白月の君といつまでも2

-- Early Summer, about 17 years old
197:灰燼かいじんに消ゆ


(快斗……新ちゃん……助けて……)


 その瞬間、花梨の視界の端に、動かなくなった竜哉の死体が映り込んだ。


「っ!! ――はっ……っ……!(あ、息が……)」


 喉の奥が、ヒュッと鳴った。

 幼い頃のトラウマが、フラッシュバックする。
 ……冷たくなった肉体。動かない瞳。

 竜哉の目だけが、花梨を見ている。


「……? おい、どうした」


 ウォッカが怪訝そうに手を止める。


「っ……!!(息ができない……!!)」


 はくはくと口を開閉しながら、花梨は喉に手を添えて口を動かすが、酸素が肺に届かない。

 過呼吸――。
 パニックを起こした心臓が早鐘を打ち、全身が痙攣し始めた。

 花梨の様子にジンは、ウォッカの手を制すると、眉を寄せて花梨を睨みつける。


(……面倒な真似を……)


 すぐさまジンは周囲を見回した。
 部屋の床には散らばった竜哉の荷物がある。その中から雑誌を入れていた紙袋を無造作に拾い上げ、中身を捨てた。


「……おい、白いの。これを口に当てて、ゆっくり呼吸しろ」


 空になった紙袋を手にして、それを花梨の前に突き出す。
 だが、花梨の指先は紙袋に触れることができなかった。彼女は縛られた両手を震わせ、過呼吸のあまり紙袋を掴むことすらできなかったのだ。
 視界の端がじわりと暗くなり、音が遠のいていく。

 ……今にも崩れ落ちそうだ。


「……チッ、面倒な奴だ」


 ジンは忌々しげに舌打ちすると、大きな手で紙袋を掴んだまま、花梨の口元を力任せに、だが、確実に覆った。


「……っ、……っ!?」

「騒ぐな。吐き出した空気をもう一度吸い込め……。死にたくなければな」


 冷徹な声が紙袋越しに、至近距離で響く。
 逃げ場のない恐怖と、生を繋ぎ止めるための強制――。
 花梨の瞳に涙があふれ、震える肩をジンの腕が押さえつける形になる。

 紙袋が呼吸のたびに不規則に膨らみ、へこむ。紙袋の中の空気が熱く、苦しく、しかし確かに生へと繋ぎ止めた。
 至近距離で見下ろすジンのサングラスには、涙でぐちゃぐちゃになった花梨の顔が映っていた。それは救済という名の、抗うことのできない拘束だった。


 ……スゥ、ハァ……。
 スゥ、ハァ……。


 自分の吐いた二酸化炭素を再び吸い込むことで、血中の二酸化炭素濃度が安定し始める。
 ジンがサングラス越しに向ける冷淡な視線。

 その奥にあるのは、憐れみか。
 それとも……。


「……アニキ、こいつ、死体を見て過呼吸に……?」

「ふん。……軟弱な神子だ。……だが、殺すわけにはいかねぇ」


 だが、その声に情はない。ただ“商品価値”を確認するだけの無機質な響きだった。

 ……数分後。
 紙袋の中で、花梨の荒い呼吸が、ようやく安定したリズムを取り戻した。

 全身の力が抜け、強い目眩が彼女を襲う。


(……快斗……新ちゃん……)


 花梨の意識は、マジックを得意げに披露する快斗の姿と、自信満々に推理をする新一の残像をたどりながら、深い闇へと落ちていった。


「……。眠ったか」


 ジンは気絶した花梨を一瞥すると、ウォッカに顎で指図した。
 ウォッカが花梨を軽々と担ぎ上げるのを確認し、彼は懐から一本の煙草を取り出した。

 ……ゴロワーズ・カポラル。

 火を灯した瞬間、独特な、野性味のある強い香りが鼻腔を突く。
 ジンはゴロワーズの煙を最後の一服まで深く吸い込むと、手元の携帯灰皿に、吸い殻を静かに押し込んだ。
 現場に一切の痕跡を残さない、それは、完璧な“清掃”の一部にすぎない。
 指先に残る熱と、青い煙の残り香。


「……ウォッカ、火を放て。……ネズミの死骸ごと、全て無に帰せ」

「へい、アニキ!」


 ジンは静かに手袋を嵌めると、床に落ちていた吸い殻を拾い上げた。先ほど竜哉の頬をかすめたものだ。
 現場に唯一残るのは、これから放たれる炎だけ。
 自分のDNAの一片すらこの場には残さない――それが“処刑人”としての鉄則だ。

 ……彼らがビルを後にした数分後。

 雑居ビルの上階からは、全てを飲み込む紅蓮の炎が立ち上り、竜哉の罪も、花梨のいた形跡も、そしてジンの痕跡も、文字通り灰へと変わる。

 そこには、灰だけが静かに降り積もっていた。










 音が遠のいて、意識の底に沈んだ花梨は、あたたかな光の中にいた。
 大阪へと向かうロイヤル・エクスプレスの車内。緊急停止した静かな世界。窓の外には、遠くに夜の街明かりが優しく輝いている。


(……いつも幸せだったけど……ああ、私、この時が哀しいくらい、一番幸せだったな……)


 首筋に残る、冷たいファンデーションの感触。自分の傷を魔法で隠してくれた、快斗の優しい指先。


『本当は大阪に着いてから渡そうと思ってたけど……今、渡しとく』


 照れたような快斗の顔と、首元で小さく輝く、サギソウのネックレス。
 快斗がバイトをして、自分のために必死に稼いだ時間の証――“太陽の石”シトリン。


『うれしくて。本当にありがとう、快斗……』


 夢の中の自分は、贈られたばかりのシトリンに触れて、心から嬉しそうに笑っている。
 快斗も優しく微笑み、そこは眩い光であふれていた。
 その光は、彼女が生きてきた中で唯一“安全”だと感じた場所だった。

 けれど、その幸福は、あまりにも脆かった。眩い光が突如として、不気味な紅蓮の炎へと姿を変えた。
 シトリンの黄色が、ジンの持つライターの火に塗り潰され、優しかった列車の揺れは、ビルの爆発による激しい衝撃へと変わる。


(快斗……快斗、助けて……っ!)


 叫ぼうとした喉は、黒い煙に塞がれて音にならない。
 幸せな記憶は一瞬で、焼け焦げた鉄の匂いと、逃れられない死の予感に覆われていった。








 ……数時間後。
 夜の静寂を切り裂くように、赤色灯の光が雑居ビルの壁面を不気味に撫で回していた。
 消防車のサイレンが遠くで鳴り響き、消火活動によって辺りには白く重苦しい水蒸気が立ち込めている。その騒乱の中心で、コナンは、焦げ臭い風に吹かれながら松田と合流していた。

 コナンの瞳に映るのは、無残に焼け落ち、骨組みを晒したビルの残骸。
 二日前の土曜日、松田と交わしたあの会話が、呪いのように耳の奥で反響する。

 コナンの胸の奥で、何かがきしむように痛んだ。



4/44ページ
スキ