白月の君といつまでも -番外編-

鬼ごっこの終わり方


 江古田高校2-B。
 朝から向けられる熱を孕んだ視線に、花梨の心臓は悲鳴を上げていた。

 昼休み。

 快斗が席を立った一瞬の隙を突き、彼女は教室を飛び出す。向かったのは、静まり返った旧校舎の音楽室。
 鍵が壊れていて、交換されていないため、こっそり入ることができる。

 ……中はすこし薄暗い。


「……ふぅ、ここなら一息つけるかな?」


 冷たい空気の中で吐き出したため息。


(快斗ってば、授業中もずっと私のこと見てくるんだから……。心臓に悪いよ……)


 大好きな彼の視線を受け、花梨の身体はほんのり火照っていた。

 快斗に見られるのは嫌ではない。見つめ合うことだって、ある。
 けれど、なんだか落ち着かなくて。

 この薄暗い音楽室で少し落ち着きたい。


「少しだけ、お邪魔します」


 花梨は作曲家たちの肖像画を見上げて語りかけた。

 すると、背後のピアノからポーンと音が鳴った。
 エルガー『愛の挨拶』の旋律が誰もいない部屋に流れた。


「だ、れ……?」


 調律が行き届いていないが、優しい音色だ。
 花梨の位置からピアノを見たが、誰もいない――ように見えた。


「っ、お、おばけ……?」


 花梨はぶるぶると身体を震わせる。恐怖で動けなくなってしまった。
 演奏が終わると、花梨は走り出す。

 けれど、がたっと音がして、聞き慣れた声が響いた。


「どこへ行くんだい、仔猫ちゃん。鬼ごっこにしては短すぎたね」

「ふぇっ、この声……快斗……っ!? どうして」


 扉に手をかけ、驚きに目を見開く花梨の腰に、逞しい腕が回る。
 逃げ出す間もなく、背中から熱い身体に包み込まれた。耳元で囁かれる、甘く低い声。


「さあ、どうしてだろうな? お前がここに来るのも、全部分かってた。――逃がさねーよ、花梨」


 逃げ場を塞ぐような強い力。
 花梨は観念してその腕に身を委ねる。

 始めは震えていた身体が、快斗だとわかると徐々に治まっていった。


「快斗、ピアノ上手だね」

「もう一曲聴いてく?」

「わぁ♡ いいの?」

「もちろん! 隣、座んなよ」


 快斗は花梨を引き連れ、再びピアノの前に座ると、鍵盤に指を滑らせた。
 曲名は……先ほどと同じ、エルガー『愛の挨拶』。

 けれど、今度はアレンジし、さっきよりもゆっくりした演奏だ。
 隣の花梨を見ながら、快斗は楽しそうに弾いている。

 嬉しそうな彼の微笑みに、花梨も目を細める。

 その甘く優しい音の波に、花梨はゆらゆら揺れて、この魔法使いからは一生逃げられないのだと、静かに悟るのだった。

 音楽室に満ちる旋律は、やがてゆっくりと形を変えていく。
 同じ『愛の挨拶』なのに、先ほどよりも呼吸が深く、余白が多い。

 間に落ちる沈黙すら、花梨には妙に心地よかった。


「……ね、快斗」

「んー?」

「いつの間に、先回りしてたの? 私、快斗がいない隙を見て走ってきたんだけど……」

「さぁな~?」


 軽く笑って誤魔化す声。
 けれど鍵盤の上を走る指先だけは、やけに正確で迷いがない。


(やっぱり……)


 花梨は小さく息をつく。

 この人は、何でも“気づくのが早すぎる”。

 視線も、足音も、息遣いすら。
 逃げられた気がしたのは、たぶん最初から錯覚だったのだ。


「なぁ、花梨」

「ん……?」


 快斗は演奏の手を止めないまま、横目でこちらを見る。


「逃げるの、やめた?」

「……え、別に逃げてないよ?」

「ふーん?」


 楽しそうな声。

 なのに、ほんの少しだけ距離が詰まった気がした。
 音がひとつ、低く沈む。


「じゃあさ」


 ぽん、と軽く鍵盤を叩いて区切りをつけるようにしてから、快斗は立ち上がった。

 次の瞬間――

 花梨の手首が、やさしく、でも逃げられない強さで掴まれる。


「もう一回、逃げてみ?」

「えっ……」


 気づいたときには、扉のほうへ導かれていた。
 軽いのに、確実に方向を決められている。


「ちょ、ちょっと待って、快斗……私、少し一人になりたかっただけで、本当に逃げてなんてっ」

「今度は本気で鬼ごっこしようぜ」


 その声は、からかい半分。
 でも、どこか嬉しそうでもあった。

 音楽室の扉が開く。

 廊下の冷たい空気が流れ込んでくると同時に、花梨の心臓も跳ね上がった。


「ま、待ってよ! 本気ってなに――っ」


 駆け出したのは花梨。
 そのすぐ後ろを、余裕すら感じさせる足音が追いかけてくる。

 速いのに、追いつかない距離。
 近いのに、捕まえない距離。


(えぇええええっ!? 追いかけっこが始まっちゃった~! わっ!? 快斗追いかけてきてる……!!)


 校舎の角を曲がる。
 階段を駆け下りる。

 逃げているはずなのに、なぜか怖くない。

 むしろ――少しだけ、楽しい。


「ほら、花梨」


 背後から声が落ちる。


「もうちょい頑張れよ」

「あーん、快斗のいじわる~!」

「ははは♡」


 振り返った瞬間、影が一瞬だけ近づいて――
 ふっと、額に快斗の吐息がかすめ、前髪が揺れた。そしてすぐまた離れる。

 絶対に捕まえられるのに、捕まえない。


(……ずるい)


 息が切れるのに、頬が熱いのに。

 笑いそうになるのが悔しい。
 屋上へ続く階段の前で、花梨はようやく足を止めた。


「もう……やめてよぉ……」

「やめる?」


 快斗も、すぐ後ろで止まる。

 距離は一歩分。

 伸ばせば届く距離。

 でも、まだ触れない距離。


「逃げるの、やめる?」

「……」


 花梨は小さく息を吐いて、振り返る。

 そこにいるのは、いつもの彼。
 からかうようで、優しくて。

 どうしようもなく、自分のペースを崩してくる人。


「……ううん」

「だよな」


 快斗は笑う。

 そして――今度は、逃げ道を塞ぐように一歩近づいた。
 けれど、捕まえるためじゃない。

 抱きしめるために。


「じゃあさ」


 囁きは、やけに近い。


「捕まえるのも、やめないから」


 そのまま、静かに腕が回る。
 追いかけっこは終わったのに、始まったばかりみたいな温度で。

 花梨は抵抗するでもなく、その胸にそっと額を預けた。


「……ずるい、私、快斗に敵いっこないのに……」

「知ってる」


 不意に、花梨の頭上に快斗の影が下りて、髪にキスが落とされた。

 廊下の向こうで、昼休みのざわめきが遠く響いている。

 その世界から切り離されたみたいに、二人だけが静かだった。
 もう逃げる理由も、追いかける理由も、曖昧になっていく。


「花梨、愛してるよ」


 花梨が顔を上げると、熱のこもった優しいブルーグレーの瞳に囚われた。


「…………もう。私だって大好きだよ……♡」

「へへっ♡」


 静かに、どちらからともなく、距離を縮める。
 影が重なり、ただ残るのは――

 この距離が、いちばん安心するという事実だけだった。



4/8ページ
スキ