Dear E From A
「そもそもさ、こんなところで働くっていうのが、俺は間違いだったと思うよ」
重たいモップを気だるげに縦横に動かしながら、男────アモンはため息をついた。
その言葉は隣にいる同僚────アイリスにかけられたものだ。
「なんだよ急に」
「この時代に、掃除夫?しかも高給料でさ。怪しいと思うでしょ、普通」
モップで磨いても磨いても、床は輝きを増すだけだ。元々埃一つない床を、掃除することに一体なんの意味があるのかとアモンは思わずにはいられない。
────世界がひとつに統一されてからというものの、【世界政府】からは毎月一定の金銭が支給されるようになった。成人すれば個別の住居も割り当てられる。金の価値は無くなり、家もある。人々は働く必要も無くなった。人が労働に勤しんでいたのは、もう大昔のことだ。今やロボットが大概の仕事をこなしていて、一日寝ていてもバチは当たらない。
それなのに、とアモンは思う。この隣の、今もせかせかとモップを動かす男は、働きたいなどと言い出したのだ。
「しかもあの【世界魂学研究所】!科学機関の大御所だぜ?それこそロボットだってうじゃうじゃいる」
アモンは辺りを見渡す。ここは研究所のエントランスホールだ。玄関だというのに、受付員はおろか、人は二人以外にいなかった。あとは大理石の床を人型のロボット達が徘徊しているだけで、その器械音だけが広い空間に寒々しく響いている。
「なあ、アモン。文句ばっかり言ってないで、少しは手を動かしたらどうだ?」
アイリスは黙々とモップを動かす。咎められたアモンは、その様子を見ながら口を尖らせた。
「はあ、お前は本当に真面目だな。まあ悪くない仕事だっていうのは確かだ。だけど俺は見ちゃったんだよ。そしてわかったんだ。俺たちが何のために【掃除夫】としてここで働く必要があるのか」
あたりをはばかるように、アモンはアイリスの耳元に口を寄せて囁く。そのただならぬ様子にアイリスはモップを動かす手を止めて、思わず聞き入るようにする。
────話は一日前に遡る。
■
「ああ、それ。片付けておいて」
アモンがいつもの様にモップをかけていると、後ろから声をかけられた。振り返れば、それは中々の美丈夫で、艶やかな黒髪が印象的な背の高い青年が立っていた。白衣を着て、職員の札を下げている。
ここで働き始めて一週間が経つが、まず人と会うことは無い。すれ違うのはロボットばかりで、本当に働いている人がいるのかと疑うばかりだったが、こうして人の姿を見るとほっとする。
青年が指を指す方には、使い捨てられた空の注射器が床に散乱していた。
「わかりました」アモンは頷いた。
「悪いね」
男は軽快な靴の音を響かせて、足早に廊下を歩いていった。遠くなる背中と床に落ちた注射器を交互に見ながら、アモンは考える。
(なぜこんなところに注射器が?)
普通はもっと、研究室か何かに置かれるものでは無いのだろうか。廊下に落ちているというのは、あまりにも滑稽だった。
まあいいか、とアモンはしゃがんで、空の注射器を袋に乱暴に入れた。
その時だった。遠くから、ヒールを鳴らす音が聞こえてきたのは。
「ちょっとあなた!」
甲高い声に、思わず耳を塞ぎたくなる。一体なんなんだ、と言いたかった。
恐る恐る見上げると、癖のある金髪をした、顔の赤い興奮した様子の女性が立っていた。年はアモンよりも下に見える。白衣を着ていて職員証を下げていることから、この女性も職員なのだろう。
今日はやけに人と会う日だ、とアモンは思いつつ、立ち上がる。
「なんですか」
「黒い髪の!男!見なかった!?」
女が近くに来れば来るほどに、その声が耳に痛かったが、アモンは堪える。随分不躾な女だ、と多少苛立ちを覚えたが、態度には出さない。
黒い髪の男といえば、先程の男の事だろうかと思い、アモンは頷いた。
「見ましたよ。そっち、行きましたけど」
「そう!ありがと!」
聞くやいなや、女はアモンの示す方へと走り去っていった。
アモンは暫く呆然とその場に立ち尽くしていたが、ふと我に返る。
────どこからか、鍵が擦れるような音が聞こえた。
アモンは辺りを見渡す。廊下に面した研究室の扉は全て閉まっていて、開くような気配は無い。
なんだ気のせいか、と空の注射器を入れた袋を縛り直そうとしゃがみこんだその時だった。
ウィン、と扉が開く音がする。背後から聞こえたそれに、反射的にアモンは振り返った。
研究室の扉が開いている。
アモンは再び立ち上がり、中を見つめる。
一寸先は闇、この明るい廊下からでさえ何も見えず、闇の中で得体の知れない怪物が自分を待っているのではないか、という思考に陥った。
その不気味な雰囲気に、思わず後ずさる。
これは入らない方がいいな、とアモンは踵を返そうとした。
後ろ足を伸ばした時、それを引き止めるかのように、靴の後ろに何か固いものが当たった。
恐る恐る、アモンは感触のした方を見下ろす。
あの空の注射器だった。
思わず先程拾い集めた空の注射器が入った袋を見返す。この部屋から出たゴミだったのかと、アモンは自分で納得した。
誰か人がいるのだろうかと、アモンは思案する。考えれば考えるほどに、好奇心が大きくなっていく。
もしかしたら、あの【万能薬】の謎が解けるのでは?と────
気づけば惹かれるままに、掃除用具をその場に置き去りにして、研究室の中へと足を踏み入れた。
■
「───で、その部屋に入ったってわけ?」
アイリスは呆れてため息も出ない。アモンとは古くからの友人だが、彼は時たまに突拍子も無いことをやらかしたりする。多方、今回のことも好奇心に負けたのだろう。
アイリスからの問いかけに、アモンは瞳を輝かせて、更に話を続けようとする。
「ああ、当たり前だろ!ここからだよ、すごいのは」
何がすごいんだと思いつつ、その話が気にならないといえば嘘になる。アイリスは渋々といった様子で、彼の話に耳を傾けた。