白月の君といつまでも2

-- Early Summer, about 17 years old
209:その島の名は


「…………人生初の、船旅だね。ふふっ、変なの、長野から出てから、初めてのことばっかりね」


 花梨はもたつきながら、スーツケースをどうにか持ち上げようと頑張るが、一週間分の荷物はなかなかに重く、持ち上がらなかった。

 島での滞在期間は特に決めていないが、花梨が目指す伝承の地は、島に数箇所あるらしい。上陸して徒歩移動で全箇所回るとなると、最低でも四日はかかる計算なのだという。
 ベルモットから、「服は一週間分ほど持っていきなさい」と言われ、素直に荷造りをしたのが裏目に出た。


(こんなことなら、三日分くらいにしておけばよかったかな? それか……一週間くらい着替えなしでも、昔はそれが当たり前だったし、今も平気といえば平気なのに……)


 志保には「服くらい、毎日新しいのに着替えたらいいのよ」と、新しい下着や、服を貰ってしまった。ベルモットなんて、高いブランドものまで買い与えてくれた。


(私、臭かったのかな……。って、そりゃそうだよね、金曜日から着替えてなかったものね……)


 遠回しに「あなた、におうわよ」と美女二人に言われていたかと思うと、恥ずかしくなって、花梨は頬を掻いた。


「んしょ……」

「……貸せ」

「え? あっ!!」


 不意に、ジンが戻って来て、花梨のスーツケースを船に積み込む。


「ありがとうございます!」

「フン。到着が遅れる。さっさと乗るんだな」

「……ジンさん……」


 ジンが手を差し出すので、花梨はその手を取って、船へと乗り込んだ。
 黒い手袋越しでは、彼の過去は視えない。

 視ようと思えばできないこともないが、なんとなく、ジンの過去は覗きたくない。花梨は直感的にそう思った。
 彼も過去を見られたくなくて、手袋をしているのだろうか……。


(確か、ジンさん……初めて会った時は、手袋をしていなかったと思うのだけど……)


 意識が朦朧としていたからはっきり覚えていないが、あのときは手袋をしていなかった気がする。


(……なんだかんだ怖い人だけど……ジンさんは、私を何度も助けてくれるのね……でも、竜哉おじさん、ごめんね……)


 目の前で殺された竜哉に対して、花梨は申し訳ないと思っていた。
 たとえ自分を害した人間であっても、死ぬ必要はなかったと思うから。

 あれほど苦しめられた男だが、あまりにあっけない最期だった。
 あの後、彼はきちんと弔われたのだろうか……花梨の記憶にあるのは、気を失う寸前に感じた頬を焼くような熱さだけ。


(竜哉おじさん、どうぞ安らかに……)


 花梨は船が出港すると、港に向けて手を組み、竜哉の冥福を祈った。










 港を出ると、強い風のなか、小型船は容赦ない波の洗礼を受けた。
 大型フェリーなら優雅にいなすであろううねりも、このサイズの船にとっては壁のような衝撃だ。


「わわっ!? ひゃんっ!」


 一歩踏み出すたびに床が大きく傾き、花梨の体はあっちへこっちへと投げ出される。
 踏ん張ろうとした細い腕が金属の柱に激突し、鈍い音が響いた。


「うぅ……痛い……」


 打った腕をさする間もなく、今度は反対側の手すりに腰を打ち付ける。
 見かねたジンが、低い声で毒を吐いた。


「……目障りだ。じっとしていろ」

「す、すみません、でも、足が……わっ、ととと!」


 さらなる大波が船体を叩き、花梨が再び派手に転びそうになったその時――。


「……チッ、これでも喰らってろ」


 ジンが長い腕を伸ばし、花梨のフードの付け根をガシッと掴み上げた。


「へ? あ、あぶ……あぐっ」


 首根っこを掴まれ、まるで子猫のように体が浮く。

 ジンはそのまま花梨を、船室の壁際へ押し付けるようにして固定する。
 ピタリ、と背が壁に貼りつき、フラフラしていた体が安定した。


「……おい、舌を噛むなよ。死なれたら検体の予備がねぇ」


 ジンの強靭な腕の力だけで、花梨は揺れる船体の中で振り回されるのを物理的に阻止された。


「……大人しくしていろ。島に着く前に自分から壊れてもらっちゃ困るんでな」

「あ、ありがとうございます……でもジンさん、これ、ちょっと……苦しい、です……」


 フードが引っ張られ、首がわずかに締まる。顔を真っ赤にしてもがく花梨を、ジンは一瞥もせずに冷ややかに正面を見据えている。
 傍から見れば、巨大な死神が白い子猫の首根っこを掴んで運んでいるような、あまりにもシュールで恐ろしい光景だった。

 波の揺れは一層激しさを増し、船室の壁に頭をぶつけそうになった花梨は、ついに胃の底から込み上げる不快感に顔を青くした。


「っ……う、うぅ……気持ち悪い……」


 その場にへたり込み、震える花梨を一瞥し、ジンは椅子に座り直し、足を広げて構えた。


「……来い。そこで大人しくしていろ」


 言われるままに花梨はよろよろとジンの前まで歩き、彼の足元の床に潜り込むようにして丸まった。
 ジンの長い脚が左右から彼女を囲み、檻のように感じられて、不思議と船の揺れがいくらか収まった気がした。


「……動くなよ」


 ジンは面倒そうに手を伸ばすと、花梨のフードを後ろから、ぐいと引き寄せ、自分の膝の間に挟み込むように、彼女の体を固定した。
 花梨はジンのコートから漂う、強い煙草の匂いと硝煙の香りに包まれながら、されるがままに目を閉じる。


(怖い、はずなのに……。こうしていると、何かに守られているみたいで……変な感じ……)


 ジンの手袋越しの指先は冷たいはずなのに、フードを掴むその力強さだけが、荒れ狂う海の上で唯一の確かな重力だった。


(でも煙草のにおい、ちょっと臭いかも……)


 ちらっと上を見上げると、ジンに睨まれ、花梨は慌てて下を向く。


「おい、下を向くな。吐くんじゃねーぞ」

「ふ、ふぁい!!」


 こみ上げる吐き気を手で押さえ、花梨は風が止みますようにと願った。
 その願いが通じたのか、風は少しずつ弱まり、波も幾分か穏やかになってくる。


「――……おい」

「…………」

「おい、白猫。なに寝てやがる。見えてきたぞ」

「にゃ……?」


 頭をとんと、軽く小突かれ、花梨は目を覚ました。
 いつの間にか眠っていたようで、ジンを見上げる。彼の視線の先を見ると小さな島が見えてきた。


「……あの島は……」

「……月影島。五百年前に白神子が住んでいたとされる島、だとよ。……島人たちはもう忘れちまってるらしいがな」

「つき、かげ……じま……わっ……!!?」


 眠っている間にフードが外れたのか、花梨の白い髪を一陣の風が攫っていく。


(……なんだか、懐かしい……)


 島から吹いた風が自分を歓迎しているように感じられ、花梨は静かに立ち上がる。

 あの島で、自分は何を知るのだろう。
 ジンは覚醒すると言っていたけれど、“覚醒”とはなんなのだろう……当事者だというのに、何も知らない自分は、最期に何を知ることになるのだろう。

 花梨の胸がトクントクンと高鳴った。



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