮は黙り込んだ。鳴海はガシガシとと頭をかきながら大雑把な口調で説明しだした。
「あぁーーー、その…先月の、定例報告でだ。各部隊の近況と施策の報告を聞いたんだがな。お前、よく褒められてたぞ。」
「…それはどうも。」
副隊長以上の役職及び幹部が収集される月例会義にて。亜白の口より雨宮の名が出たのだろう。別に喜ばしいとは思わないが、悪い気もしない。なんともいえない心地で雨宮は曖昧に答える。
「よくできた良い子ちゃんだってな。…けどな、僕はお前の本性を知っている。」
「…知った口を聞くんですね。」
「あぁ、知ってるさ。猫被ってるようだけどな、お前は全然聞き分けが良い女じゃ無い。でなけりゃ、隊長の前を露払いだなんて言って走れるかよ。」
段々と確信の念を含む言葉に、雨宮は起伏を沈ますような静けさを纏っていく。構うことなく鳴海は続けた。
「最近、突っ走らなくなったらしいな。ビビってんのか?」
「適宜状況に応じて、必要な動きを意識した結果です。成長と捉えていただければ幸いですが。」
「にしては度が過ぎた躾の方針なんだってな。」
「…お言葉ですが、規律の乱れは隊員の生死に直結します。小隊といえども、部下の命を預かる身としては当然の措置かと。」
「違うね。並べた歩幅はいざというとき盾にならない。規律ってので、脅威を殺す事が出来るのか?」
睨み上げる雨宮に、鳴海は柵から背を離すと一歩一歩距離を詰める。手を伸ばさずとも、すぐに触れられる距離で立ち止まり、ジャケットのポケットに手を突っ込んだまま雨宮を見下ろす。
「圧倒的な実力が必要だ。目の前に迫る敵の全てを鏖殺しきる力がな。そういうやつが、1人でも多く必要なんだよ。」
目元に掛かる長い前髪の隙間、鋭い瞳孔に赤みがさす錯覚。無意識の底、チリチリと肌を焼かれるような気迫に雨宮は一步下がりそうになる。
「…長谷川副隊長にも聞かせてさしあげたいですね。特に規律がどうのって部分。」
「長谷川は今関係ないだろが!…はぁ、とにかく僕の隊は完全実力主義だ。お誂え向きだろ…血の気の多いやつが弱者に合わせてんじゃねぇよ。」
「貴方には、そう見えますか。」
「見えるね。お前が何を考えてようとな。」
猛進をやめ、立ち止まっている。雨宮に対し鳴海はそう感じていた。耳に挟んだ表面上の印象と、数ヶ月前共に最前線を走った姿。乖離を思わす現実に苛立ちを覚えながら、鳴海はこの場を訪れた。意思と実力を持つ者を他部隊で腐らせるくらいなら、実力を発揮しきれる場において伸ばす事が吉であると。
「僕の下に来て、最短で強くなれ。そんで後ろをついて来い。」
「…第1は、私みたいな問題児の集まりなんですか?」
「んな風潮は実力で黙らせりゃいいんだよ。」
「はぁ…確かに貴方は亜白隊長とは方針が違いそうですね。」
「うるせえ。」
イッと歯を出しクソ食らえだと顔を歪める鳴海には雨宮深く溜息をつき、空を仰ぐ。鼻先がヒヤリとする感覚は、静かに降り始めた雪のせいで。充てられた熱意がゆるやかに沈下していく。
「ま、少し考えろ。だがあまり待たせるなよ?僕は結構せっかちだからな。」
返事を待たず、鳴海は雨宮の隣を通り過ぎていく。屋上の鉄扉が閉まる音を聞いてもなお、その場から動けない。動かそうとも足が動かないわけではない。訓練に戻ろうという意思は欠片も浮かばず、雨宮は鳴海の言葉について考え込んでいた。
純粋な戸惑いからだった。
どれだけ時間が経った頃か、屋上の扉が再び開く音が鳴る。
「…風邪引くで。」
保科の呼び掛けに返事は無い。上着のポケットに手を突っ込んだまま俯く背中。髪には薄っすらと白雪が積もっている。やれやれと彼女の元へ歩いていき、覗き込んだ表情は別にいつもと変わらない。
「手酷く言われたん?」
「いえ、素直な意見を頂戴しました。」
返答ば淀みないが、少し掠れた声。どれだけここに立っていたのだろうか。鳴海が第3基地を後にしたのはとっくの昔で。雨宮がいまだ不在である報告を受け、小隊ごとの訓練に区切りをつけさせてからすぐに保科はこの場へ足を運んだ。
「良くない癖やな。」
そう言われてはじめて雨宮は顔をあげた。
考え込む事に限らず、目の前の事にのめり込むのは雨宮の悪癖だった。度が過ぎるのは訓練だけではない。自分自身の事柄であるなら尚更。
「なんか言ってましたか、鳴海隊長。」
「まぁ…決めるのはあいつだってくらいかな。」
吐き出した息が白く染まり、空気に溶けていく。雨宮を呼び出す前、鳴海は亜白に話をつけていた。亜白は厳しい口調で容認出来ない旨を伝えたが、才能を腐らせる余裕など防衛隊には無いと鳴海は両断した。上のやり取りで決着がつかないのであれば、結局のところ本人の意思次第である。
「んで、どうしたい?」
「どうもこうも、今言われたばかりなので。この場で決断は出来かねます。」
「ふーん。悩むなんて珍しいやん。」
含みのある言い方に雨宮は眉を寄せる。
「私も人間ですから。常日頃から即断即決ばかりしているわけではありません。」
「何を迷うことがあるんや。」
芳しくない反応。引き抜き自体が異例というわけではない。人事異動は日頃から存在しうる。問題は当事者に鳴海が含まれている事だ。防衛隊において最強を自負し、唯我独尊気質である男が認めた隊員。今後、その事実だけで雨宮に向けられる目は変わっていくだろう。実力を認知されるのは上司として喜ばしいことである。が、保科は大手を振って喜ぶ態度を見せない。
「僕としては、こっちにいる方が色々やりやすいと思うけど?」
「それは、関係ありません。どの環境でも同じクオリティを維持する事が本懐だと思うので。」
「真面目やなぁ。合う合わないはあるやろ、人間なんだし。」
「同僚はともかくとして。…私は亜白隊長の下で、鳴海隊長の言う最短を目指せるでしょうか。」
「どこいっても強くなれるかは君しだいや。」
「ですが…亜白隊長はそうではないようです。」
小隊長就任の辞令を受けた日。亜白は雨宮に対して庇護する気持ちがあることを訴えた。苦肉の判断。隊長として責務を全うする意思の裏にある個人的感情を隠さなかったのは、誠意か私利か。私利の内には後悔と懺悔と、喪失の恐れ。確かに死んでほしくないという願いが見える。
「忘れ形見とはいいませんが、あの人からはそのような扱いを感じます。求められようとも、強くなれなければ意味が無いと思います。停滞に変化は起こせません。」
「そないな扱い受けたくないなら、どうしてここに来た。第3に志願した時点でわかってた事やろ。」
自然と笑みが浮かぶ。保科に意図はなかろうとも、それは彼女にとってはいつかの問の続きだった。懐かしさを覚える、あの夜。胸ぐらを掴まれたあの日、保科は怒りを持っていた。今も似たような感情で問うているのだろうか。
「…私、履歴書にはなんて書きましたかね。」
「パッと思い出せないってことはたいした事書いてないやろな。あないなもんはどうとでも書ける。」
「確かに、誰にも言ったことが無いです。でも皆分かってるでしょ?」
兄がいたから。兄の背を追ってここに来た。けれど目指した人は既にいない。
「亜白隊長を責めるためだけにここに来たわけじゃ無いやろが。」
「…さあ。半分くらいは、合ってるかも。」
ふざけたことを抜かすな。込み上げる怒りのまま糾弾しないのは保科も精神的に成熟したからか。誹りを含まない口調だからか。いいや、揶揄われているのだろう。話をぼかされないようにと、保科は論点を戻した。入隊の動機なんてたいした問題じゃない。見送りの後、鳴海に揶揄われた苛立ちを持ったまま雨宮を探しに歩いたわけを、彼自身よく理解していた。
「僕は行ってほしくないけどな。」
「第1に行かれるのがそんなに癪ですか?根深くともしょうもない因縁なんかで引き止めるのは、」
「違う。君が他所に行ってまうのが嫌って意味。」
微かに見開かれた目。呆けた表情に保科は視線を逸らし、頬を掻く。
「ほら、手塩に掛けた部下の成長はそばで見守りたいやん?」
「…親心なら旅立ちを喜ぶべきだと思いますがね。」
最もな言い分に言葉を詰まらせかける。プライベートな感情が隠せていないが、亜白のような重苦しいものとは違うような気がして、雨宮はクスリと笑う。
「私、簡単には死にませんよ。目の届くところにいなくても、上手く生き延びます。」
「いや…なんか信用できんわ。てか別にすぐ死にそうだからってわけじゃなくてな。」
「はいはい。人として愛着を持っていただけるのは光栄です。」
「言い方。そこは好感やろ。」
「取り敢えずはじっくり考えます。無下にするのも申し訳ないので。」
煮え切らない、とでも言いたげな仏頂面で保科は雨宮の頭に積もる雪を払った。成されるままの姿はさながら飼い猫だ。雨宮自身、彼に気を許しているのを自覚していたが保科が引き止める理由がよく分からなかった。彼の持つ愛着の意味をまだ、理解できずにいる。
大型施設の屋上より見下ろす広大な敷地の先、彼方に並ぶ街並みは模型のように小さく目に映る。それらを仏頂面で睨みながら、だらしなく柵にもたれて鳴海は悪態をついた。咎めることなく、しかし同調もせずに雨宮は、目を伏せたまま異を唱えた。
「立川市民に失礼ですよ。都心部といえど品川もそう変わらないはずかと。基地は都市から距離がありますので。」
「…いいや、変わるね。しけている。」
「…具体的には?」
「ここが第3の本拠地ってところだ。それ以外に理由があるか?」
完全なる私怨のみで構成された軽率すぎる発言に苦笑する。
「ごもっともです、とでも言えばよろしいですか?」
「いい。嫌味はよせ。今日はそんなかったるいやり取りをしに来たわけじゃない。」
見下した視線を持ち上げ真っ直ぐに向けられたそれに、雨宮は応えるように目を上げた。
荒れた乾風に沿いなびく長髪。冷えた肌の上で赤く色付く頬と鼻先。首筋まで覆う黒いインナーの上に、白い厚手のジャンパーがよく映えた。支給された隊服は防護に優れた素材だが、冬季の寒さを凌ぎきるほどの力はない。
「こんなとこに呼び出して、告白でもするつもりですか。」
「んなわけっ、あるか馬鹿!」
恥じらいを払拭しようと騒ぐ様子は逆に茶化しにくい。気不味さから掛ける言葉に悩む思考。しかし自身の返答はただひとつであるはずだと意思を強く持つ。
「なら、どうされたんですか。わざわざお嫌いな第3の本拠地まで来られるなんて。任務以外は堕落が本分である貴方らしくもない。」
小生意気な口が述べる事実に鳴海は不機嫌そうに眉を寄せた。睨みをきかす視線に雨宮は臆することはない。対峙するように2人が立つ第3基地本部の屋上。目下地上の敷地では他部隊が訓練に励む様子が見られる。真昼を過ぎた時刻、急な来訪により現れた鳴海の指名により、雨宮は午後の訓練を抜け出ていた。あからさまに用向きはなんだと急かしはせずとも、それなり重心を保った態度で彼の言葉を待ってる。
「…お前、うちに来ないか?」
呆気により思考が絡み、思わず開いた唇より空気が抜け出ていく。
「………うち、とは?」
「分かるだろ。」
わからないふりではなく、雨宮は一旦落ち着く為に聞き返したつもりだ。だとしても、鳴海にとって彼女の戸惑いなど関係ない。
「移籍の誘いだ。」
明確な言葉に、いよいよ雨宮は黙り込んだ。鳴海はガシガシとと頭をかきながら大雑把な口調で説明しだした。
「あぁーーー、その…先月の、定例報告でだ。各部隊の近況と施策の報告を聞いたんだがな。お前、よく褒められてたぞ。」
「…それはどうも。」
副隊長以上の役職及び幹部が収集される月例会義にて。亜白の口より雨宮の名が出たのだろう。別に喜ばしいとは思わないが、悪い気もしない。なんともいえない心地で雨宮は曖昧に答える。
「よくできた良い子ちゃんだってな。…けどな、僕はお前の本性を知っている。」
「…知った口を聞くんですね。」
「あぁ、知ってるさ。猫被ってるようだけどな、お前は全然聞き分けが良い女じゃ無い。でなけりゃ、隊長の前を露払いだなんて言って走れるかよ。」
段々と確信の念を含む言葉に、雨宮は起伏を沈ますような静けさを纏っていく。構うことなく鳴海は続けた。
「最近、突っ走らなくなったらしいな。ビビってんのか?」
「適宜状況に応じて、必要な動きを意識した結果です。成長と捉えていただければ幸いですが。」
「にしては度が過ぎた躾の方針なんだってな。」
「…お言葉ですが、規律の乱れは隊員の生死に直結します。小隊といえども、部下の命を預かる身としては当然の措置かと。」
「違うね。並べた歩幅はいざというとき盾にならない。規律ってので、脅威を殺す事が出来るのか?」
睨み上げる雨宮に、鳴海は柵から背を離すと一歩一歩距離を詰める。手を伸ばさずとも、すぐに触れられる距離で立ち止まり、ジャケットのポケットに手を突っ込んだまま雨宮を見下ろす。
「圧倒的な実力が必要だ。目の前に迫る敵の全てを鏖殺しきる力がな。そういうやつが、1人でも多く必要なんだよ。」
目元に掛かる長い前髪の隙間、鋭い瞳孔に赤みがさす錯覚。無意識の底、チリチリと肌を焼かれるような気迫に雨宮は一步下がりそうになる。
「…長谷川副隊長にも聞かせてさしあげたいですね。特に規律がどうのって部分。」
「長谷川は今関係ないだろが!…はぁ、とにかく僕の隊は完全実力主義だ。お誂え向きだろ…血の気の多いやつが弱者に合わせてんじゃねぇよ。」
「貴方には、そう見えますか。」
「見えるね。お前が何を考えてようとな。」
猛進をやめ、立ち止まっている。雨宮に対し鳴海はそう感じていた。耳に挟んだ表面上の印象と、数ヶ月前共に最前線を走った姿。乖離を思わす現実に苛立ちを覚えながら、鳴海はこの場を訪れた。意思と実力を持つ者を他部隊で腐らせるくらいなら、実力を発揮しきれる場において伸ばす事が吉であると。
「僕の下に来て、最短で強くなれ。そんで後ろをついて来い。」
「…第1は、私みたいな問題児の集まりなんですか?」
「んな風潮は実力で黙らせりゃいいんだよ。」
「はぁ…確かに貴方は亜白隊長とは方針が違いそうですね。」
「うるせえ。」
イッと歯を出しクソ食らえだと顔を歪める鳴海には雨宮深く溜息をつき、空を仰ぐ。鼻先がヒヤリとする感覚は、静かに降り始めた雪のせいで。充てられた熱意がゆるやかに沈下していく。
「ま、少し考えろ。だがあまり待たせるなよ?僕は結構せっかちだからな。」
返事を待たず、鳴海は雨宮の隣を通り過ぎていく。屋上の鉄扉が閉まる音を聞いてもなお、その場から動けない。動かそうとも足が動かないわけではない。訓練に戻ろうという意思は欠片も浮かばず、雨宮は鳴海の言葉について考え込んでいた。
純粋な戸惑いからだった。
どれだけ時間が経った頃か、屋上の扉が再び開く音が鳴る。
「…風邪引くで。」
保科の呼び掛けに返事は無い。上着のポケットに手を突っ込んだまま俯く背中。髪には薄っすらと白雪が積もっている。やれやれと彼女の元へ歩いていき、覗き込んだ表情は別にいつもと変わらない。
「手酷く言われたん?」
「いえ、素直な意見を頂戴しました。」
返答ば淀みないが、少し掠れた声。どれだけここに立っていたのだろうか。鳴海が第3基地を後にしたのはとっくの昔で。雨宮がいまだ不在である報告を受け、小隊ごとの訓練に区切りをつけさせてからすぐに保科はこの場へ足を運んだ。
「良くない癖やな。」
そう言われてはじめて雨宮は顔をあげた。
考え込む事に限らず、目の前の事にのめり込むのは雨宮の悪癖だった。度が過ぎるのは訓練だけではない。自分自身の事柄であるなら尚更。
「なんか言ってましたか、鳴海隊長。」
「まぁ…決めるのはあいつだってくらいかな。」
吐き出した息が白く染まり、空気に溶けていく。雨宮を呼び出す前、鳴海は亜白に話をつけていた。亜白は厳しい口調で容認出来ない旨を伝えたが、才能を腐らせる余裕など防衛隊には無いと鳴海は両断した。上のやり取りで決着がつかないのであれば、結局のところ本人の意思次第である。
「んで、どうしたい?」
「どうもこうも、今言われたばかりなので。この場で決断は出来かねます。」
「ふーん。悩むなんて珍しいやん。」
含みのある言い方に雨宮は眉を寄せる。
「私も人間ですから。常日頃から即断即決ばかりしているわけではありません。」
「何を迷うことがあるんや。」
芳しくない反応。引き抜き自体が異例というわけではない。人事異動は日頃から存在しうる。問題は当事者に鳴海が含まれている事だ。防衛隊において最強を自負し、唯我独尊気質である男が認めた隊員。今後、その事実だけで雨宮に向けられる目は変わっていくだろう。実力を認知されるのは上司として喜ばしいことである。が、保科は大手を振って喜ぶ態度を見せない。
「僕としては、こっちにいる方が色々やりやすいと思うけど?」
「それは、関係ありません。どの環境でも同じクオリティを維持する事が本懐だと思うので。」
「真面目やなぁ。合う合わないはあるやろ、人間なんだし。」
「同僚はともかくとして。…私は亜白隊長の下で、鳴海隊長の言う最短を目指せるでしょうか。」
「どこいっても強くなれるかは君しだいや。」
「ですが…亜白隊長はそうではないようです。」
小隊長就任の辞令を受けた日。亜白は雨宮に対して庇護する気持ちがあることを訴えた。苦肉の判断。隊長として責務を全うする意思の裏にある個人的感情を隠さなかったのは、誠意か私利か。私利の内には後悔と懺悔と、喪失の恐れ。確かに死んでほしくないという願いが見える。
「忘れ形見とはいいませんが、あの人からはそのような扱いを感じます。求められようとも、強くなれなければ意味が無いと思います。停滞に変化は起こせません。」
「そないな扱い受けたくないなら、どうしてここに来た。第3に志願した時点でわかってた事やろ。」
自然と笑みが浮かぶ。保科に意図はなかろうとも、それは彼女にとってはいつかの問の続きだった。懐かしさを覚える、あの夜。胸ぐらを掴まれたあの日、保科は怒りを持っていた。今も似たような感情で問うているのだろうか。
「…私、履歴書にはなんて書きましたかね。」
「パッと思い出せないってことはたいした事書いてないやろな。あないなもんはどうとでも書ける。」
「確かに、誰にも言ったことが無いです。でも皆分かってるでしょ?」
兄がいたから。兄の背を追ってここに来た。けれど目指した人は既にいない。
「亜白隊長を責めるためだけにここに来たわけじゃ無いやろが。」
「…さあ。半分くらいは、合ってるかも。」
ふざけたことを抜かすな。込み上げる怒りのまま糾弾しないのは保科も精神的に成熟したからか。誹りを含まない口調だからか。いいや、揶揄われているのだろう。話をぼかされないようにと、保科は論点を戻した。入隊の動機なんてたいした問題じゃない。見送りの後、鳴海に揶揄われた苛立ちを持ったまま雨宮を探しに歩いたわけを、彼自身よく理解していた。
「僕は行ってほしくないけどな。」
「第1に行かれるのがそんなに癪ですか?根深くともしょうもない因縁なんかで引き止めるのは、」
「違う。君が他所に行ってまうのが嫌って意味。」
微かに見開かれた目。呆けた表情に保科は視線を逸らし、頬を掻く。
「ほら、手塩に掛けた部下の成長はそばで見守りたいやん?」
「…親心なら旅立ちを喜ぶべきだと思いますがね。」
最もな言い分に言葉を詰まらせかける。プライベートな感情が隠せていないが、亜白のような重苦しいものとは違うような気がして、雨宮はクスリと笑う。
「私、簡単には死にませんよ。目の届くところにいなくても、上手く生き延びます。」
「いや…なんか信用できんわ。てか別にすぐ死にそうだからってわけじゃなくてな。」
「はいはい。人として愛着を持っていただけるのは光栄です。」
「言い方。そこは好感やろ。」
「取り敢えずはじっくり考えます。無下にするのも申し訳ないので。」
煮え切らない、とでも言いたげな仏頂面で保科は雨宮の頭に積もる雪を払った。成されるままの姿はさながら飼い猫だ。雨宮自身、彼に気を許しているのを自覚していたが保科が引き止める理由がよく分からなかった。彼の持つ愛着の意味をまだ、理解できずにいる。
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