Chapter.52[ガルバディア]
~第52章 part.1~
彼にとって、魔女とは必要のないもの、邪魔なものだった。
今自分が立っている地位を、この先もずっと保っていく事。それは彼の父がそうだったからなのか、彼自身も気付いていはいなかった。
この地位を手に入れてから今日まで、平穏だった月日はそう長くはない。そう、彼にとってはこれからだったのだ。
それなのに、なぜ今になって急にこのような大きな変動が起こるのだ。
まるで自分の役割を妬んでいるようだと、ガルムは思った。
ふう、と小さく溜息を落としながら手元の資料に目を落とす。
先日、人目を避けるように赴いた研究施設。そこで知らされた内容に、小さな可能性が見えた。
「ヘンデル学園長、お会いできて光栄です」
「…私を呼びつけるとは、それ相応のメリットがあるのだろうな」
「わたくし共のことはお聞き及びでしたでしょうか?」
「そんな機関がある、程度にはな」
「それはそれは…」
自分の父、ボルドよりも少々年齢は上だろうか。白髪交じりの短髪を綺麗に纏め、黒いスーツに身を包んだ男は口元を持ち上げて見せた。
名乗りもしないまま、男はガルムを先導するように歩きだすと、先を歩こうとした護衛の者を手で制して、一人ガルムは男の後に付いて歩き出した。
目の前を進む男はこちらを振り向きもせず、一言も声も出さず、ただ冷たい廊下に二人の靴音だけが響いている。
ガルムは、どこか既視感のようなものを覚えていた。
微かに薬品が混じったような独特の匂いと、遠くから響いて聞こえる重低音。
前を歩く男の背中を見ながら、はっと気が付いた。そうだ、ここはあの魔女研究所に似ている、と。
「こちらへ」
廊下の先を曲ったところは、エレベーターホールだ。
ガルムは一度足を止めて、扉が開かれたその昇降機を睨みつけた。
男はただ黙って同行人が乗り込むのを待っている。
これに乗ってしまったら、もう後戻りはできない。ふとそんな後ろ向きな思考が頭をよぎった。
だがそれも一瞬の事で、躊躇いもなくガルムはエレベーターに乗り込んだ。
最下層のボタンを押した男は、ガルムに背を向けたままだ。
ガルムも無言のまま、再び扉が開くのを待っている。
「…何も、お聞きにならないので?」
男が顔だけをこちらに向けて静かに声を掛ける。
「愚問だな。明確な返答が得られないとわかっている質問など無意味だ」
「それはそれは…」
何かを覆い隠すような薄い笑みを浮かべる男に、多少なりとも不快感を感じるのはガルムだけではないだろう。
僅かな重力の変異を感じた直後、音もなく扉が開いて男は箱を降りた。
先程の所よりも更に無機質で窓もない真っ白な廊下を、男は迷いもせずに歩いていく。
ガルムも一定の距離を保ったまま、男の後に続いた。
薬品独特のつんとするような匂いが鼻に付いたが、気にするほどでもない。
それよりも、表から見た時には感じなかったが、こうして中に入るとそこはかなり広い空間だとわかる。
こんな施設があったということに、今更ながら驚いた。
一つの部屋の扉を開けた男が、ガルムを促す。迷いもなくその部屋に足を踏み入れた。
研究室かと思ったが、そこはどうやら応接室のようだった。
導かれるままにソファーに腰を下ろすと、奥のもう一つの扉から白衣をまとった人物が何人か入室してきた。
女性の姿もある。研究所というのは、真実らしい。
先頭切って入室してきたのは、かなり高齢と見える人物で、皺の寄った眉間と垂れ下がった眉が目に付いた。
その目はじっとガルムを睨みつけ、何かを言いたそうに口をへの字に曲げている。
ガッ!ゴスッ、ベチャ!
「………」
「………」
「博士!大丈夫ですか!?」
「…う、うーむ、だ、大丈夫じゃ!年寄り扱い「するな」!」
「間違いなく博士は年寄りなんですから、ちゃんと前と足元を見て歩いて下さい」
「やかましいわい」
ガルムはどう反応していいかわからない。ただそのコントのようなやりとりを見つめることしかできなかった。
この博士と呼ばれる老人が、恐らくこの研究所での第一人者なのだろう。
助手と思しき女性に助け起こされて、それでもガルムを睨むことをやめない。
ガルムが腰かけているソファーの向かい側にゆっくりと腰を下ろした。
自分とはおそらく面識がないであろう、年輪の刻まれた顔に睨まれると言うのは、あまり心地良いものではない。
「………」
「………」
じっと睨んでくる痛いほどの視線に負けまいと、ガルムも老人を睨み返した。
「博士、ヘンデル学園長ですわ」
「…ふん、バカボルドの息子か」
「!!」
老人が腰かけているソファーの後ろに立った女性が、博士と呼ばれた老人に声を掛けた。
父を、知っている…?
きょとんとしているガルムの傍まで、女性が手に資料を持ったまま近付いてきた。
「お会いできて光栄ですわ、ヘンデル学園長。…思ったよりもずっとハンサムで嬉しいわ。お父様に似なくて良かった」
一国の大統領である男の息子を前に、かなり正直に毒舌を吐きながらも、美しい笑顔を向けた。
静かに立ち上がり、ガルムは差し出された片手を軽く握り返した。
「同感ですよ。母には感謝しています。…あなたは面白い方だ」
女性は名乗る事もなく、手に持っていた資料をそのままガルムに手渡した。
再び老人の背後にまわり、ガルムに資料を見るように合図する。
「私たちの研究が認められて光栄ですわ、学園長。しかもかのガルバディアガーデン!」
研究を認めた…!? 自分が?
身に覚えなどない。目の前にいるこの人物達の事もよくわからないまま、よくわからない研究資料を渡され、よくわからないことを言われている。
ガルムは頭が混乱しそうになっていた。
聞きたいことはたくさんある。知りたいことは全部だ。
だが、それのどれにも、恐らく回答は返らないだろう。
ならば質問する意味はない。
ただ手渡された資料に目を通した。
「この結果が出せたのは博士のお力ですわ」
「やかましい」
「ですが、この研究が進んだのは、あなたのお陰ですよ」
部屋に案内して来た黒スーツの男が声を掛ける。
「世界を救う為ですもの。何でもないわ」
ゆっくりと腰を落としながら、手元の紙の束に目を落とす。
そこに記されていた事柄。
幼い頃に初めて知り、やがてガーデンで学ぶことになる内容、そして誰もが知るこの世界に残る歴史と伝説。
そう、『魔女』について。
ガルム自身も、そのことについて幼少のころから学ばされてきた。
パラパラとページを捲り、そして小さく鼻で笑う。
こんな、当たり前で誰もが知る事を今更何だと言うのだ。この研究者達は自分に一体何を知らしめようとしているのか、その意図が全く理解できない。
資料をバサリとデスクの上に置いて、ガルムはソファーの背もたれに身を深く預けた。
「これが何だと言うのだ」
「…フフ」
「なんじゃい、バカの息子は阿呆か」
「なんだと」
女が再びこちらに向かって近付いてきた。その顔に怪しくも美しい笑みを湛えて。
ガルムは視線を動かすことはしなかった。女が自分の背後にゆっくりと回ってくるのを感じていた。
「学園長、まず、ちゃんと私たちの研究がどんなものか知って頂きたいの。…私たちの事を認めて下さってるんでしょう?」
「………」
「わざわざ、こんな穴倉にまでご足労頂いたんですもの。その分の代償は支払わなくちゃ」
→part.2
彼にとって、魔女とは必要のないもの、邪魔なものだった。
今自分が立っている地位を、この先もずっと保っていく事。それは彼の父がそうだったからなのか、彼自身も気付いていはいなかった。
この地位を手に入れてから今日まで、平穏だった月日はそう長くはない。そう、彼にとってはこれからだったのだ。
それなのに、なぜ今になって急にこのような大きな変動が起こるのだ。
まるで自分の役割を妬んでいるようだと、ガルムは思った。
ふう、と小さく溜息を落としながら手元の資料に目を落とす。
先日、人目を避けるように赴いた研究施設。そこで知らされた内容に、小さな可能性が見えた。
「ヘンデル学園長、お会いできて光栄です」
「…私を呼びつけるとは、それ相応のメリットがあるのだろうな」
「わたくし共のことはお聞き及びでしたでしょうか?」
「そんな機関がある、程度にはな」
「それはそれは…」
自分の父、ボルドよりも少々年齢は上だろうか。白髪交じりの短髪を綺麗に纏め、黒いスーツに身を包んだ男は口元を持ち上げて見せた。
名乗りもしないまま、男はガルムを先導するように歩きだすと、先を歩こうとした護衛の者を手で制して、一人ガルムは男の後に付いて歩き出した。
目の前を進む男はこちらを振り向きもせず、一言も声も出さず、ただ冷たい廊下に二人の靴音だけが響いている。
ガルムは、どこか既視感のようなものを覚えていた。
微かに薬品が混じったような独特の匂いと、遠くから響いて聞こえる重低音。
前を歩く男の背中を見ながら、はっと気が付いた。そうだ、ここはあの魔女研究所に似ている、と。
「こちらへ」
廊下の先を曲ったところは、エレベーターホールだ。
ガルムは一度足を止めて、扉が開かれたその昇降機を睨みつけた。
男はただ黙って同行人が乗り込むのを待っている。
これに乗ってしまったら、もう後戻りはできない。ふとそんな後ろ向きな思考が頭をよぎった。
だがそれも一瞬の事で、躊躇いもなくガルムはエレベーターに乗り込んだ。
最下層のボタンを押した男は、ガルムに背を向けたままだ。
ガルムも無言のまま、再び扉が開くのを待っている。
「…何も、お聞きにならないので?」
男が顔だけをこちらに向けて静かに声を掛ける。
「愚問だな。明確な返答が得られないとわかっている質問など無意味だ」
「それはそれは…」
何かを覆い隠すような薄い笑みを浮かべる男に、多少なりとも不快感を感じるのはガルムだけではないだろう。
僅かな重力の変異を感じた直後、音もなく扉が開いて男は箱を降りた。
先程の所よりも更に無機質で窓もない真っ白な廊下を、男は迷いもせずに歩いていく。
ガルムも一定の距離を保ったまま、男の後に続いた。
薬品独特のつんとするような匂いが鼻に付いたが、気にするほどでもない。
それよりも、表から見た時には感じなかったが、こうして中に入るとそこはかなり広い空間だとわかる。
こんな施設があったということに、今更ながら驚いた。
一つの部屋の扉を開けた男が、ガルムを促す。迷いもなくその部屋に足を踏み入れた。
研究室かと思ったが、そこはどうやら応接室のようだった。
導かれるままにソファーに腰を下ろすと、奥のもう一つの扉から白衣をまとった人物が何人か入室してきた。
女性の姿もある。研究所というのは、真実らしい。
先頭切って入室してきたのは、かなり高齢と見える人物で、皺の寄った眉間と垂れ下がった眉が目に付いた。
その目はじっとガルムを睨みつけ、何かを言いたそうに口をへの字に曲げている。
ガッ!ゴスッ、ベチャ!
「………」
「………」
「博士!大丈夫ですか!?」
「…う、うーむ、だ、大丈夫じゃ!年寄り扱い「するな」!」
「間違いなく博士は年寄りなんですから、ちゃんと前と足元を見て歩いて下さい」
「やかましいわい」
ガルムはどう反応していいかわからない。ただそのコントのようなやりとりを見つめることしかできなかった。
この博士と呼ばれる老人が、恐らくこの研究所での第一人者なのだろう。
助手と思しき女性に助け起こされて、それでもガルムを睨むことをやめない。
ガルムが腰かけているソファーの向かい側にゆっくりと腰を下ろした。
自分とはおそらく面識がないであろう、年輪の刻まれた顔に睨まれると言うのは、あまり心地良いものではない。
「………」
「………」
じっと睨んでくる痛いほどの視線に負けまいと、ガルムも老人を睨み返した。
「博士、ヘンデル学園長ですわ」
「…ふん、バカボルドの息子か」
「!!」
老人が腰かけているソファーの後ろに立った女性が、博士と呼ばれた老人に声を掛けた。
父を、知っている…?
きょとんとしているガルムの傍まで、女性が手に資料を持ったまま近付いてきた。
「お会いできて光栄ですわ、ヘンデル学園長。…思ったよりもずっとハンサムで嬉しいわ。お父様に似なくて良かった」
一国の大統領である男の息子を前に、かなり正直に毒舌を吐きながらも、美しい笑顔を向けた。
静かに立ち上がり、ガルムは差し出された片手を軽く握り返した。
「同感ですよ。母には感謝しています。…あなたは面白い方だ」
女性は名乗る事もなく、手に持っていた資料をそのままガルムに手渡した。
再び老人の背後にまわり、ガルムに資料を見るように合図する。
「私たちの研究が認められて光栄ですわ、学園長。しかもかのガルバディアガーデン!」
研究を認めた…!? 自分が?
身に覚えなどない。目の前にいるこの人物達の事もよくわからないまま、よくわからない研究資料を渡され、よくわからないことを言われている。
ガルムは頭が混乱しそうになっていた。
聞きたいことはたくさんある。知りたいことは全部だ。
だが、それのどれにも、恐らく回答は返らないだろう。
ならば質問する意味はない。
ただ手渡された資料に目を通した。
「この結果が出せたのは博士のお力ですわ」
「やかましい」
「ですが、この研究が進んだのは、あなたのお陰ですよ」
部屋に案内して来た黒スーツの男が声を掛ける。
「世界を救う為ですもの。何でもないわ」
ゆっくりと腰を落としながら、手元の紙の束に目を落とす。
そこに記されていた事柄。
幼い頃に初めて知り、やがてガーデンで学ぶことになる内容、そして誰もが知るこの世界に残る歴史と伝説。
そう、『魔女』について。
ガルム自身も、そのことについて幼少のころから学ばされてきた。
パラパラとページを捲り、そして小さく鼻で笑う。
こんな、当たり前で誰もが知る事を今更何だと言うのだ。この研究者達は自分に一体何を知らしめようとしているのか、その意図が全く理解できない。
資料をバサリとデスクの上に置いて、ガルムはソファーの背もたれに身を深く預けた。
「これが何だと言うのだ」
「…フフ」
「なんじゃい、バカの息子は阿呆か」
「なんだと」
女が再びこちらに向かって近付いてきた。その顔に怪しくも美しい笑みを湛えて。
ガルムは視線を動かすことはしなかった。女が自分の背後にゆっくりと回ってくるのを感じていた。
「学園長、まず、ちゃんと私たちの研究がどんなものか知って頂きたいの。…私たちの事を認めて下さってるんでしょう?」
「………」
「わざわざ、こんな穴倉にまでご足労頂いたんですもの。その分の代償は支払わなくちゃ」
→part.2