白月の君といつまでも2

-- Early Summer, about 17 years old
207:月見草の夜


◇




 花梨の、次なる実験の地へ出発する前日の夜。
 志保は彼女の部屋を訪れていた。

 コンコン。
 扉を二回ノックすると、中から「はーい! 開いてますよ~」とやわらかい声が聞こえた。


「志保ちゃん、いらっしゃい」


 扉を開けると、穏やかに微笑む花梨が、招き入れてくれた。
 殺風景な部屋だというのに、彼女がいるだけで、清浄な神域だと勘違いしてしまうほどの居心地の良さを感じる。


「お散歩は終わったようね。いよいよ、明日ね。準備はできた?」


 先ほど部屋を訪ねたら、口を開けた旅行鞄だけが残されて、花梨は留守だった。

 “月見草と一緒に星を見てきます。すぐ戻ります。”とメモを残し、散歩に出かけていたらしい。
 戻ってきた花梨のそばには、月の光を浴びて瑞々しく咲いた月見草が、部屋に彩りを与えていた。


「あ、うん。ただいま。だいたいOKだよ。ベルモットさんに、服まで買ってもらっちゃって……ところで、どこに行くの?」


 昨日、ベルモットが花梨をどこかに連れ出し、戻ってきたときには大きな紙袋がベッドの上に置いてあった。
 明日から向かう離島への準備品だ。

 “ベルモットとデートをした”と、花梨は浮かれていたようだが、“あの魔女と……?”――よくこの状況で喜べるものだなと、志保は呆れた。


「……行き先の前に、“白神子”について説明しておくわ」

「あ、白神子って、ベルモットさんが言ってた……?」

「……」


 志保はクリップボードを指が白くなるほど強く握り直し、震えを押し殺した声で花梨に告げる。


「いい、花梨。あなたが『神子』として証明されたのは、単に過去や未来が視えるからじゃないわ。……白河の直系にのみ発現する、脳の特殊な変異。……私たちはそれを、『高次元知覚の共鳴(レゾナンス)』と呼んでいるの」

「レゾナンス……きょうめい……?」

「そう。あなたの脳は、特定の波長を通じて、他者の記憶や世界の“因果律”に直接アクセスしている。……でもね、花梨。それは命を削る諸刃の剣よ。あなたが異能を使えば使うほど、あなたの脳細胞は極度の過負荷で焼き切れていく……。あなたが死を身近に予感しているのは、オカルトなんかじゃない。身体がその限界を悲鳴として上げているからなのよ」


 志保は花梨の細い手首を掴み、その脈を測るように力を込める。
 脈は今のところ安定しているが、無自覚のまま異能を使い続ければ、いつ乱れてもおかしくない。


「白河の家があなたを『白ねずみ』と呼んで別邸に隠したのは、その能力の暴走を恐れたから……。そして組織があなたを“シャルトルーズ(霊薬)”と名付けたのは、その知覚能力を抽出して、『あの方』の望む“世界の設計図”を完成させるため。……あなたは、人間として扱われていない。世界を読み解くためのレンズとして消費されようとしているのよ」

「……それが、白神子……?」


 花梨の掠れた声が、狭い部屋に頼りなく溶ける。
 志保は、逃げ出したくなる衝動を抑え、言葉を続けた。


「ええ、組織が長期にわたって調べ上げても、なかなか辿り着けなかった白河の神子――“白神子”の謎……。代々の当主しか知り得なかった秘事――それが、今の当主の代になって、綻び始めた。白神子は、ただ“白河の家系”だからそう呼ばれているわけじゃない。
五百年に一度生まれるという、特異な存在。この世のすべてを意のままに動かす力を持った、“神の依り代”。人はそれを、“神”そのものだと呼ぶのでしょうね。それが、花梨――あなたなんじゃないか……と、私たちは見ているの」

「意のままにって……え……でも、私……何も……」


 神だなんて……。

 あまりにも突飛な発想に、花梨の唇に、困ったような薄い笑みが浮かんだ。

 ふと、花梨は自分のこれまでの人生について振り返ってみる。
 もし、仮に、その話が本当だとして、自分が神だというのならば――なぜ、自分は幼い頃から誘拐され続け、両親を早くに亡くし、虐待や迫害を受け、この場所にいるのだろう。

 花梨は、白河の家で、稀華のように大切に扱われた記憶がないというのに。

 それらは、決して自ら望んだわけじゃない。
 自分の意のままになど、動かしたことはなかったはずだ。

 稀華――彼女は大切に大切に扱われて、皆が平伏していた。
 すべて、彼女の意のままに、周りがそう動いていた。

 彼女が次期当主になり得る“神子”だと思っていたから。

 ……自分が稀華とは違うのは、二つのおまじない。
 “額へのおまじない”は祖母に教わったままにしただけで、気休め程度のもの。
 “言葉のおまじない”は……。

 そう考えていた花梨に志保から鋭い言葉が投げかけられる。


「あなたを崇め奉る人はいない? 無意識に加護を与えた人は? それに、祈りを込めた“言葉”を誰かに使ったことはない……? 誰かの死を願ったり、誰かの無事を願ったり。言葉にして、その通りの影響が出たことは?」

「あ……」


(小さい頃……一度だけ、私を誘拐したおじさんによくないことを言ったことがあるかも……)


 脳裏をよぎったのは、三歳の冬の、凍てつくような記憶。
 自分を攫った男に向けた、「死んじゃえ!」という呪いの言葉。その瞬間、耳の奥――脳に直接鳴り響いた、存在しないはずの神楽鈴の音。

 車に跳ねられた男の背中と、泣きながら「『生きて』と言い直しなさい!」と自分を叱った母の震える腕。

 あの時、自分が変えてしまったのは“未来”ではなく、“現実”そのものだったのではないか――。

 思い当たる節がある花梨は、言いようのない寒気に襲われ、言葉を失った。


「……その様子じゃ、心当たりがあったみたいね」

「っ、私、悪いことは言わないって決めてるよ? お父さんとお母さんと約束したんだもん……!」

「……そう。でもね、花梨。あなたのその性質を知ってしまえば、あなたを思い通りに動かすことくらい簡単なのよ。恐怖で縛るか、あるいは、守りたい誰かを人質に取ればいい……」


 志保の眼差しには、そんな組織のやり口を嫌悪する色が濃く滲んでいた。


「でも、それはあなたが本当に“白神子”だった場合の話。実際に目にしていないものは、まだ仮説でしかない。だからね、花梨――」


 続けようとした志保の言葉を遮るように、花梨は告げた。


「――それで、白神子の伝承がある、あの島に行くんだね」

「……っ。それすらも、読み取ったのね」


 思考を先回りされ、志保は息を呑む。
 科学では説明のつかない“共鳴”が、すでに始まっている。


「そこに行くと、何がわかるの?」

「私は知らないわ……。ジンが付き添うから、彼に従って。……でも、一つだけ約束して。向こうで何を見せられても、あなたは、あなたのままでいて」

「ジンさん……なるほど。じゃあ、志保ちゃんとは、もうお別れなんだね……」


 花梨は、窓辺に置かれた月見草に目をやった。
 闇の中で白く輝くその花は、明日にはしぼんでしまう。それでも、今はこんなに凛と咲いている。


「えへへ。短い間だったけど、志保ちゃんと会えてうれしかったよ。いろいろ気を回してくれて、お薬も、お風呂も、シャンプーも……全部、ありがとう。私がいなくなっても、元気でね」

「花梨……っ……!」


 すべてを悟り、自らの運命を恨むこともなく「ありがとう」と微笑む花梨。
 その笑顔が、あまりにも澄み切っていて――。

 志保は、決壊しそうな涙を堪えるために、彼女の細い肩を抱きしめることしかできなかった。




◇




 翌日、花梨は黒いフード付きのマントを身に付け、ジンに連れられて施設を出て行った。
 走り去っていくポルシェ356Aを、シェリーは廊下の窓越しに静かに見送り、彼女の身を案じる。
 その手には、花梨が大切にしていた月見草の小さな鉢植え。花梨のいた部屋から持ってきたものだ。昼間の今は花弁を閉じて、夜に花咲くときを待っている。


「花梨……(結果はどうであれ、あなたは人間よ……)」

「……行っちゃったわね。あーあ、せっかくの癒しがなくなっちゃった。残念だったわね、シェリー?」


 シェリーは廊下で、見送りに来ていたらしいベルモットとすれ違った。


(ベルモット……。あなた、花梨にずいぶん入れ込んでいたようだけど……あの子も懐いていたみたいだし……)


 ベルモットが、なぜ花梨に執着するのかは知らないが、花梨も懐いていたのが、シェリーには奇異に思えて不快だった。

 彼女が離れていくと、シェリーは再び立ち止まり、もう見えなくなった車の影を探す。
 その後ろ、少し離れた場所で、ベルモットが誰かに話しかけていた。


「お見送りは終わりましたか?」

「ええ、新人幹部のシャルトルーズならジンと出発したわ。ねえ、バーボン、例のアレは準備できたの?」


 名前を呼ばれたバーボンは、ベルモットから語られたコードネームに、眉をぴくりと動かす。


(シャルトルーズ……? 新しい幹部の名前……“不老不死の霊薬”か……意味深な名前だな……)


 初めて聞いたその名に、さっきすれ違った黒いフードの人物、小柄だったから恐らくは――女性だ。それがその人物だと、彼は静かに結論づけた。

 組織に新たな幹部が生まれ、調べる要素が増えてしまった。
 バーボン――降谷零は、その正体を暴くべく思考を巡らせる。


(でも、どうしてかな……すれ違うとき、ふわりと鼻を掠めた、あの香り……)


 花梨に似た、ジャスミンとアプリコットの残り香。
 かつて、彼女に贈ったハンドクリームは、ヒロと偶然重なった同じもの。それよりも少しだけ複雑で、罪の香りを孕んだような、どこか退廃的なアロマ。


(花梨に贈ったのとは……少し違った気がする……だが……)


「……ええ、できていますよ」


 ベルモットに答えながら、降谷の胸には、拭い去れない冷たい予感が澱(おり)のように溜まっていった。


「そう、ならいいわ。じゃあさっさと出発しなさい」

「わかりました」


 コツコツと、ベルモットのヒールの音が廊下に響き、遠ざかる。
 その後ろにバーボンの革靴の音が続く。

 バーボン――。

 シェリーも噂には聞いたことがある、組織の幹部。
 最近、ベルモットと行動をともにすることが多いらしいが、バーボンに興味はない。

 シェリーはただ、花梨が消えた方角を、しばらくその場で見つめていた。



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