白月の君といつまでも2

-- Summer, about 17 years old
226:六月を越えた代償


 六月三十日。

 本来なら、絶望の淵で“最期”を待っているはずだった一日。
 けれど今の花梨の目の前には、ヒロが淹れてくれた香ばしいコーヒーの湯気と、窓から差し込む眩しい夏の光、そして“快斗に会える”という、震えるほどの希望が広がっていた。

 その日、二人で穏やかな時間を過ごした。
 ヒロは花梨を元気づけるように、彼女のゲームに付き合ったり、未来の話をたくさんしてくれた。


『七月になったら、美味しいパフェを食べに行こう』

『黒羽君と、どこか旅行に行くのもいいかもしれないね』


 ヒロの言葉の一つひとつが、花梨の心にある“死の棘”を抜いていく。

 夜になり、再び月が空に昇る。今夜は満月だった。
 花梨は、ヒロのシャツを着たままベランダに出て、月を見上げた。


「月影さま……ありがとうございます。私、生きて、彼に会いに行きます。快斗……」


 花梨の瞳に映る月は、月影様なのか、それとも快斗なのか……穏やかで、とても優しかった。
 隣に立つヒロも、その横顔を眩しそうに見つめていた。


(……これでいい。彼女は救われたんだ。あとは、無事に朝を迎えるだけだ)


 ……そう、二人は信じて疑わなかった。

 やがて、日付が七月一日に切り替わる。
 何も起きない。苦しみもない。
 花梨はヒロと「おめでとう」と静かに乾杯し、安らかな眠りについた。

 ――けれど。

 七月一日の空が白々と明けていく。
 カーテンの隙間から差し込む光に、花梨はゆっくりと目を覚ました。


(……体が、軽い……?)


 ふと、違和感を覚える。
 昨日まで感じていた、自分の身体の重みがない。

 慌てて布団を跳ね除けると、そこには、あまりにも残酷な光景が広がっていた。

 昨日、少し大きめだったはずのヒロのシャツが、今はまるで巨大なテントのように自分を覆い隠している。
 袖の先は遥か先まで伸び、足元は布の海に溺れている。


「……う、そ……」


 震える声で、自分の手を見る。
 そこにあるのは、再び節の消えた、小さく丸い――“六歳”の子供の手だった。


「ひ、ろお兄ちゃん……! ヒロお兄ちゃん……っ!!」


 パニックに陥り、シャツの裾を必死に手繰り寄せながら、花梨は隣の部屋に駆け込んだ。
 その拍子に裾を踏みつけ、派手に転ぶ。

 “ドタンッ!!”

 大きな音が、した。


「痛っ……!」


 床に叩きつけられた衝撃と、左腕に走った焼けるような鋭い激痛。
 昨日まであれほど自由だったはずの四肢が、今は自分の意思を裏切るように冷たく絡みついている。
 駆け寄ったヒロが、布の海に溺れる小さな身体を抱き上げようとして、その異常に気づき、息を呑んだ。


「花梨ちゃん!? ……嘘だ、腕が……」


 不自然な方向に曲がった小さな左腕。
 幼児化した身体は、十六歳の頃とは比較にならないほど脆く、そして頼りない。


「……っ……う、ああぁっ!!」


 痛みへの恐怖か、それとも再び失われた未来への絶望か。
 花梨は、ヒロの大きなシャツの襟元を掴んだまま、顔をぐちゃぐちゃにして泣き叫んだ。

 昨日まで、確かにこの手は長く、しなやかだった。
 その手で、快斗に「ごめんね」と「大好き」を伝えに行くはずだったのに。


「……いやっ、いやぁぁ……!!」


 ヒロは、言葉を失ったまま彼女を強く抱きしめた。
 彼の脳裏には、昨日、希望に満ちた瞳で「快斗に会いに行く」と笑っていた彼女の顔が焼き付いている。


(神様……あんまりじゃないか……)


 命を助けておきながら、その足で踏み出そうとした瞬間に翼をもぎ取るような真似をするなんて。
 ヒロは、自分の無力さを噛みしめながら、冷たい七月の風を遮るように彼女を包み込んだ。


「大丈夫だ……大丈夫だからね、花梨ちゃん。俺がついているから……」


 けれど、ヒロの優しい声も、今は花梨の心には届かない。


「……快斗……快斗ぉっ……!」


 どれだけ彼の名を呼んでも、今の短い腕では、どこまでも遠い彼のもとへ届くことはない。

 六月を越えた。
 けれど、それは“幸せな再会”への切符ではなく、出口のない“子供の檻”に再び閉じ込められたことの証明でしかなかった。

 窓の外、皮肉なほど晴れ渡った七月の空を、一羽の白い鳥が悠然と横切っていく。
 それはまるで、決して届かない空の彼方で翼を広げる、あの少年の幻影のようだった。


「……大丈夫だ、花梨ちゃん。動かないで。今、俺の知り合いを呼ぶから」


 泣き叫ぶ花梨を落ち着かせるように、ヒロは冷や汗を流しながら電話を手に取った。
 かけた先は、公安の任務で接触したことのある、公的なカルテには決して名前を残さない“もぐりの外科医”。


「……ああ、俺だ。急患だ、子供が転倒して骨折した。……事情はわかっているだろう? 場所は……」


 数十分後、セーフハウスにやってきたのは、死んだ魚のような目をした無愛想な男だった。
 彼はぶかぶかのシャツの中で震える花梨を一瞥し、慣れた手つきで処置を始める。

 男が固定のためにシャツの大きな襟元を少し避けた拍子に、彼女の胸元から、快斗に贈られたプラチナのネックレスが、冷たい月光の名残を映してきらりと覗いた。
 その輝きを、ヒロは言葉にできないほど切ない眼差しで見つめる。元の姿に戻って彼に会いに行くのだと、あんなに嬉しそうに笑っていた昨夜の彼女の姿が、眩い銀の鎖に重なって胸を締め付けた。


「……ひどいな。全治一ヶ月ってところだな。幸い、手術が必要なほどじゃない。だが、この年齢の子供の骨は柔らかい。無理をさせれば一生残るぞ」


 淡々と告げられる診断結果。
 ギプスで固められた小さな左腕を見て、花梨は力なく瞳を閉じた。

 昨日の自分は、この腕で快斗を抱きしめられると信じていた。
 けれど今の自分は、自力で顔を洗うことさえままならない“不自由な子ども”だ。


「……ありがとうございました」


 ヒロが医者を送り出し、静まり返った部屋に戻ってくる。
 彼はベッドに横たわる花梨のそばに腰を下ろすと、そっと彼女の右手を握りしめた。


「ごめんね、花梨ちゃん。俺がついていながら……」

「……ううん。ヒロお兄ちゃんのせいじゃないよ」


 花梨は力なく首を振った。

 六月を越えるための代償。
 それは、ただ命を繋ぎ止める代わりに、愛する人へと続く全ての道を、物理的にも、運命的にも断たれることだったのかもしれない。

 骨折した腕の痛みよりも、胸の奥に空いた大きな穴が痛む。

 やけに明るい七月の太陽が、セーフハウスの白い壁を無情に照らしている。


(……快斗、……やっぱり、さよならなんだね……)


 花梨の頬を、一筋の涙が伝い、大きな白シャツの胸元に吸い込まれていった。



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