お前にだけは絶対言わない
──最悪だ。
好奇心で目を輝かしていることを隠しもしない五色の姿に、胸の中で大きなため息をつく。俺が口を開くのを待っているのは、何も五色ばかりではない。テーブルを囲んで座したメンバーが、じっと俺を見る。食堂には他に学生はおらず、沈黙が場を支配する。
「……います」
「えっ、まじで白布好きな子いるの?!」
「これ以上は何も言いません、いるかいないかしか聞かれてませんから」
思っていたより棘のある声が響き、途端に驚きと好奇心の入り混じった瀬見さんの表情が引っ込む。これ以上、この場でこの件について言及するつもりはない。なにせ当の本人が目の前にいるのだ。何も知らないで、瀬見さんと同じ表情で。瀬見さんが口にしなければ五色が問うていたのだろう。今だって、何か言いたそうに小さく口を開いたり閉じたりしている。一瞥をくれると、その口もキュッと閉じる。それでいい。なるべく早く忘れてくれたら尚のこと良い。
「……ほら、次のゲーム始めましょうよ」
妙な空気になってしまった場を誤魔化すように、そう口にした。シャッフルされた手札が配られる。手元に伏せられたカードを開いて、もう二度と負けは許されないと、人知れず覚悟を決めた。
お前にだけは絶対言わない
「白布さん、そういえば前言ってた好きな人ってどうなったんですか」
人の少ないゴールデンウィークの食堂で、たまたま鉢合わせた五色が不意に口にする思いがけない言葉。あまりの唐突さに、嚥下の仕方を忘れたかのようにむせこんだ。
「ちょ、大丈夫ですか?」
「……っいきなりなんなんだよ」
差し出されたグラスを受け取って、いまだに何か貼り付いているような感覚の残る喉に流し込む。やっとのことで人心地つくと、存外に真剣な眼差しの五色と目があった。
「……そんな昔のことよく覚えてんな」
誤魔化し半分、本音半分と言ったところか。1学年上の3年生がまだ学生寮にいた、最後の冬。暇つぶしに始めた大富豪で、誰が言い出したのか、1番最初に上がったプレイヤーが最下位に一つだけ質問をすること、最下位のプレイヤーは質問には必ず正直に答えること、そんなルールが付け加えられた。要するに、最下位にさえならなければ良い。そんな気軽さで始めたが、何巡目かのゲームで思いがけず最下位の汚名を被ることになってしまった。
「え〜?賢二郎が最下位って初めてじゃない?」
1番に上がった天童さんが──この手のゲームでこの人に勝つのは相当難しい──ニヤニヤと楽しそうに言う。そのわずかの間に嫌な予感が脳内を走り、そしてそれは現実に変わった。
「ん〜、じゃあ、……今好きな人いる?」
途端に他のメンバーまでも目の色が変わる。好奇心を帯びた、何か期待に満ちた目。そりゃそうだ。所詮は男子高校生の集まりで、いわば一番恋愛だの恋人などと言う存在に羨望を抱いているのだから。これまでも、誰かが呼び出されたの、付き合っただの別れたの。そんなことがあるたびに、ロッカールームで話題の種になっていた。俺だって興味がないわけじゃない。だけど相手が良くなかった。同じ部活の、レギュラーの、しかも後輩なんて。これがバレたら部活に居辛くなる上に、卒業までまだ一年以上あるのだ。その間ずっと避けたり避けられたりなんて死んでもごめんだ。だから、聞かれたこと、つまり「好きな人がいるか」についてだけ答え、それ以降のゲームで最下位にならないことだけに集中していた。当たり前だ。次に最下位になったら聞かれることはただ1つ、「相手は誰か」と言うことだけだ。幸い、その後は順調に最下位を逃れ、訪れた消灯時間を理由に集まりは解散となった。
「なんか気になって、あれからどうなったのかなって」
「……どうでもいいだろ今更」
「えー、教えてくださいよ。気になりすぎて、俺授業中も寝られないんですよ」
「授業は起きてていいんだよ、ちょうどいいじゃねえか」
それもそうですね、なんて茶碗片手に笑う顔が可愛い。この数ヶ月で、五色は俺の前でよく笑うようになった。上の学年が抜けて、現3年の俺たちと、五色をはじめ2年生とでなんとかチームを立て直そうと試行錯誤する中で、徐々に前よりも距離が縮まった、ような気がする。気のせいかもしれないけど。
「……どうもなってない」
「え、そうなんですか」
意外そうに目を見開く五色。別にどうもなってないし、今目の前で口いっぱいに飯を頬張っているよ、と教えてやったらどんな顔をするんだろう。少し想像して緩んだ口元が、次の一言で引っ込んだ。
「俺が女子だったら嬉しいですけどね、……白布さんに好きになってもらったら」
「……そうかよ」
胃に鉛の塊を落とし込まれたような気分だ。突然味のしなくなった夕飯をろくに噛まずに飲み込んでいく。自分のことかもしれないなんて微塵も思っていないんだろう。そうふるまったのは俺だが、いざ目の前で1ミリの可能性もないことを突きつけられるのは辛い。
「……どんな人なんですか、」
「何が」
「その、……白布さんの好きな人ですよ」
「言わねえよ」
「えー、ヒントだけでも」
「……死ぬほど鈍いやつ」
きっと苦虫を噛み潰したような顔をしているに違いない。最後の一口をグラスの水で流し込み、そのまま箸を置いた。カタン、と思ったよりも大きな音がする。怪訝そうな五色を尻目に、プラスチックのトレーを返却口へ戻して食堂を後にした。
もやもやとした気持ちのまま自室のベッドに寝転がる。普段なら騒がしい食後の時間も、連休で帰省している学生が多いせいかシンと静まりかえっている。時折聞こえる足音は風呂か食堂に向かうものだろう。目を瞑ると、蛍光灯の光が輪っかのように瞼の裏に映った。
失敗した。あんな変な態度を取ってしまうなんて。食堂での一幕が何度も脳内で繰り返される。
「……あー」
無意識に口をついて出るため息。自分以外誰もいない部屋に吸い込まれ、後には何も残らない。五色の頭からもさっさと消え去ればいいのに。そんなことを考えていると、ゆっくりとためらうような足音が部屋の前で立ち止まった。誰か来たのだろうか。今は誰かと話す気分ではなくて、居留守でやり過ごそうかとも思った。小さな、けれど重量のあるノックが2回。
そして、おずおず、と言った感じの声の響き。
「……白布さん、いますか?俺です、五色です」
ああ、今は一番会いたくないのに。けれど、無視しても明日の朝には顔を合わせる羽目になる。どうせ気まずいなら、大勢の前で妙な空気になるより今のうちに修復しておいた方が賢明だろう。
「……入れよ」
ベッドの上で身体を起こすと、カチャリという小さな音ともにドアが開き五色が姿を見せる。
「……すみません、急に」
「別にいい、……座れば?」
少し身体をずらしてスペースを作ると、五色は素直にその空間に腰を下ろした。俺も同じように腰掛けるとスプリングは重量に耐えかねるような軋み音を立てる。自分から部屋までやってきたくせに、五色は話し出そうとしない。何の用だろう。ちらりと目をやった五色の髪の毛は僅かに濡れていた。
──風呂上がりかよ。
気づいてみれば、微かにシャンプーなのか石鹸なのか、さわやかな匂いがしているし、頬の血色もいつもより良い気がする。そのせいか、普段よりちょっと可愛く見える。自分よりでかくて体格もしっかりしてるのに、そんなささやかなスパイスで可愛くみえるなんて俺の頭はやっぱりどうにかしてるみたいだ。そんな動揺を悟られないよう、慎重に口を開いた。
「……で、なんの用だよ」
「あ、あの白布さん今日誕生日だったな、って風呂入ってる時に気づいて!それで……これ、大したものじゃないんですけど……」
前もって準備してくれていたのだろう。少しくたびれた感じの袋はスポーツ用品店のもので、ご丁寧に紺色のリボンもついていた。
「……ありがとう」
受け取ったプレゼントのリボンを解いて中身を取り出すと、俺が気に入ってよく使っているタオルと同じメーカーのタオルだった。
「本当、大したものじゃないんであれなんですけど」
「いや、わざわざありがとな」
誕生日に、風呂上がりの好きな子がプレゼント持ってきてくれるなんて、それだけで100点満点以上だろう。本心でそう思いながら礼を言うと、五色はまだ何か言いたそうに俺のことを見る。
「……どうした?」
「あの、……さっきの、食堂の時の話ですけど」
「またその話かよ、相手がどうとか、言うつもりないから」
そもそも言えるわけないし。まあ言うつもりもないし。もらったプレゼントに目を落とす。せっかく嬉しい気持ちになったのに、急にその感情が萎んでいくような気がした。ぞんざいな気分で続きの言葉を待つ。
「えーっと、あの時俺が女の子だったらって言いましたけど、……俺が俺でも、白布さんに好きになってもらったら嬉しいと思います」
は?
思わず顔を上げると、見たことないくらい真っ赤な顔している五色と目があった。どうせセッターとしての俺に、とかだろうなんて斜に構えていたコンマ数秒前の考えが吹き飛ぶ。それはつまり、どう意味だ。
「……それは、どう言う……意味、」
かろうじて動く唇が、絞り出すように脳に浮かんだ言葉を音声にして紡ぎ出す。掠れた声が文章を成し、それが五色の次のアクションを押し出す。不意に手を引かれ、ぎゅっと握られた。熱い手のひらは少し湿っている。
「白布さんが、……俺のこと好きだったらいいなって意味です」
「……俺の言ってる“好きな人”がどう言う好きかわかってんの」
「え、」
「……キスとかしたいって意味だけど、」
わかっているのか、と言い切る前に五色の唇が俺の口に触れた。それはほとんどかすったしか言えないものだったけれど、紛れもなくキスの意図だった。
「俺の好きも、こう言う好きです」
手は繋がれたまま五色の腿の上に置かれている。
俺の手を包む手のひらに込められた力。これは、はっきり答えるまではこのままだということだろう。視線を床に落として、深く息を吸う。鼓動の音が聞こえそうなくらい、心臓が早鐘を打っていた。
「……っあー、……俺が好きなのはお前だよ」
大きなため息と、世界一カッコ悪い告白。繋がったままの手が、さっきよりも強い力で握られる。照れくささと気まずさで顔を上げることができないまま、それでも五色の反応が知りたくて横目で覗き見ると、驚きなのか喜びなのかわからない変な顔をしていて思わず笑ってしまった。
「なんだよその顔、」
「だ、だって、信じられないですよ、……俺、玉砕するつもりで」
「……キスまでしたくせに」
情け無い表情のまま言い訳を口にする五色に、ついちゃちゃを入れると、多分2人ともさっきのことを思い出したのだろう。かすっただけの柔らかい唇。静まった室内に、やや気まずい空気が流れる。
「……もう一回する?」
場を和ませようとふざけて聞いてみたら、思ったよりも食い気味に頷かれた。
繋いだ手はそのままに向き合うと、自分で質たずねたくせに緊張してきて、少しばかり後悔がよぎる。顔を見合わせてまじまじと見つめあっていても仕方ない。ゆっくり瞼を閉じて、しばし待ってみる。しばらく経っても何も起きない。薄目を開くと、先程と変わらない緊張した面持ちで固まったままの五色がいた。
「……おい、」
「う、すみません……、まだ信じられなくて」
「だからって、……俺がバカみたいだろ」
「……はい、すみません」
律儀に謝るのがまたおかしくて、笑いはじめた俺の口を塞ぐように五色の顔が近づいて、慌てて目を閉じる。柔らかい感触と温もり。瞼の裏で光が弾ける。さっきよりも長い間くっついていたそれが、名残惜しそうに離れていくのを確認してそっと目を開いた。耳まで赤く染まっているのは、多分きっと俺も同じだ。そのままどうしていいかわからない俺たちは、ぎこちなく言葉を交わして、消灯時間を言い訳に五色を部屋から送り出した。廊下の途中で何度か振り返る五色にさっさと帰れと手を振って、その背中が見えなくなってから扉を閉めてその場に座り込む。
──こんなはずじゃなかったのに。
無意識に反芻する先程の記憶。やっと消え去った頬の熱がまたぶり返しそうな気がする。背中に扉の冷たさを感じながらそうしていると、またしても来訪者を告げるノックの音が響いた。気を鎮めようと何度か呼吸をして立ち上がり、扉を開くと川西がいた。
「……何」
「何だよ、ご機嫌ななめ?……これ誕プレ、部活のとき渡そうと思って忘れてた」
「わざわざいいのに、……まぁでもありがとう」
受け取った袋は五色のそれよりもさらにくたびれていて、きっとロッカーかバッグの奥底に眠っていたのだろう。
「……ていうかさぁ、なんか顔赤くない?熱?」
「いや、これは別にそういうんじゃない」
思わぬ指摘に慌てて否定する。それを知ってか知らずか、追い討ちをかけるように川西は質問を重ねた。
「ふーん、……さっき五色とも会ったんだけどなんかあいつもやたらと顔赤くてさぁ、……もしかしてなんかあった?」
察しがついているのかいないのか、なんとなくいつもよりにやけた表情に、思わず口を開いた。
「……お前にだけは絶対言わない」
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