【eitr】短編まとめ
「北片さん、言われた通りの日時で会場と宿泊施設の予約しておきました」
「ありがとうございます」
激しい剣幕でキーボードを叩いている北片さんにそっと声を掛ければ、彼の目線が私に向いた。優しげな表情で一言そう言い、そしてすぐにパソコンへと視線を戻した。
自身も手元にあるタブレットで先日区長から提出されたフィーチャーツアーの予算案を確認し始めた。
朝班から始まり夜班までのファーストツアーが紆余曲折ありながらも無事に終了し、それなりに時間が経った今。社長である可不可から新たなツアーの始動が発表されたものの、ファーストツアーの発足時に比べれば社内は落ち着いているように見える。――が、夕班はというと、以前より活動が活発になったことでマネージャーを含めたメンバー総出で出払うことが増えた。ファーストツアーに宣伝効果があったのか、応援してくれるファンも増えたおかげでライブやファンイベントの開催も頻繁に行うようになっていたのだ。
そうなると必然的に北片さんも多忙を余儀なくされることになるのだが――この人、事務所にいても寮に帰ってもパソコンやタブレットを睨みながら物凄い速さでコードを打っているものだから少し心配になってくる。
事務業務の効率化を図る為、最近は北片さんのサポートをする形で彼の業務に加勢することが多くなったのだが、やることが多いこと多いこと。
「この後外出の予定ありましたよね。他にやっておくことはありますか?」
「明日の会議で使用する資料の準備をお願いします。あと――」
仕事の引き継ぎを行いながらノートパソコンを閉じ、テキパキと外出の準備を進めていく。そこまで難しい作業ではないが、就業時間までに終わらせるには急いだ方がいいだろう。
話を聞き漏らさないようにメモを取りながら指示を受けていると、部屋の扉が開いたことで話が止まる。誰かが部屋に入ってきたのだ。
「おっと、仕事の邪魔をしてしまったか?」
入ってきたのは北片さん――の兄である來人さんだった。今からレッスンなのか、いつもの深緑色のジャケットではなくジャージに身を包んでいる。
お疲れ様です、と会釈をすると片手を上げて笑顔で反応してくれた。端麗な顔立ちをしているのも合間ってそんな些細な仕草も様になるな、と見惚れていると、隣から不穏な雰囲気を放つ存在に気が付いて我に返った。
私の横に立つ北片さんはお兄さんを視界に入れると目を細め低い声で言い放った。
「邪魔だと思うのならさっさと出て行ってくれませんか。こっちは忙しいんです」
「あぁ、悪い」
「思ってもないのに謝るな」
相変わらずお兄さんに対しての当たりが強い。
普段は穏やかで物腰柔らかい人なのだが、お兄さんのことが絡むと途端に態度がひっくり返る。会社に勤め始めた当初はこの温度差にかなり驚かされたが、今となっては日常茶飯事になっていた。
一方、冷たい態度を向けられても全く気にした様子はなく、ニコニコと素敵な笑顔で弟を見ている人物に目を向ける。そんなちぐはぐな空気感の中、話に割って入らなければならないのは大変心苦しいが、部屋を訪ねてきた要件は聞いておかなければいけない。
「あの、北片さん――」
「はい」
「何だ?」
「おっと」
いつものように名前を呼べば、ふたりからの返事が同時に返ってきてしまい思わず気の抜けた声が漏れた。そういえば、お二方どちらも”北片さん”だった。兄弟で同じ空間にいる時は、毎度どうにも呼び方に困ってしまう。かといって苗字での呼び方が定着してしまっているものだから今更下の名前に変えるのもどこか照れくさい気もするのだ。
「よければ下の名前で呼んでくれ。キミもその方が呼びやすいだろう」
「呼びやすい……かな?」
何の迷いもなく言いのけるものだから、思わず心の声が口から出てしまった。慌てて手で口を抑える。
確かに呼んだ側も呼ばれた側も区別が付けられる点では便利だとは思うが、でも――と思ったところで言葉に詰まる。どこか期待を含んだ笑顔でこちらを見ている人を前に否を突きつけるのはどうにも憚られた。
「あー……ら、來人――さん?」
「あぁ、そっちの方がいいな」
うんうん、と頷いている來人さんとは裏腹に慣れるまで時間が掛かりそうだと思いながら次もうひとりに向き合う。
「えーっと――生行くん?」
「えっ」
「な、なんか変な感じですね。生行さん、の方がいいのかな」
「年も近いんだし、そのままでいいんじゃないか?」
「そうですか?」
この会社に入ってから一番関わりを持っているのは北片さ――生行くんだ。だから來人さんよりも少し照れくささを感じてしまい慌ててハードルを下げようとしたが、まんまと來人さんに阻止されてしまった。
かなり違和感があるが、そのうち慣れるだろうか。この調子では、最初は暫く間違えてしまいそうだとひとりで苦笑する。
「生行?」
ふと來人さんが名前を呼んだことで私も一緒になって彼の顔を覗き込んでみると、狐につままれたような表情で固まっていた。そんな様子を見かねた來人さんが顔の前でヒラヒラと手を振ってみせると、すぐに戻ってきた。そのままスマホに目を向けたかと思えば、もう会社を出る時間が迫っていたようで慌ただしく荷物を纏め始める。
「それじゃあ、俺は行きますね」
「あっ、はい! いってらっしゃい!」
「いってきます」
バタン、と部屋のドアが閉まる。
來人さんがやってきてから生行くんが退室するまでの一連の流れはまるで嵐のようだった、と数分の間に押し寄せてきた疲労感に大きく息を吐いた。
「なんか、慌ててました……?」
生行くんの表情は普段通りだった。しかし、最後の方は一切目が合わなかったのは何故なのだろうか。あんなに急がなくても、今から向かえば余裕をもって到着できるはずなのに――。
「あれは慌てていたというより、照れてるだけだろうな」
「照れ……?」
「まぁ、あまり気にしなくていいと思うぞ」
そんな風には見えなかったけどな。
言っていることは理解できず聞き返したが上手く話を逸らされてしまい、静かに首を傾げたのだった。
「そういえば、來人さんの要件は何でした?」
「あぁ、レッスン室にある機材の調子が悪くてな。工具を借りにきたんだ」
「えっ、ご自身で直されるんですか?」
「俺じゃないさ。幾成に任せようと思ってる」
「なるほど……」
* * *
足音を立てて廊下を歩く。いつもよりうんと早足で、何も考えないように前だけを見て社用車がある駐車場を目指した。途中で会議室から出てきた千弥と太緒が、そんな鬼気迫る表情で目の前を通り過ぎていった生行を不思議そうに見ていたことなど本人は気付いていない。
駐車場に着き、素早く社用車に乗り込む。運転席に座ってドアを閉める際に力が入ってしまい、いつもより大きい音が鳴ってしまったが、そんなことすら気にする余裕はなかった。
ようやくひとりになれた。
そう思えた途端、一気に身体の力が抜けてハンドルに上半身を預ける。そして、口から舌打ちが溢れた。
「……んだよ」
これは違う。決して、断じて違う。
最早誰に何の言い訳をしているのか分からない支離滅裂な言葉を並べ、とりあえず落ち着けと自分に言い聞かせる。
外での用事が済んだらどんな顔をして会社に戻ればいいのだろうか。早鐘を打つ心臓と赤く染まる顔を鎮まらせるように何度か深呼吸をして、車を発進させた。
「ありがとうございます」
激しい剣幕でキーボードを叩いている北片さんにそっと声を掛ければ、彼の目線が私に向いた。優しげな表情で一言そう言い、そしてすぐにパソコンへと視線を戻した。
自身も手元にあるタブレットで先日区長から提出されたフィーチャーツアーの予算案を確認し始めた。
朝班から始まり夜班までのファーストツアーが紆余曲折ありながらも無事に終了し、それなりに時間が経った今。社長である可不可から新たなツアーの始動が発表されたものの、ファーストツアーの発足時に比べれば社内は落ち着いているように見える。――が、夕班はというと、以前より活動が活発になったことでマネージャーを含めたメンバー総出で出払うことが増えた。ファーストツアーに宣伝効果があったのか、応援してくれるファンも増えたおかげでライブやファンイベントの開催も頻繁に行うようになっていたのだ。
そうなると必然的に北片さんも多忙を余儀なくされることになるのだが――この人、事務所にいても寮に帰ってもパソコンやタブレットを睨みながら物凄い速さでコードを打っているものだから少し心配になってくる。
事務業務の効率化を図る為、最近は北片さんのサポートをする形で彼の業務に加勢することが多くなったのだが、やることが多いこと多いこと。
「この後外出の予定ありましたよね。他にやっておくことはありますか?」
「明日の会議で使用する資料の準備をお願いします。あと――」
仕事の引き継ぎを行いながらノートパソコンを閉じ、テキパキと外出の準備を進めていく。そこまで難しい作業ではないが、就業時間までに終わらせるには急いだ方がいいだろう。
話を聞き漏らさないようにメモを取りながら指示を受けていると、部屋の扉が開いたことで話が止まる。誰かが部屋に入ってきたのだ。
「おっと、仕事の邪魔をしてしまったか?」
入ってきたのは北片さん――の兄である來人さんだった。今からレッスンなのか、いつもの深緑色のジャケットではなくジャージに身を包んでいる。
お疲れ様です、と会釈をすると片手を上げて笑顔で反応してくれた。端麗な顔立ちをしているのも合間ってそんな些細な仕草も様になるな、と見惚れていると、隣から不穏な雰囲気を放つ存在に気が付いて我に返った。
私の横に立つ北片さんはお兄さんを視界に入れると目を細め低い声で言い放った。
「邪魔だと思うのならさっさと出て行ってくれませんか。こっちは忙しいんです」
「あぁ、悪い」
「思ってもないのに謝るな」
相変わらずお兄さんに対しての当たりが強い。
普段は穏やかで物腰柔らかい人なのだが、お兄さんのことが絡むと途端に態度がひっくり返る。会社に勤め始めた当初はこの温度差にかなり驚かされたが、今となっては日常茶飯事になっていた。
一方、冷たい態度を向けられても全く気にした様子はなく、ニコニコと素敵な笑顔で弟を見ている人物に目を向ける。そんなちぐはぐな空気感の中、話に割って入らなければならないのは大変心苦しいが、部屋を訪ねてきた要件は聞いておかなければいけない。
「あの、北片さん――」
「はい」
「何だ?」
「おっと」
いつものように名前を呼べば、ふたりからの返事が同時に返ってきてしまい思わず気の抜けた声が漏れた。そういえば、お二方どちらも”北片さん”だった。兄弟で同じ空間にいる時は、毎度どうにも呼び方に困ってしまう。かといって苗字での呼び方が定着してしまっているものだから今更下の名前に変えるのもどこか照れくさい気もするのだ。
「よければ下の名前で呼んでくれ。キミもその方が呼びやすいだろう」
「呼びやすい……かな?」
何の迷いもなく言いのけるものだから、思わず心の声が口から出てしまった。慌てて手で口を抑える。
確かに呼んだ側も呼ばれた側も区別が付けられる点では便利だとは思うが、でも――と思ったところで言葉に詰まる。どこか期待を含んだ笑顔でこちらを見ている人を前に否を突きつけるのはどうにも憚られた。
「あー……ら、來人――さん?」
「あぁ、そっちの方がいいな」
うんうん、と頷いている來人さんとは裏腹に慣れるまで時間が掛かりそうだと思いながら次もうひとりに向き合う。
「えーっと――生行くん?」
「えっ」
「な、なんか変な感じですね。生行さん、の方がいいのかな」
「年も近いんだし、そのままでいいんじゃないか?」
「そうですか?」
この会社に入ってから一番関わりを持っているのは北片さ――生行くんだ。だから來人さんよりも少し照れくささを感じてしまい慌ててハードルを下げようとしたが、まんまと來人さんに阻止されてしまった。
かなり違和感があるが、そのうち慣れるだろうか。この調子では、最初は暫く間違えてしまいそうだとひとりで苦笑する。
「生行?」
ふと來人さんが名前を呼んだことで私も一緒になって彼の顔を覗き込んでみると、狐につままれたような表情で固まっていた。そんな様子を見かねた來人さんが顔の前でヒラヒラと手を振ってみせると、すぐに戻ってきた。そのままスマホに目を向けたかと思えば、もう会社を出る時間が迫っていたようで慌ただしく荷物を纏め始める。
「それじゃあ、俺は行きますね」
「あっ、はい! いってらっしゃい!」
「いってきます」
バタン、と部屋のドアが閉まる。
來人さんがやってきてから生行くんが退室するまでの一連の流れはまるで嵐のようだった、と数分の間に押し寄せてきた疲労感に大きく息を吐いた。
「なんか、慌ててました……?」
生行くんの表情は普段通りだった。しかし、最後の方は一切目が合わなかったのは何故なのだろうか。あんなに急がなくても、今から向かえば余裕をもって到着できるはずなのに――。
「あれは慌てていたというより、照れてるだけだろうな」
「照れ……?」
「まぁ、あまり気にしなくていいと思うぞ」
そんな風には見えなかったけどな。
言っていることは理解できず聞き返したが上手く話を逸らされてしまい、静かに首を傾げたのだった。
「そういえば、來人さんの要件は何でした?」
「あぁ、レッスン室にある機材の調子が悪くてな。工具を借りにきたんだ」
「えっ、ご自身で直されるんですか?」
「俺じゃないさ。幾成に任せようと思ってる」
「なるほど……」
* * *
足音を立てて廊下を歩く。いつもよりうんと早足で、何も考えないように前だけを見て社用車がある駐車場を目指した。途中で会議室から出てきた千弥と太緒が、そんな鬼気迫る表情で目の前を通り過ぎていった生行を不思議そうに見ていたことなど本人は気付いていない。
駐車場に着き、素早く社用車に乗り込む。運転席に座ってドアを閉める際に力が入ってしまい、いつもより大きい音が鳴ってしまったが、そんなことすら気にする余裕はなかった。
ようやくひとりになれた。
そう思えた途端、一気に身体の力が抜けてハンドルに上半身を預ける。そして、口から舌打ちが溢れた。
「……んだよ」
これは違う。決して、断じて違う。
最早誰に何の言い訳をしているのか分からない支離滅裂な言葉を並べ、とりあえず落ち着けと自分に言い聞かせる。
外での用事が済んだらどんな顔をして会社に戻ればいいのだろうか。早鐘を打つ心臓と赤く染まる顔を鎮まらせるように何度か深呼吸をして、車を発進させた。
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