Chapter.43[ウィンヒル]
~第43章 part.3~
午後から降りだした雨は、太陽が沈んでからも止むことがなかった。
しとしとと、耳に心地よい音を刻み続けている。
時計に視線を移して時間を確認し、テレビのスイッチを入れる。
毎日定刻に始まる報道番組は、そこに立ついつもの人物とは違う人間を映し出していた。
ぎこちないその動きは不慣れな様子を表し、その人物の一語一句聞き逃すまいと、記者たちは耳を済ませている。
そして動作と同じ様に拙い口調で語られる内容に、記者たちからカメラのフラッシュと共に浴びせられる言葉。
画面の中の人物は、それに応えることも出来ずにしどろもどろだ。
眼鏡の男は、その様子を見て少々苛立った。
画面の中の男は、逃げるようにそそくさとそこから退散し、別の場面を映し出していた。
「…はぁ、…ダメですか…」
「何がダメなんです?」
腰掛けているソファーの前のテーブルの上に、コーヒーカップを2脚下ろしながら声を掛けてきたのは、マーチン医師だ。
「あぁ、ありがとうございます。…いえ、今夜の記者発表のことです。…すいません、こちらのことですから…。大統領は?」
「もうお休みになりましたよ。少々熱があるようです。雨に濡れたせいでしょうが、心配するほどのことではありませんよ。化膿止めと解熱剤を投与させてもらいました。
…それから、レウァール大統領と何かお話されてたようですが、随分何かを考え込んでおられるようでした」
「話、ですか…」
「政治の世界のお話でしょうから、尋ねはしませんでしたが…」
ラグナとの会話の最中に入った緊急の通信は、デリングシティにある軍本部のゴードン・シモンズからのものだった。
フリーマン大佐が捕獲した魔女を、砂漠のD地区収容所に送還し、収容所の所長と研究室長とに引き渡したとの報告を受けた直後、全く連絡が取れないのだと言う。
こちらから何度も通信を呼びかけてみるが、全く反応はなく、本部から何人か直接収容所に出向かせる予定とのことだった。
砂漠の熱さで通信機が故障でもしたのか?
…しかし、全部がいきなり故障するとは考えられない。…何かが起こったのだ。
その為の部隊を動かす許可を、軍事部部長であるゴードン・シモンズが要請してきた。
ボルドはそれを許可し、何か判明したらすぐに連絡するようにとの指示を出した。
軽く夕食を済ませた後、マーチン医師の診察を受け、現在に至る。
「先程の通信のことですが…」
眼鏡の男がテレビに向かって正面に座るソファーの斜め前に腰掛けたマーチンがカップを手にしたまま切り出した。
「聞くつもりはなかったのですが…」
「いえ、別に構いませんよ」
「収容所と連絡が取れないとか?」
「…ええ。 …何か?」
「あ、いや、…そこの医療スタッフに、ちょっと知り合いがいまして…」
「!! そうだったんですか。…心配、ですね」
ふいに、テレビに雑音が入りだした。
映像が乱れ、何か別の物がチラチラと見える。
「!?」
「電波ジャックだ! すぐに録画を!!」
眼鏡の男は慌てて自分の鞄から取り出した録画ディスクをテレビに繋がれた機械にセットする。
乱れた画像は、ノイズを走らせながらも人物の影を映し出している。
『ガルバディア全地区の住民達よ、我々の声を聞け。我々は魔女を敬愛する者…』
「始まった!」
『ガルバディア大統領ボルド・ヘンデル、及びガルバディア政府に対し、再度魔女の解放を要求する。警告を無視した愚か者がどうなったのか、すでに承知のはず。
魔女を敵視するお前達こそこの世の敵!魔女に逆らう者には死を!魔女を崇拝する者に光を!人々よ立ち上がれ!この国を、人々を支配する政府に立ち向かうのだ!
偽りの平和しか与えられず、重要なこの時期に姿を見せぬ大統領など大統領と呼んでいいのだろうか?
ガルバディア政府よ、すみやかに魔女を解放しなければ犠牲者は更に増えることになるだろう。人々よ、集え、私の元へ。
私はハリー・アバンシア。魔女を敬愛する者。戦おう!真の平和の為に!魔女の為に!魔女の為に!!』
決定的だった。
それはつまり、大統領を銃撃した犯人と、今回の官僚暗殺の犯人は同一であること。
しかもこの言葉からも分かるように、被害はこれだけに留まらない可能性もある。
この魔女派を名乗る犯人の手による物ではない、別の人間の無差別な犯行が行われるかもしれない。
政府に敵対し、暴挙を繰り返す行為も、魔女派という傘の下で人々の横行を黙認することしか出来なくなってしまう。
これで、魔女派につく人間は益々増加の一途を辿ることになるだろう。
眼鏡の男は溜息と共に頭を抱えた。
すぐに通信が入る。
「はい、…私です。…はい、見ました。…いえ、大統領はすでにお休みで…はい。……なんですって!?公安だけでどうにかできないんですか!? ………はぁ…。
そうですか。……仕方ない、許可を出しましょう。しかし、くれぐれも傷つけずにお願いします。……なんです? ……連絡が取れないのは分かってます。
……もう一度送ることは?……ではそうして下さい。…前と同じように…ええ、そうです。何か分かったらすぐに連絡をお願いします。……はい、伝えます」
眼鏡の男の通信の様子を、見ていいものかどうか、耳に入ってくる言葉を聞いていいものかどうかマーチンは躊躇った。
しかし、通信を終えて再び自分の斜め前に腰を下ろした彼は別段気にした様子もなく、目の前に置かれたカップから静かにコーヒーを口にした。
「…伺っても、よろしいですか?」
恐る恐る、マーチンは問うてみた。
「…デリングシティで大規模なクーデターまがいのデモがあちこちで多発したらしいのです。先程の放送の影響かと…」
眼鏡の男は、隠すこともなくマーチンに話してしまう。
本来なら極秘情報として一般の人間には漏らすことは有り得ないはずであろう。
だが、今や彼らを制御できる機関はその機能を果たしておらず、ただただその模様を報道陣が世界中に流すことしかできないでいるのだ。
今更政府の弱体化を隠そうとしたところで、それは何の意味も持たないことを、この男は理解しているのだろうか。
「公安部は魔女派の暗殺事件に関する調査で手が一杯で、市民の暴動を抑えるところまで手が回らなくなってきました。
市民の暴動はエスカレートし、手が付けられない状態にまで激化しているとか。そこで、ガルバディア軍の出動を要請してきました。
…今や、官邸だけが安全だとは言い切れなくなっているようです」
「…連絡が取れないと仰っていたのは、例の収容所ですか?」
「ええ、侵入者があったそうで…。そう言えば、お知り合いがいると…?」
「ちょっとした知り合いです。同じ病院で働いていた同僚なんです」
「そうでしたか…。携帯型の通信機を持たせて偵察に出した部隊とも連絡が取れなくなったそうで…。一体何が起こっているというのだ…」
ボルドの様子を見に行くと言って席を立ったマーチンを見送り、眼鏡の男は再びテレビの音に耳を済ませた。
報道番組は、ここのところ流すべき内容に困るどころか、これ幸いとばかりにガルバディア政府の内面を曝け出そうとしているかのようだった。
そして、日に日に激化していく市民達の暴動や政府に対する人々の不満をこれでもかという程、繰り返し流している。
今まで政府の圧力によって表舞台に出ることのなかった評論家やアナリスト達が、長い時間自分の考えを世間に語っている。
そんな番組など、もう見る気も失せる。
手に様々な言葉を表記したカードや横断幕を下げた大勢の民衆の大群の揃った叫び声だけが、嫌に耳に残った。
ドアをノックする音が聞こえ、こちらから返事をする間もなくそのドアが開かれた。
随分不躾な輩がいたものだと、少々苛立ちを覚えながらも眼鏡の男はドアのほうに目を向けた。
そこから顔を出したのは意外な人物だった。
「よっ、邪魔するぜ~」
軽い口調と共に部屋に入ってきたのは、エスタの大統領であるラグナ・レウァールだった。
片手に酒と思われるボトルと、もう片方の手には2つのグラス。
「レウァール大統領! 如何されました?」
「いや~、さっき、ボルドを怒らせちまった詫びをな」
人懐こそうな笑顔に申し訳なさそうな言葉が重ねられている。
我が国の大統領と話をされた旨は聞いていたが、この部屋に戻ったときの大統領は別に気分を害していたようには見えなかった。
と、言うよりも、それどころではない、といったところであっただろうか?
大統領を怒らせるようなことを、彼は言ったのだろうか?
思わず、どんな話をしたのか、この大統領たる様相の全く見えない人物に聞いてみたくなった。
「ボルドは?」
いつの間にかちゃっかりソファーに腰を下ろし、ボトルの栓を開ける作業をしながら尋ねた。
「…あ、もうお休みになられました」
「えっ、もう? …参ったな~。色々ちゃんと話したかったんだけどな~」
この男を見ていると、なぜか腹の真ん中辺りに違和感を覚える。
別に空腹でも腹痛でもない、何か、胃袋を紐か何かで縛られたような、変な感触だ。
自分の国の大統領とは相反するような出で立ちと振る舞い。
こんなことで、あの大国を治めることなど本当にできているのかどうか、彼が本当に大統領という立場にあるのかさえ疑わしくなってくる。
言葉一つにとって見ても、とても国のトップが口にするとは思えない口調で、まるで友人とでも話しているかのような粗野で幼稚な話し方。
考え方すら子供じみていて、自分ならきっと付いていくことは出来そうもない。
一般的な常識の何かが欠落しているのかもしれない。
そんなことを考えていると、いつの間にか自分の目の前には並々と酒の注がれたグラス。
「じゃ、あんたでいいや。付き合ってくれ」
「あ、いえ、私、お酒は……」
「まぁまぁ、別に怪しいもんじゃねーよ。キッチンから1本拝借してきたんだ。ホントはボルドと飲もうと思ったんだけどよ」
仮にも相手は大統領。ここで断ってしまうのは、彼にも外交上にも悪いだろうかと思ってしまう。
腹の違和感が、また大きくなった。
奥の部屋からもう1人男が出てきた。
「おや、いらしてたんですか」
その音と声にラグナが顔を上げるが、ボルドではなかった。
奥の部屋で休んでいるボルドの様子を見に行ったマーチン医師が戻ってきたのだ。
マーチンは、入ってきた扉を静かに閉じると、ラグナの側まで歩み寄り、そしてテーブルに頭ごと体を押し付けるように倒れている人物を見止めて驚いた。
彼のこんな姿を見たのは初めてだ。
「…補佐官? どうしたんですか?」
「…あ、いや、その…」
ラグナがバツの悪そうな顔で曖昧に言葉を紡ぐ。
「悪い、こいつ…」
自分の手元に置いたボトルを少々持ち上げて見せた。…なるほど。
マーチンは苦笑いを浮かべながらラグナに謝罪する。
「こちらこそ、言っておくべきでしたね、彼が下戸だと」
「…飲めなかったのか。悪いことしちまったな~」
申し訳なさそうに後頭部を掻くラグナを見て、マーチンは年相応の笑顔を見せた。
「私で宜しければお付き合いしますよ」
午後から降りだした雨は、太陽が沈んでからも止むことがなかった。
しとしとと、耳に心地よい音を刻み続けている。
時計に視線を移して時間を確認し、テレビのスイッチを入れる。
毎日定刻に始まる報道番組は、そこに立ついつもの人物とは違う人間を映し出していた。
ぎこちないその動きは不慣れな様子を表し、その人物の一語一句聞き逃すまいと、記者たちは耳を済ませている。
そして動作と同じ様に拙い口調で語られる内容に、記者たちからカメラのフラッシュと共に浴びせられる言葉。
画面の中の人物は、それに応えることも出来ずにしどろもどろだ。
眼鏡の男は、その様子を見て少々苛立った。
画面の中の男は、逃げるようにそそくさとそこから退散し、別の場面を映し出していた。
「…はぁ、…ダメですか…」
「何がダメなんです?」
腰掛けているソファーの前のテーブルの上に、コーヒーカップを2脚下ろしながら声を掛けてきたのは、マーチン医師だ。
「あぁ、ありがとうございます。…いえ、今夜の記者発表のことです。…すいません、こちらのことですから…。大統領は?」
「もうお休みになりましたよ。少々熱があるようです。雨に濡れたせいでしょうが、心配するほどのことではありませんよ。化膿止めと解熱剤を投与させてもらいました。
…それから、レウァール大統領と何かお話されてたようですが、随分何かを考え込んでおられるようでした」
「話、ですか…」
「政治の世界のお話でしょうから、尋ねはしませんでしたが…」
ラグナとの会話の最中に入った緊急の通信は、デリングシティにある軍本部のゴードン・シモンズからのものだった。
フリーマン大佐が捕獲した魔女を、砂漠のD地区収容所に送還し、収容所の所長と研究室長とに引き渡したとの報告を受けた直後、全く連絡が取れないのだと言う。
こちらから何度も通信を呼びかけてみるが、全く反応はなく、本部から何人か直接収容所に出向かせる予定とのことだった。
砂漠の熱さで通信機が故障でもしたのか?
…しかし、全部がいきなり故障するとは考えられない。…何かが起こったのだ。
その為の部隊を動かす許可を、軍事部部長であるゴードン・シモンズが要請してきた。
ボルドはそれを許可し、何か判明したらすぐに連絡するようにとの指示を出した。
軽く夕食を済ませた後、マーチン医師の診察を受け、現在に至る。
「先程の通信のことですが…」
眼鏡の男がテレビに向かって正面に座るソファーの斜め前に腰掛けたマーチンがカップを手にしたまま切り出した。
「聞くつもりはなかったのですが…」
「いえ、別に構いませんよ」
「収容所と連絡が取れないとか?」
「…ええ。 …何か?」
「あ、いや、…そこの医療スタッフに、ちょっと知り合いがいまして…」
「!! そうだったんですか。…心配、ですね」
ふいに、テレビに雑音が入りだした。
映像が乱れ、何か別の物がチラチラと見える。
「!?」
「電波ジャックだ! すぐに録画を!!」
眼鏡の男は慌てて自分の鞄から取り出した録画ディスクをテレビに繋がれた機械にセットする。
乱れた画像は、ノイズを走らせながらも人物の影を映し出している。
『ガルバディア全地区の住民達よ、我々の声を聞け。我々は魔女を敬愛する者…』
「始まった!」
『ガルバディア大統領ボルド・ヘンデル、及びガルバディア政府に対し、再度魔女の解放を要求する。警告を無視した愚か者がどうなったのか、すでに承知のはず。
魔女を敵視するお前達こそこの世の敵!魔女に逆らう者には死を!魔女を崇拝する者に光を!人々よ立ち上がれ!この国を、人々を支配する政府に立ち向かうのだ!
偽りの平和しか与えられず、重要なこの時期に姿を見せぬ大統領など大統領と呼んでいいのだろうか?
ガルバディア政府よ、すみやかに魔女を解放しなければ犠牲者は更に増えることになるだろう。人々よ、集え、私の元へ。
私はハリー・アバンシア。魔女を敬愛する者。戦おう!真の平和の為に!魔女の為に!魔女の為に!!』
決定的だった。
それはつまり、大統領を銃撃した犯人と、今回の官僚暗殺の犯人は同一であること。
しかもこの言葉からも分かるように、被害はこれだけに留まらない可能性もある。
この魔女派を名乗る犯人の手による物ではない、別の人間の無差別な犯行が行われるかもしれない。
政府に敵対し、暴挙を繰り返す行為も、魔女派という傘の下で人々の横行を黙認することしか出来なくなってしまう。
これで、魔女派につく人間は益々増加の一途を辿ることになるだろう。
眼鏡の男は溜息と共に頭を抱えた。
すぐに通信が入る。
「はい、…私です。…はい、見ました。…いえ、大統領はすでにお休みで…はい。……なんですって!?公安だけでどうにかできないんですか!? ………はぁ…。
そうですか。……仕方ない、許可を出しましょう。しかし、くれぐれも傷つけずにお願いします。……なんです? ……連絡が取れないのは分かってます。
……もう一度送ることは?……ではそうして下さい。…前と同じように…ええ、そうです。何か分かったらすぐに連絡をお願いします。……はい、伝えます」
眼鏡の男の通信の様子を、見ていいものかどうか、耳に入ってくる言葉を聞いていいものかどうかマーチンは躊躇った。
しかし、通信を終えて再び自分の斜め前に腰を下ろした彼は別段気にした様子もなく、目の前に置かれたカップから静かにコーヒーを口にした。
「…伺っても、よろしいですか?」
恐る恐る、マーチンは問うてみた。
「…デリングシティで大規模なクーデターまがいのデモがあちこちで多発したらしいのです。先程の放送の影響かと…」
眼鏡の男は、隠すこともなくマーチンに話してしまう。
本来なら極秘情報として一般の人間には漏らすことは有り得ないはずであろう。
だが、今や彼らを制御できる機関はその機能を果たしておらず、ただただその模様を報道陣が世界中に流すことしかできないでいるのだ。
今更政府の弱体化を隠そうとしたところで、それは何の意味も持たないことを、この男は理解しているのだろうか。
「公安部は魔女派の暗殺事件に関する調査で手が一杯で、市民の暴動を抑えるところまで手が回らなくなってきました。
市民の暴動はエスカレートし、手が付けられない状態にまで激化しているとか。そこで、ガルバディア軍の出動を要請してきました。
…今や、官邸だけが安全だとは言い切れなくなっているようです」
「…連絡が取れないと仰っていたのは、例の収容所ですか?」
「ええ、侵入者があったそうで…。そう言えば、お知り合いがいると…?」
「ちょっとした知り合いです。同じ病院で働いていた同僚なんです」
「そうでしたか…。携帯型の通信機を持たせて偵察に出した部隊とも連絡が取れなくなったそうで…。一体何が起こっているというのだ…」
ボルドの様子を見に行くと言って席を立ったマーチンを見送り、眼鏡の男は再びテレビの音に耳を済ませた。
報道番組は、ここのところ流すべき内容に困るどころか、これ幸いとばかりにガルバディア政府の内面を曝け出そうとしているかのようだった。
そして、日に日に激化していく市民達の暴動や政府に対する人々の不満をこれでもかという程、繰り返し流している。
今まで政府の圧力によって表舞台に出ることのなかった評論家やアナリスト達が、長い時間自分の考えを世間に語っている。
そんな番組など、もう見る気も失せる。
手に様々な言葉を表記したカードや横断幕を下げた大勢の民衆の大群の揃った叫び声だけが、嫌に耳に残った。
ドアをノックする音が聞こえ、こちらから返事をする間もなくそのドアが開かれた。
随分不躾な輩がいたものだと、少々苛立ちを覚えながらも眼鏡の男はドアのほうに目を向けた。
そこから顔を出したのは意外な人物だった。
「よっ、邪魔するぜ~」
軽い口調と共に部屋に入ってきたのは、エスタの大統領であるラグナ・レウァールだった。
片手に酒と思われるボトルと、もう片方の手には2つのグラス。
「レウァール大統領! 如何されました?」
「いや~、さっき、ボルドを怒らせちまった詫びをな」
人懐こそうな笑顔に申し訳なさそうな言葉が重ねられている。
我が国の大統領と話をされた旨は聞いていたが、この部屋に戻ったときの大統領は別に気分を害していたようには見えなかった。
と、言うよりも、それどころではない、といったところであっただろうか?
大統領を怒らせるようなことを、彼は言ったのだろうか?
思わず、どんな話をしたのか、この大統領たる様相の全く見えない人物に聞いてみたくなった。
「ボルドは?」
いつの間にかちゃっかりソファーに腰を下ろし、ボトルの栓を開ける作業をしながら尋ねた。
「…あ、もうお休みになられました」
「えっ、もう? …参ったな~。色々ちゃんと話したかったんだけどな~」
この男を見ていると、なぜか腹の真ん中辺りに違和感を覚える。
別に空腹でも腹痛でもない、何か、胃袋を紐か何かで縛られたような、変な感触だ。
自分の国の大統領とは相反するような出で立ちと振る舞い。
こんなことで、あの大国を治めることなど本当にできているのかどうか、彼が本当に大統領という立場にあるのかさえ疑わしくなってくる。
言葉一つにとって見ても、とても国のトップが口にするとは思えない口調で、まるで友人とでも話しているかのような粗野で幼稚な話し方。
考え方すら子供じみていて、自分ならきっと付いていくことは出来そうもない。
一般的な常識の何かが欠落しているのかもしれない。
そんなことを考えていると、いつの間にか自分の目の前には並々と酒の注がれたグラス。
「じゃ、あんたでいいや。付き合ってくれ」
「あ、いえ、私、お酒は……」
「まぁまぁ、別に怪しいもんじゃねーよ。キッチンから1本拝借してきたんだ。ホントはボルドと飲もうと思ったんだけどよ」
仮にも相手は大統領。ここで断ってしまうのは、彼にも外交上にも悪いだろうかと思ってしまう。
腹の違和感が、また大きくなった。
奥の部屋からもう1人男が出てきた。
「おや、いらしてたんですか」
その音と声にラグナが顔を上げるが、ボルドではなかった。
奥の部屋で休んでいるボルドの様子を見に行ったマーチン医師が戻ってきたのだ。
マーチンは、入ってきた扉を静かに閉じると、ラグナの側まで歩み寄り、そしてテーブルに頭ごと体を押し付けるように倒れている人物を見止めて驚いた。
彼のこんな姿を見たのは初めてだ。
「…補佐官? どうしたんですか?」
「…あ、いや、その…」
ラグナがバツの悪そうな顔で曖昧に言葉を紡ぐ。
「悪い、こいつ…」
自分の手元に置いたボトルを少々持ち上げて見せた。…なるほど。
マーチンは苦笑いを浮かべながらラグナに謝罪する。
「こちらこそ、言っておくべきでしたね、彼が下戸だと」
「…飲めなかったのか。悪いことしちまったな~」
申し訳なさそうに後頭部を掻くラグナを見て、マーチンは年相応の笑顔を見せた。
「私で宜しければお付き合いしますよ」