白月の君といつまでも -番外編-

-- Spring, about 17 years old
Close to My Heart


 彼のいないデッキで、そっと触れた指先に残る硬いプラスチックの感触。
 目を閉じれば、まだ少し肌寒かったあの日の、彼との他愛もないやり取りが鮮明に蘇る。


 あの日――。


「はい、花梨にこれあげる」

「え? 名札……?」


 突然、快斗が中学時代に使っていた名札を、部屋の引き出しから取り出して渡してきた。


 ――どうしてこうなったんだっけ……?


 その理由は数分前に遡る。










「へえ、花梨って裁縫もできるんだな~」

「あんまり上手じゃないけど、これくらいなら」


 花梨の手元で、快斗の学ランの第二ボタンが付け直されている。

 帰宅途中、すれ違いざまに誰かの鞄が引っ掛かり、糸がほつれて取れてしまったのだ。
 スイスイと針を動かす様子を、ダイニングテーブルの向かいに座った快斗は、頬杖をつきながら嬉しそうに見つめていた。


「な~ん、上手上手! ありがとな♡ いつも自分で直してたから、なんかすげー感動……♡」

「ふふっ、そっか、よかった♪ これで第二ボタンは大丈夫。他のボタンは……」


 あっという間に第二ボタンは復活する。
 快斗が感動している間に、花梨は他のボタンも一つ一つチェックした。せっかくだから、ほつれがあれば全部直しておこうと思ったのだ。


「第二ボタンか……」

「ん?」


 快斗が花梨の手元を見下ろし、呟く。


「花梨ってさ、中学の卒業式で第二ボタン、貰ったりした?」

「え? あ……どうだろ。私、卒業式出なかったからわかんないや」

「あっ、そうなんか……。わりぃ……」


 花梨は中学の卒業式に出席していない。
 一年半前、集団でいじめを受けていた場所から逃げ出し、東京へ来たのだ。
 親戚の家にもそれ以降、帰っていない。

 快斗が気まずそうに頭を掻いて謝ってきた。


「ううん。大丈夫だよ。出席しないことを選んだのは自分だし。卒業証書は郵送してもらったから」


 過去の出来事に、花梨は振り返らない。
 振り返ったところで、もう二度とその瞬間は訪れないと知っているからだ。

 良い思い出ならまだしも、辛い思い出は心を重くするだけ。
 そこに囚われたくない花梨は、過去を過去として清算していた。


「そっか」


 “気にしてないよ”という想いを込めて明るく話すと、快斗は安心したように笑った。


「そういえば……あれ、第二ボタンだったの……?」


 第二ボタンといえば……。
 ふと、花梨はある記憶を思い出す。


「ん?」

「あ……幼なじみがね、卒業の記念にって、制服のボタンをくれてね」

「え゛(嫌な予感……)」


 花梨の言葉に快斗はぎょっとした。


「他のボタンはなかったんだけど、こう、胸に一番近いところのボタンだけ残ってて」

「胸に一番近いところって……第二ボタンだよ……な?(その場所、どう見ても第二ボタンだろ)」


 快斗は自分の心臓付近を指差す花梨の手を見下ろす。


「そうなのかな。なんか別の人にあげるために取っておいたらしいんだけど、渡せなかったからやるって」

「……マジかよ。それ嘘なんじゃねーの?」

「嘘? ただ余ったボタンを記念にくれただけだよ?」


 あの時、新一がくれたボタンはどの位置だったっけ……。
 ボタンの位置が思い出せない花梨は、新一が蘭に渡せなかったボタンをもらってしまったことだけ覚えていた。










 ……卒業式の日、花梨が一人家で過ごしていたら、卒業証書を手にした新一がマンションにやってきたのだ。


『新ちゃん、中学卒業おめでと~♡ って、わっ!? ちょっと新ちゃん! ボタンほとんど取れちゃってるよ? どうしちゃったの?』

『おめでと~って、なにを暢気に……卒業はお前もだろ。取られたんだよ……ったく、どいつもこいつも人の制服を記念品か何かだと思ってやがる……』

『なんで!?』


 玄関ドアを開けて見た新一の学ランは、胸辺りのボタンを一つ残し、他はなかった。
 なんだか寒そうだなと花梨が思っていると、新一は呆れ顔で家に入ってきた。
 一体何があったというのか……。


『なんでってー……んっ! 最後の一つ、お前にやる』

『え?』


 新一は最後の一つを自らむしり取って渡してくる。
 花梨が“なんで私に?”と問えば、“蘭に渡せなかったから”だそうだ。


『お前は式に出てねぇんだから、卒業記念に貰っとけ。どうせ余りモンだしな』

『はぁ……それは、どうも……?』


 卒業記念だから貰っとけと言われて受け取ったそれは、確か部屋の小物入れに入れてある。

 新一にボタンを貰ったことを思い出した花梨は、快斗がなぜ“嘘”だと言ったのかわからなかった。










 ……ボタンの直しも終わり、快斗の部屋に移動した二人は、いつものようにベッドに並んで腰掛け、話を続けていた。


「なあ、花梨」

「ん?」

「……卒業式で渡す、第二ボタンの意味って何か知ってるかなー? ってオレも知ったの、高校入ってからなんだけどな?」

「第二ボタンの意味? 何かあるの?」

「あ、これ、知らない感じだな」


 ぽけ~っと柔和な顔で首をかしげる花梨に、快斗は苦笑する。


「ん? よくわかんないけど、もらったボタンは卒業の記念品だから一応取ってあるよ?」

「……オレも卒業式でボタン全部むしり取られてさー。残ってねえの、だからさー」

「ふーん? それで、第二ボタンの意味って……?」


 ――自分から話題を振っておいて、説明はなし……?


 花梨はなぜか申し訳なさそうに頭を掻く快斗を見つめる。
 彼は立ち上がって机の引き出しへ向かい、何かゴソゴソしていると思ったら、振り返った。


「はい、花梨にこれあげる」

「え? 名札……?」


 快斗の手には中学時代の名札が握られている。


 ――なんで名札……?


 急に何の話だろう。
 学ランのボタンを付け直してあげていたら、急にそんな話になったのだ。


「第二ボタンは卒業の時にさ、好きな女の子に渡すもんらしいんだ。“一番大切な人になりたい”って想いを込めてな」


 快斗の声には、どこか照れくさそうな響きがある。
 彼自身も意味を最近知ったばかりで、まだ慣れていない様子だ。


「そうなんだ……! 知らなかった。けど新ちゃん、余ったから記念にって言ってたよ?」


 花梨は首をかしげながらも、思い出すように呟く。
 新一の言葉がそのまま頭に浮かんだ。


「余ったんじゃねー! 死守したんだろ! 他のボタンは取られて、第二ボタンだけ残ってるっておかしーだろ!」


 快斗は両手を広げて力説した。
 その必死すぎる形相に、花梨は思わず吹き出してしまう。


「そうなの……? でも、新ちゃん、好きな人に渡せなくて、私に押し付けただけの気もするんだけど……。実際そう言ってたし」


 ――新ちゃん、本当は蘭ちゃんに渡したかったんだよね……でも会えなかったんだっけ……。


 花梨は軽く笑みを浮かべつつも、少し考え込むように目を伏せた。新一の複雑な心情を察すると、可哀想に思えてならない。


「……その幼なじみって、どんな奴なんだ?」


 快斗が真剣な目で問いかける。


「どんな奴って……沈着冷静で頭脳明晰だけど、自信家で目立ちたがり屋で負けず嫌いで、過保護でちょっと小言が多いかな。たまに安否確認の連絡がくるよ」


 花梨は少しだけ困ったように肩をすくめる。
 そんな彼女の様子に、快斗は軽く笑みを漏らした。


「安否確認て……(なにそれ、保護者か何かか……?)」


 どうやら自分が思っていた関係ではなさそうだ。
 驚きと戸惑いを隠せない快斗に、花梨は楽しそうに説明を続ける。


「新ちゃんの親と、私の親が仲良しだったから、今でも新ちゃんのご両親が私のこと、気にかけてくれててね。新ちゃんは同い年だけど、兄みたいな存在なの」

「兄か……。じゃあオレは?」


 快斗の問いに、花梨はくすっと笑いながら返した。


「え? 快斗は彼氏でしょ? 新ちゃんとは違うよ。快斗は、新ちゃんみたくうるさく言わないから好き♡」


 花梨の無邪気な言葉に、快斗は一瞬ドギマギしながらも、顔を赤らめて小さくうなずく。


「だ、だよな~っ!!(うるさく言わないから好きなのか!?)」


 その様子を見て、花梨は少し得意げに微笑んだ。


「彼、探偵だからね~。細かいところが気になって仕方ないみたいで、すぐ白黒つけたがるの。世の中にははっきりさせない方がいいってことも、あるじゃない?」


 ぽつりとつぶやく花梨の言葉には、普段の明るさの奥にある、ほんの少しの哀しさが隠れているように見える。


「……オメーって、“新ちゃん”っつーやつの話になると、なんかモヤモヤしてんな」


 快斗は名札をじっと見つめながら、つい小さく呟いた。


「モヤモヤ?(新ちゃんっつーやつって……)」


 花梨は不思議そうに首をかしげる。


「……そいつ、ずるいんだよ。オメーにそんな顔させてよ。あんなの、オレなら絶対そんな風に渡さねえのに」


 快斗は、ベッドに戻って座ると、わざと花梨の腕を抱えた。


「えぇ? ずるいってどうして……?」


 ちょっと笑いながら、花梨は腕を軽く振りほどこうとする。


「だってさ、そいつがボタンをお前に渡したの、故意だろ。オレにはそう見える。“渡せなかったから押し付けた”だけ、なんてのは嘘だ。そいつだってお前のこと特別だと思ってるはずなのに……」

「うーん、でも新ちゃんてそういう人だからなぁ……」


 ――新ちゃんにはね、蘭ちゃんという可愛い幼なじみがいて……ですね。


 新一の想い人を勝手に話すのは気が引けて、口には出せない。

 けれど、快斗の唇は尖っていて。
 花梨はそんな快斗を見て、ちょっといたずらっぽく笑った。


「それで? オレにはどうするんだよ?」

「え? なにを?」

「オレだって……お前の一番になりたいんだよ」


 ……快斗の指が花梨の手に絡まってくる。
 同時に、名札が手の中に押し込められた。

 隣の彼を見てみれば、表情はへそを曲げているようなのに、頬が赤い。
 照れている……?


「なに急に照れてるの?」

「照れてねえよ! でも、負けてらんねえんだ」

「っ……」


 そう言って、快斗はぐりぐりと、花梨の頬に頬を擦り寄せてくる。
 ……触れた頬がいつもより熱い気がした。

 猫みたいだなって思ったら、なんだか急に、ぎゅっと愛おしくなって……花梨は彼のくせっ毛をそっと撫でた。


「だからさ、これからはもっと、オレにべったりしてもらうからな。花梨、覚悟しとけよ?」

「ん~、どうしよっかな~」


 快斗が急にパッと顔を上げたと思ったら、今度は腰に手を回して、ぎゅっと抱きついてくる。


「あぁ? ひっで! 花梨ちゃ~ん! 膝枕してよ~!」

「……しょうがないなあ~……」


 ――今日はいつになく甘えんぼうだなぁ~……。


 ポンポンと花梨が腿を叩くと、快斗の身体は素早い動きで倒れ、頭が膝へ。
 そうして優しく髪を撫でてあげれば、彼は目を細めて嬉しそうに微笑む。


「へへっ♪ 好きだぜ、花梨♡」

「私もだいすきだよ♡」


 チラッと見上げられて、花梨も返す。
 膝枕して数分もしないうちに、快斗は眠ってしまった。
 昨日は“お仕事”で、夜遅かったらしい。

 小さな名札を胸元で握りしめ、花梨はそっと囁く。


「……ありがと。大事にするね」


 眠っている快斗にそう告げると、彼の口角が上がった。

 ……あの時、鞄の奥にしまい込んだ小さな誓い。
 それが今、夜風の吹くデッキで、花梨の心を静かに温めてくれていた。



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