白月の君といつまでも2

-- Summer, about 17 years old
253:貴方のそばに……


「……リン。ゆっくり呼吸してごらん。ふーって、ゆっくり吐いて……」

「っ……?」

「さっきのは――彼じゃないよ、大丈夫だ」


(彼があんな簡単に撃たれるわけないからね……)


 ヒロは優しく花梨の背中を撫でながら、人々がざわめくキッドの落下地点へと一瞬だけ視線を向ける。


「……っ……?(どういうこと……?)」


 息苦しさによるめまいで気が遠くなりそうになりながらも、ヒロの落ち着いた声に従い、花梨は必死にゆっくりと呼吸を整えていく。

 キッドが落下したテーブル付近では、中森警部と朋子のやり取りが聞こえ始めていた。どうやらさっきのキッドは本物ではなく、朋子が雇った天才奇術師(マジシャン)の真田一三の奇術だったと明かされ、会場には安堵の大きな拍手が響き渡る。


「――余興みたいだよ?」

「……っぁ……はっ……はぁ……(余興……?)」


 それが芝居だった――と知った瞬間、花梨の喉を塞いでいた詰まりがスーッと消え、正常な呼吸が戻ってきた。


「はぁ……はぁ……」

「……大丈夫かい?」

「ん……はい。ごめんなさい、ヒロさん。私、遺体とか生々しい傷とか血を見ちゃうと、喉が詰まって呼吸が上手にできなくなっちゃって……。さっきのも、キッドさんが本当に撃たれて死んじゃったのかもって思ったら……はぁ……」


 反射的に喉が閉まり、うまく息ができなくなってしまうトラウマのような反応。
 周りに迷惑をかけてしまうから、いつか自分で克服したいと思っているけれど、そんな簡単に治せるものなのだろうか。

 たとえば、殺人事件や緊迫した場に頻繁に遭遇したりでもすれば、荒療治で慣れるかもしれないが、そんな恐ろしい事件に――探偵や警察でもない限り、そうそう遭遇するものじゃないし、できれば二度と遭いたくもない。


「そうだったのか……。これからは気をつける」

「え……? ヒロさんが……?」

「ん……? うん。にしても、さっきの演出はちょっと悪趣味だったよね……」


 どうして、自分が発作を起こしたことに対してヒロが「気をつける」なんて言うのだろう。
 花梨は不思議そうに小首をかしげたが、ヒロはそれに答えず、ただ優しく微笑むだけだった。


「はぁ……びっくりしたぁ……」


 ふいに花梨の頬を一筋の透明な雫が伝っていく。
 それは、無事に呼吸ができるようになったことによる安堵の涙なのか、それとも突然の銃撃に怯えた恐怖や、キッドを想っての涙なのか――自分でもよくわからなかった。


「リン……涙が……」


 ヒロの優しく温かな親指が、そっと彼女の頬から涙を拭う。


「へっ? あ……な、なんだろう……? ほっとしたからかな? 誰も亡くならなくて本当によかった……♡」

「……リン……」


 また一滴、ぽろりと涙を零しながらも、花梨は気丈に、そしてふんわりと柔らかく微笑む。
 そんな健気な彼女を、ヒロは愛しげに、少し眉を下げて見守っていた。


「あ! ヒロさん、マジックショーが再開するみたいだよ! 見に行こう?」


 ステージのほうでは、真田が中央に立ち、何食わぬ顔でマジックショーを続行しようとしていた。
 どうやら次はカードマジックを行うらしい。観客の中に蘭と園子の姿を見つける。


「あ、蘭ちゃんと園子ちゃんだ」

「リンの幼なじみだっていう、あの女の子たちかい?」

「うん。髪が長いほうが蘭ちゃんで、カチューシャをしてる子が園子ちゃん……」


(新ちゃんは……見えないな。でも、今日はここに来るって言ってたし、きっとどこかにいるはずだよね)


 ヒロに蘭たちのことを説明しながら、花梨はコナンの姿を探すが、ステージ上には見当たらない。どうやら近くにはいないようだ。


「じゃあ、この中から一枚……そうですね、ハートのA(エース)ということで♡ さあ、お好きなカードを一枚……」


 ステージに目を移すと、真田が蘭にシャッフルされたカードの束から一枚引くようにと促している。
 その横で園子が、「右! 右! 右のヤツ……」と熱心に指を差して応援していた。

 促されるまま、蘭が一枚のカードを抜き取り、ひっくり返す。
 真田の予想では「ハートのA(エース)」が出るはずだったが、どうやらめくられたカードは違っていたらしい。

 蘭がまじまじと見つめ、思わず声を漏らす。


 “
  クレオパトラに魅了された
  シーザーのごとく
  私はもう
  貴方のそばに…

  怪盗キッド
 ”


 カードには、華麗な文字で怪盗キッドからの意味深なメッセージが綴られていた。


「か、怪盗キッド!?」

「えっ!?」


 蘭と園子の驚きの声に釣られるように、真田も目をぱちくりさせる。
 次の瞬間には、「キ、キッドだ……」「キッドが現れた!!」と、周囲の客たちの間に再び動揺の波が広がった。


「皆さん落ちついて、合い言葉の確認を!!」


 茶木警視の野太い大声がステージ近くから響き渡り、会場の人々は慌てて近くの者と向き合い、ヒソヒソと合い言葉を確認し合う。


「キッドさんが現れた……? えーっと、合い言葉、合い言葉……。あ、ヒロさん!」


 再びキッドが現れたことに目を瞬かせるも、先ほどのような過呼吸の兆候はなく、花梨はしっかりと落ち着いていた。

 周りの人々がペアを確認し合うのを見て、自分たちもそれに倣おうと、花梨は素直にヒロを見上げて「ねえ、耳を貸して」と手招きする。
 ヒロはくすっと柔らかく笑い、顔を彼女の耳元へ寄せた。


「はいはい、ブラックキャット?」

「ホワイトキャット!」

「フフッ、間違いないね」

「うんっ……!」


 二人が互いに本物であることを確かめると、花梨とヒロはパチンと軽く手を合わせる。
 花梨がホッとしたように嬉しそうに微笑むのを見て、ヒロはふっと深いため息をこぼした。


「はぁー……」


(……ああ、本当に癒されるなぁ……。これ、絶対セロトニンもオキシトシンも出まくってるよな……俺、こんなに穏やかで幸せな時間を過ごしてしまっていいんだろうか……)


 無邪気に笑う花梨の存在に、心の底から癒されていくヒロ。
 十六歳の姿をした今日の花梨は、少女とは思えないほどの美しさを纏っているというのに、中身はどこまでもあどけなく、柔らかい。

 組織を追い、常に殺伐とした裏社会の最前線に身を置いていた彼にとって、目の前の彼女は唯一無二の、文字通りの「女神」であり、究極の救いなのであった。


「ヒロさん……?」

「はぁ……っ、あ、どうしたの?」

「ううん、ステージのほうがまだざわついてて……」


 花梨が少し不安そうに視線をステージへと戻す。
 そこでは――。




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