白月の君といつまでも2

-- Early Summer, about 17 years old
210:月影島の伝承







「あらら~、綺麗な肌なのに……あちこちぶつけちゃったのね」


 診察室の椅子に座った花梨の袖を捲り上げ、女医――浅井成実は、痛々しそうに眉を寄せた。
 島に上陸した花梨とジンは、船の降り際、船長から「娘さんを一度診療所で診てもらったほうがいい」と勧められていたのだ。


「あはは……船の揺れがすごくて……」


 花梨は照れくさそうに笑うが、腕にも脚にも数か所、船内で激しくぶつけた青あざが痛々しく浮かんでいる。
 消毒薬の匂いが漂う静かな室内で、成実は手際よく処置を進めながら、ふと視線を上げた。


「お嫁に行く前でしょ? お父さんも、もう少し気をつけてあげないと」


 視線の先には、診察室の入り口に壁を背にして立つ、長身の銀髪の男。
 場違いなほど冷徹なオーラを放つジンを見上げ、成実はため息交じりに小言を言った。
 だが、男の返答は氷のように冷たい。


「……俺はこいつの親じゃねえ」

「――あっ! 兄なんです! ね、お兄ちゃん?」


 気まずい沈黙を破るように、花梨が慌てて割って入る。
 背後から「お兄ちゃん」と呼ばれたジンは、一瞬だけ、文字通り唖然とした表情を浮かべた。組織の最高幹部である彼が、これまで一度も向けられたことのない響き。


「な……フン。治療が済んだら出てこい」


 ジンは耳の先をわずかに赤く染めながら、忌々しげに鼻を鳴らすと、逃げるように診察室から出ていった。


(……組織の最高幹部が、あんなふうに耳まで赤くして……お兄ちゃん、だなんて)


 花梨は少しだけ可笑しくなって、小さく吹き出した。
 ドアが閉まる音を確認し、成実がほっと肩の力を抜く。


「…………お兄さん、ずいぶん怖い感じの人ね」

「すみません……お兄ちゃん、ちょっと人見知りが激しくて」

「あれは人見知りじゃないと思うな……。なんだか、今まで会った誰よりも『死』に近い匂いがしたわ」

「え……?」


 成実はジンの消えたドアを見つめ、反射的に自分の両腕を抱くようにして撫でた。
 その鋭い感覚に、花梨は言葉を失う。


「……それより、ちょっと触るわね。痛かったら教えて」

「あ、はい……あ……っ」


 成実の指先が、花梨の腕の痣にそっと触れた瞬間だった。

 花梨の意識を、普段は抑え込まれているはずの「視える」感覚が強引に揺さぶる。こめかみを走る鋭い痛みと共に、成実の瞳の奥に隠された、深い深い闇の色が、断片的な記憶となって流れ込んできた。


(……炎……ピアノの音……誰かを、探している……? ……この先生、何かを終わらせるためにここにいる……?)


 花梨の背筋に冷たい戦慄が走り、思わず息を呑んだが、成実は気づかずに話を続けた。


「今日は午前中雨だったし、午後から海が荒れるって聞いたから、まさかお客さんを乗せてくるとは思わなかったけれど……」

「……でも、島が近くなったら晴れました。風も、なんだか暖かくて」

「よかったわね。今日はずっと雨予報だったのに、急に快晴になるなんて不思議なこともあるものね」


 成実は優しく微笑み、花梨の目を見つめた。


「ふふっ、私は浅井成実。東京から来てるの。お嬢さんも、東京の人よね?」

「はい。……あの、成実先生」

「こんな静かなところくらいしか取り柄のない、寂れた島に何しに来たの?」


 成実はにこにこと尋ね、その優しい笑顔に花梨は口を開く。


「えと……実は、白神子について知りたくて来たんです」

「しろみこ……? 聞いたことない言葉ね……。あ、でも、ひょっとして月影様のことかな?」

「月影さま……?」


 初めて聞く名に、花梨の胸が微かに高鳴る。


「ん~、島の人から聞いた古いお伽話だから、私も詳しくは知らないんだけど。昔、この島に『月影様』って呼ばれる天女みたいな人がいたんですって」

「天女みたいな、月影さま……」

「すごくお優しい方で、誰にでも分け隔てなく接して、島を愛する人だったみたい。月影様には不思議な力があって、島を富ませる神通力……っていうの? そういうのを持ってたらしいわ。その頃、月影様のおかげでこの島はとても豊かで、金銀まで採れたって話よ」


 成実は包帯を巻き終えると、少しだけ寂しげな眼差しで、窓の外の海を眺めた。


「でも、その月影様は、ある時、島の外からやって来た男に惚れて、島を捨てて出て行っちゃったそうよ。……それから島はどんどん貧しくなって、月影様を慕っていた島の人々は、いつしか彼女を恨むようになったんですって。島には月影様が残したおやしろがいくつかあるらしいけど……今は誰も参拝してないって」

「お社ってことは……月影様は神主さんだったりしたんですか?」

「ん~、さあね~。なにせ、大昔の話だからね。ごめんね、それ以上は知らないわ」


 成実はそう言って、少し困ったように笑った。
 島外から来た余所者の自分ができるのは、村の老人たちの世間話を記憶の隅に留めておく程度。歴史の真実にまで踏み込む興味は、今の彼女にはなかったのだ。


「いいえ、ありがとうございます。……月影さま、ですね。覚えておきます」


 花梨は包帯が巻かれた自分の腕を見つめながら、その名を心の中で繰り返した。

 成実が語った“恨み”の物語。
 島の人々は月影様を恨んだという。

 けれど――もし本当にそうだったとしても。

 島から吹いてきたあの温かな風を思い出すと、月影様がこの島を嫌いになったり、人々を憎んだりしたようには思えなかった。


「……さて、治療はこれでおしまい。お兄さんに怒られないうちに、戻ったほうがいいわね」

「あ、はい! ありがとうございました、成実先生! ……ね、成実先生……」


 花梨は椅子から立ち上がり、包帯をしまう成実に話しかける。


「どうしたの? まだ他に痛むところある?」

「いえ……あの……どうか早まらないでくださいね?」


 成実の表情が強張る。
 その時、外から選挙カーの音声が流れてきた。


『皆様の清き一票をお願いいたします――』


 わずかな沈黙の後、成実は無理やり笑う。


「な、なに言ってるの! も~。こんな島で医者やるの早まったって? 私もちょっと思ったけど、でも……」


 一瞬だけ成実は、まるで自分のすべてを見透かされたかのように細く息を呑み、それから少しだけ歪んだ笑みを浮かべた。


「そんな綺麗な瞳で見られたら、見透かされてるみたいでや~ね! ほらほらお兄さんが待ってるわよ」

「……ありがとうございました、失礼します」


 成実が慌てたように明るく笑い飛ばすなか、花梨は丁寧にお辞儀をして診察室を後にした。
 背後で、成実がどこか寂しげに「お幸せにね、鋭いお嬢さん」と小さく呟く。花梨はそのことに気づかなかった。

 待合室に出ると、そこには診療所の入り口付近で、置物のように動かず腕を組むジンの姿があった。
 その鋭い視線が花梨を捉え、彼は低く、地を這うような声で吐き捨てる。


「……随分と長話だったな」

「ごめんなさい! でも先生、とっても優しくて。……ジンさん、お待たせしました!」


 ジンは「フン」と鼻を鳴らし、花梨の返事も待たずに外へと踏み出す。
 島特有の潮風が、彼の長い銀髪を揺らした。









「明日から歩くぞ。しっかり寝ておけ」

「はい」


 診療所を出ると、日も暮れ始め、花梨とジンは旅館へと辿り着いた。
 花梨を監視するため、部屋は同室だ。

 ジンの手元には、あらかじめ組織で調べ上げた、お社の位置を記した地図がある。
 そこに花梨を連れて行けば、何らかの反応があるはず――と組織は見ているが……。


「このお菓子おいしい~♪ ジンさんナイスチョイスです!」


 ……花梨は、ジンが適当に買った菓子を頬張り、幸せそうに笑っていた。


「…………チッ」


(こんな奴が本当に、役に立つのか……?)


 神子であることが確定し、組織に引き入れたとはいえ、天真爛漫な目の前の娘は、まったく闇に呑まれようとしない。
 診察室から漏れ聞こえていた“月影様”という人物も、こんな風だったのだとしたら、神様は案外能天気なのだと、ジンは密かに脱力した。

 見ていられない――と、ジンは花梨に背を向ける。


「あ、どこに行くんですか?」

「……お前は寝てろ」


 冷たく言い残して、ジンが部屋から出て行く。


「……行っちゃった……。そういえば、今日って何日なんだろ……」


 ふと、今日の日付がいつなのか思い立ち、花梨はスマホを鞄から取り出す。
 ……なぜか没収されなかったスマホ。


(……まあ、逃げるつもりもないし……ね)


 組織に情報を握られている以上、新一たちに助けを呼ぼうとは思わない。
 彼らはそれをわかっていて、放置しているのかもしれないのだから。

 まだ、充電が残っていると良いのだけれど……と、久しぶりに電源を入れてみた。



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