追憶の誕生日【完結】
-- Autumn, about 16 years old
②栞に挟まった想い
窓の外から入り込む午後の日差しが、江古田のマンションのリビングをオレンジ色に溶かしている。
一年前はあんなに殺風景だったこの部屋も、今では花梨の好みの雑貨や柔らかなクッションが増え、すっかり彼女の居場所になっていた。
ソファの右端では新一が、左端では自宅ならではの特権として
めくられる紙の音だけが、静かな室内に心地よく響いていた。
「……なあ、花梨。お前、来週だな」
新一がふと顔を上げ、手元の本を閉じて隣に声をかける。
「ん……? なにが~?」
花梨がふんわりと顔を上げ、新一のほうを振り返った。その際、彼女は読みかけのページに、銀色に輝くブックマーカーを慣れた手つきで挟み込む。
それを見た瞬間、新一の思考がぴたりと止まった。
(……オレがあげたやつ。……まだ、使ってくれてんだな)
それは去年、東京に戻ってきたばかりの彼女に、半ば強引に押し付けた贈り物だった。
「形に残るものは困る」と泣きそうな顔で笑っていた彼女が、一年経った今でも、それを日常の一部として大切に扱っている。
その事実に、新一の胸の奥がじんわりと熱くなり、自然と目が優しく細められた。
「新ちゃん、どうしたの?」
じっと見つめられていることに気づき、光を透かす白銀の髪を揺らして、花梨が宝石のような瞳を丸くする。
「あ、いや……。そのしおり、まだ持っててくれたんだなと思ってさ」
「あ、これ? ふふっ♡ 新ちゃんにもらったやつだよ~。すごく使いやすくてお気に入りなんだ~♡ 新ちゃんって、センスいいよね♡」
花梨はそう言って、しおりを挟んだ小説を、まるで宝物でも扱うように胸の前で大事そうに抱きしめた。
夕陽に照らされた彼女の笑顔が、いつも以上に眩しくて、無防備で。
「っ……!」
ドクン、と。
新一の心臓が、耳元まで届きそうなほど大きく跳ねた。
(ん……? なんだ、今の……?)
喉が急激に乾き、新一は慌てて視線を本に戻した。しかし、さっきまで読んでいたはずのミステリーの一行が、まるですり抜けるように頭に入ってこない。
ただの幼なじみで、放っておけない妹分。
彼女には幸せになってほしいし、守ってやりたい。それだけの感情だと思っていたはずなのに。
(……可愛すぎるだろ、バーロー……)
一年前、トイレに駆け込んで吐き出したあの独り言が、より切実な重みを伴って心に突き刺さる。
新一は顔が赤くなるのを隠すように、さらに深く本に顔を埋めた。
(ただの幼なじみだろ……)
「……来週、空けとけよ。お前の誕生日。去年みたいに肉だけじゃなくて、もっと……その、美味いもん食わせてやるから」
「えぇ♡ 本当!? 私の誕生日!? やったぁ! 新ちゃん、だいすき~♡」
「っ、だからオメーは安売りすんなっつーの……!」
隣で無邪気に喜ぶ花梨の気配を感じながら、新一は必死に自分に言い聞かせる。
これは幼なじみとしての好意。自分には別に好きなやつがいるはずだ、と。
けれど、握りしめた本の表紙越しに、自分の鼓動が速くなっていることだけは隠せなかった。
「え~? だって、私、新ちゃんのことすきなんだもん!」
「っ……どーせ、兄としてだろ?」
「頼りになるお兄ちゃん、だいすきだよ~!」
案の定、思った通りの言葉が返ってきて、新一の胸がずきりと痛んだ。
(……いっ! な、なんだ……?)
急な胸の痛みに新一は、自分の胸に手を当ててみたが、もう何ともない。最近は立て続けに事件に遭遇していたからか、寝不足で疲れが出ていたのだろう……と、そう思うことにした。
「花梨は、なにが食いたい? リクエストがあるなら、それにするけど?」
「ン~。なにがいいかなぁ……? 今は中華が食べたい気分だけど、お誕生日は、そのときになってみないとわかんないや」
手元の小説は、中華料理店が殺人現場の推理小説。それを読んでいた花梨は今、中華が食べたいらしい。
この後、二人で食事に行く予定だが、今夜は中華に決定だ。
「……じゃあ、オレが決めたもんでいいか?」
(今日は中華だから、誕生日はやっぱりあそこかな……)
花梨の誕生日には、ちょっと奮発して、フレンチでも食わせてやろうか――。
家に帰ったら、ホテルのフレンチレストランに予約を入れるつもりの新一だった。
「ン~、そのときになって気分がのらなかったらごめんね」
「なんじゃそりゃ。わがまま言うなよなー」
(店を予約するから、気分がのらないじゃ困るんだよ……)
花梨が手を合わせ、申し訳なさそうに微笑むから、新一は呆れつつも笑顔になってしまう。
「だってね? 食べたくない気分のときに、食べたくないもの出されたら、やっぱり食べたくないもの!」
「この、わがまま娘めっ!!」
ふいに、花梨の鼻に新一の手が伸び、軽く抓み上げた。
「ングッ!?」
「……まあ、楽しみにしておけよ。後悔はさせねーから」
「っ……
「へへっ、変な顔だなっ!」
「もぉっ!
「変な顔」と言いつつ、新一の頬はほんのり赤く、愛おしそうに花梨を見つめている。
花梨は自分をからかう新一が、少し眩しく見えて、胸がずきりと痛んだ。
(……新ちゃんは、私のこと、妹だと思ってるんだもんね……)
本当の好意に蓋をしたまま、二人の甘酸っぱい午後は続いていく。