Dear E From A
アモンは震える足を勇気づけて、一歩一歩を踏みしめるように歩いた。背後には常に気を使っていたし、廊下には既に人の気配は無かった。恐らく、見つかることは無いだろう。
部屋に踏み入れた瞬間、音もなくセンサー式の明かりがつく。驚きのあまり、声が出そうになるが、なんとか堪えた。アモンは生唾を飲む。
明るくなった部屋を見渡せば、そこはなんてことの無い研究室だった。
設備の過不足は無く、おかしなところは何も無い。アモンはどっとため息をついた。気の抜けた瞬間、疲労感のようなものが溢れ出す。
期待していた面白そうなことは無かったが、これで何かあれば、それはそれで困ることだ。
さあ、仕事に戻るかと、アモンは背を向けて、立ち去ろうとした。
────アモンは、【その可能性】を完全に失念していた。
【中に人がいる】という可能性を。
「おや、帰ってしまうのかい」
背後から突然投げかけられた言葉に、アモンは心臓が冷えていく感覚がした。
人がいたのかという驚きと、罰を受けるかもしれないという恐怖が心を支配する。動揺に声の出せないアモンを見かねたのか、相手は困ったようにため息をついた。
「…もしかして、僕が怒っているとでも思っているのかい?心外だな、僕は【君と同じ】だよ」
君と同じ、という単語に、安心感を覚えたのか、アモンはゆっくりと体を相手に向けた。
年の若い男だった。癖のある黒髪を後ろで縛り、いかにも人の良さそうな笑みを浮かべている。白衣は着ていなかったが、職員証を下げている。研究員の一人だろうか、とアモンは考える。
「初めまして。僕はカイン。この研究所の副所長だ」
は、とアモンは気の抜けた声を出す。この男は、今副所長と言ったか。アモンはカインをまじまじと見てしまう。
「そんなに見られても困るなあ」
ははは、と陽気に笑うカインは、副所長の威厳を全くといっていいほど感じなかった。アモンもカインに釣られ、小さく笑う。
「ここで君は何を?」
突然の核心を突くような質問に、アモンはぐっと押し黙る。カインは笑ってはいるが、答えろ、と言わんばかりの雰囲気があった。
「あ…えっと…注射器…そう、注射器です」
注射器、とカインは言葉を反復する。
「そうです。ここに注射器が落ちていて…中からも注射器が出てきて…」
言い訳は随分と散文的だったが、アモンは扉を飛び出し、これです、と廊下に置いていた袋をカインに差し出す。
カインはそれを受け取り、暫く覗き込んだ後、首を傾げる。
「なんだい、これ?」
アモンは髪を掻き回す。そんなの俺が聞きたい、と思った。
大体、この男はこの部屋にいたのでは無いのだろうか?注射器が転がってきたのは間違いなくこの部屋だし、中からドアを開けたのは彼のはずだ。
「…もしかして、とぼけてます?」
考え込んでいたことが、思わず口から飛びでてしまった。まずい、と思い目の前のカインを見れば、驚いたように目を瞬いていた。
「…驚いたな。そんな事を言われるなんて」
「す、すみません」
アモンは反射的に頭を下げた。首だ、と目を瞑っていると、笑い声が降ってきた。
「あはははははははは!!!!」
アモンが顔を上げれば、カインは腹を抱えて笑っていた。本当に可笑しがっているようで、目元には涙さえ浮かんでいた。
突如として笑いだしたカインを、アモンは呆然と見ることしか出来ない。
「ごめん、ごめん、可笑しくて!」
「はあ……」
「いいんだ、とぼけていた……それは本当だから。バレちゃったら仕方がないなあ」
カインは笑顔を浮かべたまま、パンツのポケットに手を入れる。流れるような動作は、アモンの視界には入らなかった。
「残念だな、もっと君と話したかった」
「え…?」
カインの翠色の双眸が、アモンを射抜くように見つめている。アモンは見入って目が離せない。
瞬間、カインの瞳が、鈍く輝いたような気がした。
「僕は君と同じ───【嘘つき】だからさ」
───カインのその手には、全自動式の銃が握られていた。
そしてその銃口は、アモンに向けられたものだった。
「怒ってないのは本当だったよ」
ガチャン、と銃が起動する無機質な音が聞こえる。
「さようなら」
終わったな、とアモンは思った。
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