白月の君といつまでも2

-- Early Summer, about 17 years old
215:神の真似事、天泣(てんきゅう)


 山の下、ふもとの村の一角で、鮮やかなオレンジ色の炎が噴き上がった。


「っ、火事!?」

「……火事か……」


 ジンの口元が、残酷な愉悦を湛えてニヤリと吊り上がる。混乱こそが、組織の好む舞台だ。


「大変……!」


 花梨は、組織から貸し出されていた高機能双眼鏡を手に取り、炎の方角を覗き込む。デジタル処理された鮮明な視界の先に、燃える公民館が映った。


「あっ!? うそっ!!」


(新ちゃん!? なんで新ちゃんがそこにいるの!?)


 その一瞬で、全身が震えだした。双眼鏡のレンズ越しに、燃え盛る炎へ向かって走る少年の姿がはっきりと見えた。

 ……新一だ。
 そしてその傍らには、蘭と小五郎の姿もあった。

 瞬時に、一昨日の夜、蘭が言っていた言葉を思い出す。


『お父さんの依頼に、コナンくんと一緒に無理やりついて行くだけなんだけど。離島だから、都会の喧騒から離れて、のんびり過ごせるかなって』


 それがまさか、この月影島だったなんて思いもしなかった。


「……どうした?」

「っ、知り合いが……! 知り合いが、燃える建物の中に入って行っちゃったんです……!!」

「ほぉ……」


 悲鳴に近い声を上げる花梨とは対照的に、ジンは微塵も動じない。


「このままじゃ、焼け死んじゃう……!!」


 取り乱し、今にも崖を駆け下りようとする花梨の肩を、ジンの大きな手が無造作に掴んで引き戻した。


「シャルトルーズ」

「っ、ああ、どうすれば……離してください! 助けに行かなきゃ……!」

「おい、シャルトルーズ。仕事だ。お前ならどうにかできるはずだろう?」


 低く、地を這うようなジンの声。その瞳は、炎に怯える少女ではなく、完成したばかりの“兵器”を見定めるような冷徹な光を宿していた。


「なに言って――」

「……『言霊(ことだま)』――だったな。あの公民館に、雨と風を呼べば、その知り合いとやらが助かるんじゃないのか?」


 花梨の思考が一瞬、真っ白に染まる。
 この男は何を言っているのか。自然の摂理を捻じ曲げろというのか。

 そんなことが――。


「え」

「どうなんだ? お前ならできるんだろう? ……代償に、何が壊れるかは知らんがな」


 ジンは試すように、花梨の顎を強引に持ち上げた。
 金色の瞳の中に映り込んだ満月が揺れている。

 ふもとでは、炎が生き物のようにうねり、建物を飲み込んでいく。双眼鏡を覗かずとも、その熱気がここまで届きそうな錯覚に陥る。


「……ぁ……」


 新一がいる。あの中には、新一がいるのだ。
 大切な人を二度と失いたくない。その一心が、花梨の中で眠っていた“白神子”の根源的な力を呼び覚ます。

 花梨はジンの手を振り払い、崖の縁へと立った。
 満月の光を全身に浴び、白い髪が夜風に踊る。

 自然そのものを動かす……なんてこと、自分にできるかはわからない。
 けれど――。

 一瞬だけ、目を閉じる。
 心を落ち着けるように、深く息を吸い込むと、瞼を開いた。

 満月のような瞳が光を湛える。


『……吹き荒べ』


 絞り出すような、けれど山全体に響き渡るほど澄んだ声。


『……天の涙を以(もっ)て、不浄の火を……薙ぎ払え!!』


 刹那――。

 月影山の空気が、爆ぜるように鳴動した。
 大気を満たしていた潮風が一瞬で凍りつき、重力を無視して湧き上がった漆黒の雲が、黄金の満月を貪るように覆い隠す。
 次の瞬間、暴力的なまでの突風が山頂から吹き下ろし、滝のような豪雨がふもとを直撃した。


「なっ……!?」


 双眼鏡を覗いていたジンが、思わず絶句する。
 それは気象現象などではない。花梨の言葉に世界が平伏し、物理法則が書き換えられた“結果”だった。

 村の公民館では、突風が炎のカーテンを文字通り引きちぎり、猛烈な雨が火勢を瞬時に鎮めていた。

 炎の渦に巻かれていたコナンは、成実の手によって、力いっぱい外へと放り出された。直後、この“奇跡”に圧倒され、しばし動けなくなった。

 降り注ぐ冷たい雨の中、泥だらけで顔を上げた彼の目に映ったのは、鎮火していく建物の残骸と、同じく奇跡的に一命を取り留めた浅井成実の姿だった。


(……どうして急に雨が……? 今の風は……まるで、誰かが無理やり起こしたみたいだ……)


 科学で説明できない、不可解な現象にコナンの思考が止まる。










 ……一方、山頂では。


「はぁ、はぁ、はぁ……っ!!」


 膝をつき、激しく肩で息をする花梨。
 その周囲には、先ほどまでの神秘的な光はなく、ただ疲弊しきった少女が一人、雨に濡れそぼっている。


「…………」


 ジンは、手元で火が消えた煙草を投げ捨て、茫然と花梨を見下ろした。
 ふもとの火事は消えた。知り合いとやらも助かっただろう。

 だが――。


(これが……“白神子”の力か。……フン、人間に扱える代物じゃねえな)


 それは、核兵器よりもタチが悪い。
 “言葉”一つで世界を変える。そんな神の真似事をさせるための存在。

 畏怖――。

 生まれて初めて感じる、理解を超えた存在への“実用不能な恐怖”が、ジンの背筋を冷たく撫でた。

 ジンは懐の注射器に指をかける。

 情けで楽に死なせてやるだと?
 笑わせるな。
 こんな化物を、組織が――いや、『あの方』が手放すはずがない。


(永遠の命を求めるあの方が、この『理(ことわり)を書き換える手』を見逃すわけがねえ)


「……合格だ、シャルトルーズ。貴様は、生きて組織に尽くせ」


 あれほど狂ったように降り注いでいた雨が、数分もしないうちにピタリと止んだ。
 雲は瞬時に霧散し、夜空には再び、何事もなかったかのように冷たい満月が姿を現す。


「……はぁ……はぁ……」


 山頂の原っぱに崩れ落ちた花梨の体からは、全ての熱が奪い去られたかのように冷え切っていた。“言霊”という名の禁忌を犯した代償は、彼女の小さな体を容赦なく削り取っていく。


「…………」


 ジンは、もはや雨の匂いすらしなくなった夜風を浴びながら、双眼鏡でふもとの様子を最後にもう一度だけ確認した。
 燃え盛っていた公民館は、黒く焦げた残骸を晒しながら、鎮火している。その前で、呆然と空を見上げる少年――江戸川コナンの姿を、レンズが捉えていた。


(……救われたな、ボウズ。……その命、こいつが支払ったツケだということも知らずにな)


 ジンは双眼鏡をしまうと、意識を失いかけている花梨の元へ歩み寄った。


「……おい、立て。戻るぞ」

「……む、り……です……。ジン、さん……」


 花梨の瞳は焦点が合っておらず、その指先は凍てつくように冷たい。
 明日の朝には定期船で島を離れる予定だったが、この状態では歩くことすらままならない。


「チッ……。長時間運用には使い物にならんな。……おい、ウォッカ。予定を変更する。今夜は島で一泊だ。……あぁ、民宿の裏手にある離れを確保しろ」


 ウォッカに連絡を入れたジンは、泥と雨に濡れた花梨を、まるで壊れ物を扱うように、最も価値のある兵器を運ぶような手つきで、慎重に抱え上げた。



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