白月の君といつまでも2

-- Early Summer, about 17 years old
201:白い密室のレクイエム


◇




 ……重く、冷たい静寂。
 花梨が目を開けたとき、最初に視界に入ったのは、無機質なコンクリートの天井と、鼻を突く消毒液の匂いだった。

 そこは病院というより「生物学的管理室」に近い、冷え切った医務室――。
 窓一つない部屋を照らすのは、影を作らせないほどに明るいLEDの白色灯。
 花梨を横たえているベッドは驚くほど高機能で、体温や心拍を刻むモニターの電子音だけが、彼女がまだ「生きている」ことを証明するように規則的に響いている。


「……気がついたのね。気分はどう?」


 横から聞こえてきたのは、落ち着いた、けれどどこか寂しげな女性の声。
 視線を動かせば、そこには白衣を纏った自分とさほど歳の変わらない少女――シェリーが立っていた。彼女は、竜哉に殴られ傷だらけだった花梨に、丁寧に薬を塗っていたところだった。
 すでに腕の一部には包帯が巻かれている。


「…………」

「まあ、よくはないわよね。でもいい薬を塗っておいたから。……痛みはすぐに引くと思うわ」


 シェリーの指先は驚くほど優しかった。こんな恐ろしい場所に、こんなに穏やかな瞳をした人がいるなんて。


「あなたは……」

「私? 私は――」


 シェリーが名乗ろうとした瞬間。
 背後の闇から、あの凍てつくような声が割り込んだ。


「おい。余計なことを言うんじゃねぇ。……ちょうどいい、実験だ。やれ」


 壁に寄りかかり、煙草を燻らせるジン。その冷徹な指示に、シェリーは微かに眉を寄せ、ため息を吐いた。


「……はあ。わかったわ」


 シェリーは花梨の手をそっと取り、自分の頬へと導く。


「……私が誰だかわかる? 私に触れて、何か視えるかしら」


 何も知らない花梨にはわからなかったが、これは、「神子」としての力を試そうとする組織の実験だ。
 花梨の指先がシェリーの肌に触れた瞬間、金色の瞳から大粒の涙が堰を切ったように溢れ出した。


(……温かい。冷たいはずの指先が、あの日見た明美さんの優しさと同じ色をしている……)


 届かなかった遺言が、彼女の肌を通じて逆流してくるような感覚を覚えて、花梨は嗚咽を漏らした。


「っ、え……? ど、どうしたの……?」


 急に泣き出した花梨に、冷静だったシェリーの表情が困惑に染まる。背後で見ていたジンも、不機嫌そうに目を細めた。


「……ごめんなさい……ごめんなさい……っ!!」

「? 何を言っているの? あなた、何もしてないけれど……」


 花梨は目の前の少女の面影に、かつて“時”に触れた宮野明美の姿を重ねていた。


(この人だ……明美さんが、命をかけて守りたかった、妹さんは……)


 「妹を守りたい」と願った明美の最期を知りながら、自分は何もできなかった。
 その申し訳なさが今の自分の境遇すら忘れさせ、花梨を突き動かす。


「おい、白いの。こいつが誰だか、本当にわかるのか?」


 ジンの低い問いかけに、花梨は濡れた頬を拭うこともせず、たどたどしく言葉を紡ぐ。震える声でその名を呼んだ。


「……コードネームは、シェリー、さん……本名は……宮野、志保……さん」

「っ!!?」


 シェリーが息を呑み、戦慄し、身を震わせて一歩後ずさる。
 組織という名の巨大な歯車の一部として生きる彼女にとって、コードネームは呪縛であり、本名はとうの昔に捨て去ったはずの、脆く壊れやすい“個”の象徴だった。
 それを、今日初めて会ったばかりの、しかも組織とは無縁なはずの少女に、あまりにも慈愛に満ちた声で呼ばれたのだ。


「……フン。やはり本物か……」


 ジンの口角が、獲物を追い詰めた獣のように愉悦を孕んで吊り上がる。その双眸に宿るのは、価値ある“駒”をようやく盤上へ固定した冷徹な確信。

 それは、花梨が完全に組織の所有物として刻印を押され、同時に、シェリーとの間に、血の繋がりすら超える因縁が刻まれた決定的な瞬間だった。


「おい、シェリー。引き続きそいつの面倒をみてろ。……不確定要素は排除する。あと数人、確認を済ませる必要があるからな……」

「……私、この一週間、碌に寝てないんだけど?」


 シェリーは冷めた視線でジンを見返したが、その声には隠しきれない疲労が滲んでいた。陶器のような白い肌に浮かぶ濃い隈が、彼女が置かれている過酷な状況を物語っている。


「うるせえ。お前が治療を口実に、事前にこの白いのに名を教え込んだ可能性も否定できねぇ……。茶番じゃねぇことを証明してもらう」

「……はあ。疑り深いのは病気ね」

「フン……」


 ジンは吐き捨てるように鼻を鳴らすと、背を向けて歩き出した。
 その脳裏には、花梨の待つ場所へ向かう車中で目を通した数枚の内部報告書が浮かんでいた。


 “白河花梨(記録抜粋)
 ・母:5歳時死亡(記録欠損)
 ・父:不在頻発/後に死亡確認(12歳)
 ・親権移動:複数遷移(伯母・父・白河家)
 ・暴力・監禁:継続的に確認
 ・社会接触:形成不能
 ・同年代関係:排除固定
 ・最終確認:家庭機能喪失(中3秋)”


(……ここまで揃って“壊れない”のは異常だな)


 記録は揃いすぎている。
 典型的な崩壊家庭。暴力。孤立。放棄。

 ……普通なら、途中で折れる。

 だがこの個体は折れていない。
 ……いや、壊れていない。壊れた形のまま固定されている。


(……あんなネズミ共に噛み殺させるには、惜しい駒だ)


 扉に手をかけたジンは、一度だけ振り返り、震える花梨を値踏みするように一瞥した。
 その眼差しにあるのは哀れみではない。過酷な戦場を生き抜いてきた“個体”への、彼なりの冷徹な評価。
 彼はそのまま、重厚な鉄の扉を音もなく閉めて去っていった。

 ジンが部屋を去ると、シェリーは緊張の糸が切れたように深く、長い溜息をつく。
 その背中は、組織の期待を一身に背負う“天才科学者”という肩書きには不釣り合いなほど、小さく、頼りなげに見えた。


「ごめんなさい……私のせいで……」

「いえ、いいのよ。あなたにため息をついたわけじゃないわ。……ただ、ここのところ研究室に缶詰めにされていてね。唯一の心の拠り所である姉とも、連絡が取らせてもらえないのよ……」


 シェリーの視線が、どこか遠い場所を追うように泳ぐ。その寂しげな横顔を見た瞬間、視たばかりの切実な思念が花梨の胸を貫いた。


「お姉さん……明、美さん……っ」


 一拍、遅れて理解が追いついたように、花梨の喉が詰まる。


「……っ」


 再び花梨の瞳から、涙が零れ落ちる。明美が最期まで握りしめていた“妹への想い”の熱さが、指先を通じて今も心臓を焦がしているようだった。


「姉の名前までわかっちゃうなんて……すごいわね」


 シェリーが驚愕に再び目を丸くしていた、そのときだった。


「あらあら、かーわいい。……随分と泣き虫なお嬢ちゃんね?」


 冷たい扉から、その場にそぐわない、華やかで甘美な香水の香りが鼻腔をくすぐった。冷たいコンクリートの部屋に、場違いなほどのオーラを纏った美女――ベルモットが、闇の中から優雅に姿を現す。


「っ、この声――! ベルモット!! 何しに来たの!?」

「あら、シェリー……。やっと『白河の神子姫さま』を捕まえたって聞いたから、早速会いに来たのだけれど? 怖い顔しないでちょうだい。少しでいいの、外してくれない?」


 ベルモットはくすりと笑うと、懐から小さな銃を取り出した。


「なっ!? あなた……! っ……」


 銃口を向けられ、シェリーは息を呑む。
 警戒するように両手を上げ、そのままゆっくりと後ろへ下がった。


「……出て行ってくれないのなら、せめて部屋の隅にいてもいいのよ? ああ、でも盗み聞きはダメよ。命が惜しいなら、耳を塞いでおくことね」

「っ……そうさせてもらうわ。彼女に変な真似をしないことね」


 部屋から出ていくつもりはない――と、シェリーの足は部屋の隅へと向かい、両手で耳を塞ぐ。
 言われなくても魔女の話なんて聞くつもりはそもそもなかった。

 ベルモットがベッドの上で震える花梨の前へ立つと、その顎を指先でクイッと持ち上げた。


「……あなたは……」


 妖艶な彼女と目が合うと、花梨の瞳が大きく見開かれる。


「うふっ。お久しぶりね、花梨ちゃん。……アメリカ以来、かしら?」

「っ……シャ――」


 花梨がその名を紡ごうとした瞬間、ベルモットの指先が電光石火の速さで唇を封じた。


「おっと――神子さま? それは口にしてはいけないSecret wordね♡ いい?」


 妖艶な微笑み。花梨は唇に触れる指の冷たさに背筋を震わせながら、素直に頷く。
 その様子にベルモットが満足げに指を離すと、どこか遠い、煙に巻かれた過去を追うように目を細めた。


「あのニューヨークの地下室……。実験という名の、死のガスが充満していたあの部屋を覚えているかしら?」

「…………!」

「教団の下っ端に扮して潜入していた私も、あの時は死を覚悟したわ。……周りの子供たちがショック死していく中で、意識が朦朧としていた私に、あなたは言ったのよね。――『ねえ、お姉さん、あそこの窓、お姉さんなら登れるよ』って」


 ベルモットの脳裏に、絶望的な状況下で自分ではなく“他人の生”を優先し、天窓を指差した少女の瞳が蘇る。


「あなたは自分を置いて、私を逃がした。……だから私は泥を啜る思いで、FBI(奴ら)に情報を流したの。……死に損ないの私を救った、愚かなほどに慈悲深いエンジェルを、地上へ引きずり出すためにね♡」


 皮肉なことに、花梨は部屋の隅にわずかに残った空気で生き延び、赤井秀一によって救出された。
 ベルモットにとっては、自らの正体を晒しかねない“最大の失態”であり、同時に“生涯消えない貸し”となった瞬間。


「……あの時、あなたが私にくれた『生』。……ここでたっぷりと、返してあげるわ」


 ベルモットの指先が、今度は愛おしげに花梨の頬を撫でる。
 その瞳に宿るのは、獲物を見る冷酷さと、救世主を崇めるような狂信的なまでの愛。

 花梨は彼女の危うい色香に息を呑み、固まってしまった。


「うふふ。……ようこそ、地獄の特等席へ♡ 組織は白河の神子さまを歓迎するわ♡」


 ちゅっ、とベルモットの唇が花梨の頬に触れる。
 以前ニューヨークで嗅いだ香りと同じ、大人の香り。

 固まったままの花梨の頬がぽっと赤く染まった。


「――ちょっと、ベルモット! 彼女が怯えてるわ」


 じっと二人を見ていたシェリーが、花梨の様子がおかしいことに気づいてやって来る。


「そぉ? 怯えてるっていうより――私の魅力に参ってるって感じだけど?」


 チラリと花梨を見ると、未だ硬直したままだった。
 ベルモットはそんな花梨を見てくすりと微笑む。


「もういいでしょ? これから彼女に質問があるのよ。出て行って」


 シェリーが花梨の前に立ちはだかり、ベルモットから隠した。
 彼女の手にはクリップボードがあり、そこには“異能能力検査”と書かれた紙が挟んであった。


「まぁ、怖い顔。ふふっ、まあいいわ。花梨ちゃん、あとで美味しい紅茶淹れてあげる♡ 美味しいマカロン買ってきたの。女同士、二人きりでお茶でもしましょ♡」

「出て行って!」

「シェリーも来る?」

「出て行って!!」


 ベルモットが体を傾け、シェリーの肩越しに花梨を覗き込もうとする。それを阻止するように、シェリーは手にしたペンを扉に向けて、ベルモットを睨みつけた。


「も~、寝てないからご機嫌斜めね。わかったわよ……じゃあ、あとでね♡」


 バイバイ♡ と、ベルモットは花梨に手を振り、上機嫌な様子で部屋から出て行った。







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