白月の君といつまでも2

-- Spring, about 17 years old
195:記憶に触れる指先


◇



 嫌な胸騒ぎが消えないまま、ロビーは静まり返り、空調の音だけが耳に残る。
 コナンはソファに沈み込み、ただ落ち着かない時間をやり過ごしていた。
 松田刑事が応接室で何を話しているのか、気になって仕方がない。

 ……どれくらい待っただろうか。

 コナンの前に運ばれてきたのは一皿のレモンパイだった。
 有名パティスリーのそれは、芸術品のように美しく、完璧な形をしていたけれど――。


(レモンパイか……花梨が作ったやつ……ちょっと酸っぱかったな……)


 花梨の作ったレモンパイは……。
 コナン――新一の脳裏に当時の記憶が蘇る。

 ……高一の初夏だった。

 花梨が新一の家にやって来て、タッパーに入れたレモンパイを手に「一緒に食べよ~」と明るく笑った。

 リビングで紅茶を淹れて、「じゃ~ん!」とテーブルに置かれたそれは少し焦げていた。


「焦げてんな……」

「えへへ。ちょっと焦げちゃった。けど、香ばしくておいしいよ!? ね、新ちゃん知ってた? パイ生地ってすごいの! 火が出るんだよ!? ファイア~って!! 魔法みたいだよね!」


 きらきらと瞳を輝かせ、明るく語る花梨に、新一は穏やかな顔で耳を傾ける。
 両手で大げさに火を表現する彼女の話が終わると、恐る恐る尋ねた。


「え……お、オーブンでか?」


 “そのオーブン、欠陥品なんじゃないか?”と聞こうとした新一だが、留まる。
 先週花梨の家のオーブンを見たとき、問題なく作動していたし、特に不審な点はなかった。
 このパターンだと恐らく、花梨側に問題がある――続きを聞くことにした。


「ううん。トースターで焼いたら火が出たの! だからオーブンで焼き直してみたよ♪ 今回は上手に焼けたと思わない!?」

「……(絶句)」


 新一は、言葉を失った。

 料理ができない新一だが、油分の多いパイ生地をトースターで焼けば火が出ることくらい想像がつく。
 どうやら花梨は実際に火を出してしまったらしい。


(火を出したのか……こいつ……マジかよ……。いや、やるか普通……)


 新一は呆れて言葉が出なかった。


「オイオイ……そこは始めからオーブンで焼けよ。トースターとオーブンはそもそも機能が違ってだな――」


 いいか――と、新一が説明を始めると、花梨はにこにこと耳をそっと塞いで頷き始める。
 聞きたくないのだなと理解しつつも、新一は最後まで言い切ってやった。


「へえ! 新ちゃん、オーブンとトースターの違いわかるんだ~。すごいねぇ♡」

「バカにすんなっての! ……っつーか、火事になんなくてよかったな」

「ね~。ほんとほんと」

「他人事みたいに言うなっ!」


 “べしっ!”と、新一の手刀が花梨の額に落ちる。

 こいつは、ちゃんと言って聞かせればできる奴なんだ。
 オレがきっと立派な大人に育ててやる――と、新一の胸中は保護者そのものだった。


「いたっ! えへへ。火が出たからびっくりしちゃった。たまたま警察のお兄ちゃんが来てたから、助けてもらったよ♡ 『オーブンで焼きなさい』って怒られちゃったんだ~。なのでもう同じ轍は踏まないよ♡ 学習いたしました!」


 そう言って、花梨は弾けるような笑顔で、こめかみに右手を触れて、敬礼の形をとった。


「っ、ったく、オメーは目が離せねぇな……。今度パイを焼くときはオレを呼べよ。監督してやっから」

「え~大丈夫だよ~。私、失敗はするけど、同じ失敗は繰り返さないんだ~。失敗は成功のお父さんって言うじゃない?♪」

「それを言うなら『失敗は成功の母』な!? って、いいから! オメー、危なっかしくて放っておけねぇんだよ! すぐ駆けつけてやっから、いつでも呼べ!」

「わぁ~、新ちゃん、お料理できないのに、監督してくれるの!? ふふふっ♡ やっさし~♡」


 少々、ディスられている気もするが、花梨が手を合わせて楽しそうに笑うから、新一は笑顔に誤魔化されて、そのことに気づけない。
 頬をぽっと赤く染めて、照れを隠すように口を開いた。


「べっ、別に、あれだ! お前の部屋が燃えたら近所迷惑だからだよっ! 火災事故を未然に防ぐのも探偵の仕事だろ!? オメーは必ずまたやらかす! 断言できる!!」

「あは~、それはそうだね。さすがは探偵さん! 事故を未然に防ぐのって大事だよね~。じゃあ、パイを焼くときは新ちゃんを呼ぶね♡ 来てくれたらうれしいな♡」


 新一の予測に花梨は妙に納得してしまい、うんうんと頷いたあとで、満面の笑みを浮かべた。


「っ、おう……(どこにいても、すぐ行ってやるよ)」


 あのときの花梨の無邪気な笑顔がすごく可愛くて。
 新一は甘酸っぱいレモンパイに「酸っぱい!」と文句を言いながら、彼女が持ってきたそれを完食したのだ。


(……やっぱ、あいつのとは全然違うな)


 口に広がったのは甘みと酸味のバランスが取れた一級品の味。
 花梨のレモンパイは少し酸味が強めだった。作った本人も「すっぱーい! もうちょっと甘めのほうがいいなぁ~」そう言って笑っていた。

 あの時、新一の家のリビングに流れていた穏やかな時間は、もうどこにもない。
 思い出の中のパイはあんなに温かかったのに、目の前の一皿は、冷房の効いたロビーでしんと冷え切っている。

 代わりにコナンの鼻腔を突いたのは、過去も未来もすべてを塗り潰してしまうような、あの重厚な白檀の香り――。

 背後から香るその香りに、コナンは口に運びかけたフォークを留めた。


「口に合ったかい? ボウヤ」

「っ!?」


 コナンは弾かれたように振り返る。
 そこには、先ほどエレベーターに消えたはずの、あの和服の女性――白河多紀が立っていた。
 松田と何を話したのか、その瞳には先ほど以上の研ぎ澄まされた知性が宿っているように見えた。


「あ、えっと……うん! すっごく美味しいよ、おばさん……ありがとう」


 コナンは咄嗟に「江戸川コナン」の仮面を被り、満面の笑みを作った。
 けれど、多紀は動じない。彼女はコナンの隣に音もなく腰を下ろすと、じっとコナンの横顔を見つめた。


「レモンパイか……そういやあの子、パンをよく焼いていたかねぇ。……粉まみれになって、不格好なものをね」

「…………」


 コナンの心臓がドクンと跳ねる。
 あの子――花梨のことを言っているのだと、直感で悟った。


「ボウヤ。あんた、いい目をしているね。……ただの子供にしちゃあ、少しばかり『欲』が深すぎる。……ちょっと、見せておくれ」


 多紀の手が、スッとコナンの頭へと伸びる。

 避ける間もなかった。
 細く、けれど温かい指先がコナンの髪に触れた瞬間――。


「――っ!?」


 コナンの脳内に、視たこともないような極彩色の火花が散った。
 自分の記憶、想い、隠してきた「工藤新一」としての真実が、濁流のように吸い出されていくような感覚。

 そして、多紀の瞳もまた、大きく見開かれた。

 彼女の視界に流れ込んできたのは、“この少年の目に映る花梨”だった。
 幼い花梨の手を握り、ひたむきに走り続ける一人の少年。

 どんな闇の中でも彼女を離さないと誓った、鋼のような意志。
 その奥に焼き付いていたのは、“失いたくない”という強烈な渇望。


「……あ~……。なるほどね……」


(記憶ってのは厄介だねぇ。事実より、願いのほうが濃く残る)


 まるで長い旅の終わりに辿り着いたような、深い納得の声だった。
 多紀はゆっくりと手を離すと、どこか愉快そうに、そして慈しむように目を細める。


「あんたかい。あの子が……花梨が、神様なんかよりもずっとずっと、縋りたかった『新ちゃん』っていうのは」

「…………ッ!!」


 最愛の幼なじみだけが呼ぶその名を、初対面の老婆に言い当てられ、コナンは言葉を失った。


「そうかい……今は幸せのプロセスに入ったってわけか……それは何より……」


 その言葉の意味を、コナンはまだ理解できなかった。

 多紀の唇がふっと弧を描く。
 けれど、一瞬だけ眉を寄せていた。


「っ、おばさん!!」

「じゃあね、コナンくん(・・・・・)。小説家のお父さん(・・・・)によろしく。またいつか会おうね」


 呼び止めるコナンを無視し、多紀が離れていく。
 彼女はまた、慌てて駆けつけてきた社員たちの花道を歩いてビルを出て行った。


「っ……なんであのおばさん……オレの正体を……」


(父さんのことまで……何者だ……? 花梨の身内だとは思うけど……)


 呆然と立ち尽くすコナンの元に、足音を荒らげて松田が駆け寄ってきた。


「おい、ボウズ! 大丈夫か!? ……さっき、多紀婆がここに降りてきただろ」

「多紀婆……? ……松田刑事……」


 コナンは力なくソファに座り込み、まだ熱を持っている自分の頭をそっと押さえた。


「あのおばさん……一体何者なの? 急に頭を撫でてきて、ボクのこと……まるで全部知ってるみたいだった」


 松田は苦い顔をして、コナンの隣で大きなため息をつく。


「……あぁ。あいつは白河の現当主の――」

「「白河多紀……」」


 二人の声が重なる。
 松田は「あいつの過去視はやっぱマジだな……」と忌々しげに呟くが、コナンはその意味を正確には理解できていない。


(白河の当主……。神子として神事を司る一族の長。だけど、さっきの感覚は何だ? まるで脳みそを直接かき回されたような……)


 コナンは、目の前で冷え切ったレモンパイを見つめた。
 多紀が去り際に残した言葉――「幸せのプロセスに入った」。
 それが、花梨を救い出すための希望なのか、それとも残酷な運命の始まりなのか。

 名探偵の鋭い知性をもってしても、今はまだ、その答えに辿り着けなかった。










 ……高級車の分厚いドアが閉まり、外の喧騒が遮断される。
 多紀はシートに深く身を預けると、先ほど少年の頭に触れた指先を、愛おしげにじっと見つめた。


(工藤新一……。ボウヤ視点とはいえ……あの子(花梨)が、あれほどまでに想っている光……。だが、彼の記憶にこびり付いているあの『影』は何だい……?)


 多紀の脳裏に、新一の記憶から吸い出した断片的な映像が浮かぶ。

 花梨の隣で親しげに笑い、新一を挑発するような不敵な笑みを浮かべる少年。新一が「どこの馬の骨だ」と忌々しく思っていた、あの執念深い「恋敵」の残像。
 彼の笑み――奥に潜む、底知れない執念。
 まるで光に寄り添う影のように、花梨の傍らに張り付いていた。


「――黒羽快斗を、連れてきな」


 静かだが、有無を言わせぬ声が車内に響く。


「はっ。……しかし、その少年は現在、所在は把握しておりますが、接触は――」

「構わない。あのボウヤの記憶の中で、一番花梨に近く、そして一番『不透明』だったのはあの小僧だ。……白河の血を継ぐ者に近づく不届き者か、それとも……。直接、視てやろうじゃないか」


 多紀の瞳が、暗い歓喜に細められる。
 白河の影が、今度は江古田へと伸ばされた。



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