君に渡した第二ボタン
-- Spring, about 17 years old
君に渡した第二ボタン③
「え? だめ? いっつも私からだから、たまにはいいかと思ったんだけど……」
「いや、オレは別に頼んでねぇ……っ、今日だけだからな?」
花梨の小さな手がオレの腕に触れ、ふわりと温かい。
お前が望んでんだからいいよな?
卒業記念なんだし、それくらいしてやったっていいよな?
……って、オレ、つくづくこいつには甘いんだよなぁ……。
卒業記念……だけど、オレの心はもう、この日だけでは済まない気がしていた。
「やった~~♡」
花梨の弾けるような笑顔に、また胸が疼く。
人の気も知らないで、嬉しそうな顔しやがって……。
……可愛すぎるだろ……。
こいつの笑顔をずっとそばで見ていたい。
「ったく、ほら」
「あーん♡」
オレがケーキを食べさせると、花梨は――。
「ンンッ♡ いつもよりおいしく感じる♡ なにこれ? 新ちゃん効果!? 新ちゃんすご~い!」
うぐっ!
花梨お前、なんてこと言うんだよ。
美味そうに食って、幸せそうな顔で言うんじゃねーよ……。
きゅうきゅうって、胸が締め付けられて痛い。
なんだよ、これは……!
苦しい……。
このままじゃいけないと思ったオレは、気を取り直して口を開く。
「っ……オメー、いっつも美味そうに食うよな~?」
「ふふふ♡ そうかな~?」
「なんかお前の顔見てるだけで、こっちまで幸せな気分になるよ……」
花梨の笑顔に釣られて、気づけばオレも笑顔になってた。
「え?」
ふいに、オレの顔を見た花梨がぎょっとした顔を見せる。
……花梨、オメー、失礼だぞ。
「あっ! っ、オレ今……!?」
オレ、今なんて言った?
……瞬時に頬が熱くなって、慌てて口を手で覆い隠す。
「うわぁ……新ちゃんの笑顔って、素敵だね~。すきだなぁ♡」
「っっ!!? お、おまっ、急に、な、なに言って!!(す、すき!!?)」
「いつももっと笑ってくれればいいのに」
動揺するオレに、花梨は頬杖をついて笑った。
とろけるようなうっとりした瞳の柔らかい笑顔。
……その笑顔は反則だろ。
素敵とすきを組み合わせるんじゃねーよ。
思わず反応しちまったじゃねーか。
「っ……笑ってるだろ?」
事件ばっか追いかけてるから、そりゃ難しい顔のほうが多いかもしれない。
けど、オメーといると、笑ってることのほうが多いと思うんだが……?
残念なことに、花梨といるとなぜか事件に遭遇することが少ない。
「ン~。難しい顔してることが多い気がするよ?」
「そうか?」
「ん。事件とか、よく遭遇しちゃってるからしょうがないよね。でも、新ちゃんはイケメンだから、どんな顔でも格好いいよ♡」
「…………」
“ボッ!!”
花梨の言葉に、オレの顔が火を噴いた。
くっ……!
褒め殺しすんのやめてもらっていいか……?
“バーロっ! オメーのほうが美人だわ!!”
……なんて、口が裂けても言えねぇ。
オレは熱くなった顔を隠すように、花梨のフォークを口に突っ込んだ。
「あ、新ちゃん、それ私の食べかけの……」
「っ、うるせー! ケーキはケーキだろっ!」
花梨が不思議そうに瞬きをする。
この「境界線のなさ」が、今のオレには毒すぎる。
結局、五つのケーキは二人でなんとか平らげた。正確には、花梨が幸せそうに頬張る姿を見ているうちに、オレが意地になって半分以上胃袋に収めた形だ。
「ふぅ……。ごちそうさまでした。……新ちゃん、今日は本当にありがとう。一生忘れないよ、今日の卒業式」
窓の外を見ると、いつの間にか空は淡い茜色に染まり始めていた。
楽しい時間は、残酷なほど早く過ぎる。
ソファに深く腰掛けた花梨が、西日に透ける白い髪を揺らして、満足げに微笑む。その瞳の奥には、昼間の無邪気さとは違う、どこか遠くを見つめるような静けさが宿っていた。
「……大げさなんだよ。ただケーキ食っただけだろーが」
「ううん。私にとっては、特別な日になったよ。……一人じゃない卒業式なんて、思ってもみなかったから」
その言葉に、また胸がギュッと締め付けられた。
こいつはいつも、幸せを噛みしめる時ほど、自分が今までどれだけ孤独だったかを無自覚に露呈させる。
「…………おい、花梨」
「ん?」
オレは立ち上がり、帰る準備をするふりをして、テーブルの上に置かれた『第二ボタン』を指差した。
「それ……高校に行っても、ちゃんと持っとけよ」
「うん。お守りだもんね」
「ああ。……もし、新しい学校で何かあったら。……いや、何もなくてもだ。何か困ったことがあったら、すぐにオレを呼べ。いいな?」
本当は「他の男にそんな顔を見せるな」と言いたかった。
「帝丹に来い」と、わがままを言いたかった。
けれど、オレにできるのは、この小さなボタンに託した『安否確認』という名の独占欲を押し付けることだけだ。
「ふふ、新ちゃんは本当に心配性だね。……わかった。約束するよ」
花梨は立ち上がり、玄関までオレを送る。
ドアを開けると、冷たい夜の気配が廊下に流れ込んできた。
別れ際、花梨がオレのコートの袖を、ほんの少しだけ名残惜しそうに掴んだ。
「新ちゃん」
「あ?」
「……大好きだよ。お兄……ちゃん?」
トドメの一撃。
『大好き』の後に付け加えられた、残酷なまでに純粋なその敬称に、オレは力なく笑うしかない。
「……知ってるっつーの。バーロ」
マンションを後にして、駅までの道を一人で歩く。
心臓の鼓動はまだ、ケーキを食べていた時の熱を持ったままだ。
胸元のボタンがなくなった学ランに、夜風が容赦なく吹き付ける。
寒い。
けれど、花梨に渡したあの場所だけは、今もじんわりと熱を帯びているような気がした。
(お兄ちゃん、か……)
夜空を見上げると、細い月が浮かんでいた。
あいつを「妹」だなんて、いつまで騙し通せるだろうか。
四月からの新しい生活。
オレはまだ、自分の胸で疼くこの痛みが、初恋という名の『不治の病』であることに、気づかない振りを続けるしかなかった。
◇
帰り道、夜風に吹かれながら、オレは自分の胸元に手をやった。
そこにあるはずの第二ボタンはもうない。
あいつの手の中に、オレの心臓のすぐそばにあった「最後の一つ」を預けてきたんだ。
(……ま、あいつが笑ってんなら、それでいいか)
そう自分に言い聞かせる。
蘭への想いとは違う、もっと静かで、それでいて一度火がついたら消せそうにない、熱い塊が胸の奥で疼いている。
けれど、今のオレにはそれが何なのか、名前をつける勇気がなかった。
探偵のくせに、自分の心という一番身近な謎から、オレは目を逸らしたんだ。
――この一年後。
あいつが「黒羽」という男の隣で、オレが見たこともないような女の顔をして笑う姿を見るまで。
そして、自分自身が小さな子供の姿になって、見上げる位置からしかあいつを追えなくなるまで。
オレはこの「痛み」の正体を、知らない振りをし続ける。
……あの日。
最後に渡したボタンが、本当はどんな意味を持っていたのか。
それを花梨に打ち明ける日は、もう二度と来ないということも。
夜の静寂の中、オレの足音だけが、少しだけ虚しく響いていた。
おしまい☆