水族館デート編【完結】
③指先を奪うドクターフィッシュの誘惑
◇
……甘いひとときを過ごし、クラゲ展示室を出た快斗と花梨。
「……はー……(クラゲ展示室、最高だった……!)」
ここが水族館であることなどすっかり忘れ、快斗は目を閉じ、花梨と手を繋いで余韻に浸る。
花梨が手を引いてくれるから、目を閉じていても歩いていける。このまま現在地が水族館であることを思い出しても怖くない。
そんな快斗のそばで、花梨の感嘆の声が聞こえた。
「わあ……すごい……!! ね、快斗、すごいよ!」
「ん……? え、なに――」
“ぎゃああああ!!”
声につられてそっと目を開いた途端、快斗は叫び声を上げ、慌てて花梨の背後に回る。
二人の目の前には大きな水槽があった。
その中には、照明に照らされキラキラと銀に光るイワシの群れ。それらが一斉に、快斗に迫ってくるような動きを見せたのだ。
「……ふっ。ふふっ、なんでそこまで?」
「オレ、マジで魚はだぁああっめなんだって!!」
よほど魚が怖いのだろう。
快斗は花梨に後ろから抱きつき、うなじあたりに顔を埋める。
……小さく“ちゅっ”と音がした。
「……ン? ちょ、ちょっと快斗、どさくさに紛れて抱きつかないの……っ! お客さん、たくさんいるんだからねっ」
「魚はマジ無理なんだって! 見たくねえっ!」
ぐりぐりと快斗の額が花梨の首元、肩口へと擦り付けられる。
イヤイヤをしているらしいが、やはり時々“ちゅぅ”っと吸われるような感覚がした。
「っ、こらっ、だからって首にちゅーしないでよ~!」
「やだー♡ 魚こわーい♡」
「ちょっ、ンッ! くすぐった……もぉ~~っ、確信犯~!」
周囲の客たちが生温かい視線を向ける中、快斗と花梨は少しずつ我に返り、引っ付いたままの状態で、ゆっくりとその場から離れていく。
人の視線が気にならなくなった頃、快斗と花梨は再び手を繋ぎ、一気に駆け出した。
「はぁっ、はぁっ、ああもう、人前であんな……恥ずかしい……!」
「ははっ、やっちまったな!」
屋内の暗い空間から屋外へと出ると、明るい日差しが二人を出迎える。
肩で息をする、陽の光を浴びた二人の顔は赤かった。
「も~、やっちまったじゃないよぅ……」
「魚イヤだったんだもん、しょうがねーだろ? あんな大量の魚見ちまったら、足が竦んで動けねえって!」
「だったら、他の展示のときみたく、目を閉じてればよかったんじゃ……? 私、連れていってあげたのに(あれ? 足がちゃんと動いたから逃げてこれたんじゃ……?)」
「目ぇ閉じたら花梨が見えなくなるだろ。それはもっとイ・ヤ♡」
屋外の通路を歩きながら、快斗は繋いだ手にぎゅっと力を込めた。
「ああもう、ああ言えばこう言うんだから……あ。あれは……!!」
「ん? ぎゃっ!!」
ふと、花梨が前方に目を向け指を差すと、快斗がぎょっとした。
二人の前には“ドクターフィッシュ体験コーナー”なる水槽と、水槽に手を浸している人だかりが見える。
「わぁ、あれが青子ちゃんが言ってた……おもしろそう!」
「ちょ、ちょっと花梨ちゃん!?」
「私、体験してきていい? あ、快斗は苦手だろうから、ここで待っててくれる? 行ってくる!」
「あっ、花梨、おい……!」
花梨が一人でドクターフィッシュの水槽へと歩いていく。
その足取りは軽やかで、瞳はキラキラと輝き、わくわくしている様子。
……そんな顔を見せられては、止めたくても止められないじゃないか。
魚が苦手な快斗は、仕方なく少し離れた場所から見守るしかなかった。
「では、次の列のお客さま、手を浸してくださ~い」
係員の案内で、列に並んでいた花梨は順番がきて、嬉しそうに手を水槽に浸す。
「わぁ……くすぐったいけど、なんか面白い……♡」
花梨の手には小さなドクターフィッシュが数匹集まり、ついばんできた。
「初めてですか? けっこうくすぐったいですよね」
「そうですね……でも、面白いですね♡」
隣に座ったのは知らない男性で、笑顔で話しかけてくる。後ろには彼女らしき女性がいた。
歳は花梨たちより少し上だろうか、花梨はちょっと照れ笑いを浮かべながら頷く。
「なっ……あいつ……!!」
――花梨の隣にオレ以外の男がいるなんて、絶対嫌だ……っ!
しかも、あいつ、彼女連れじゃねーか!!
……と、男の隣にいる女性はむすっとした顔で、自分に背を向け、花梨に語りかける男を睨みつけている。
快斗は、頭にカッと血が上るのを感じ、気づけば走り出していた。
「……花梨、オレもやるっ!」
快斗は勢いよく割り込むように椅子に座った。
「えっ、ちょっと!」とさっきの男の声が聞こえたが、無視した。
「えっ、快斗……!?」
「離れたくないんだ♡」
花梨の手を握り、快斗はそのまま握った手を水槽に入れる。
すぐに小さな魚たちが指に群がり、ムズムズとした感触が全身に広がる。
(……ヒィッ! 指を食われてる、食われてるぞオレ……! でも花梨の隣は譲らねえ……!)
快斗の腕には鳥肌が……そして、鼻の穴が広がっていた。
「……うぅ、くすぐった……でも、花梨の隣なら耐えられる!」
「……快斗、強がらなくても大丈夫だよ? あははっ、面白いね~♡」
快斗は必死に引っ込めたくなる手を我慢しつつ、横目で花梨をチラリ。
花梨の楽しそうな笑顔に、胸の奥がじんわり熱くなる。
「……花梨、離さねーからな……っ♡」
「うん……私も……離さないね?」
二人は水槽の小さな魚にくすぐられながらも、手をつないだまま笑い合う。
周囲の視線も、二人にとってはもうどうでもいいくらい、甘く幸せな時間が流れていった。
……どれくらい経ったろうか、ドクターフィッシュの水槽の前、花梨と快斗はまだ手をつないだまま座っている。
途中でアシカのショーが始まるとの館内放送があり、他の客たちは次々と立ち上がり、そちらへ向かっていく。
残ったのは快斗たちだけ……。
魚たちが指先をついばむ感覚が、二人の心臓の高鳴りと重なった。
「んっ……くすぐったいね……でも、快斗と一緒なら楽しい……♡」
快斗はそんな花梨を見つめ、頬を赤くして小さく笑った。
「そうだろ? 花梨はいっつも、オレと一緒なら、何でも楽しいって顔してるよな……」
彼の言葉に、花梨は照れたように小さく笑い、ゆっくりと手元を見下ろす。
「うん……快斗と一緒だとなんでも楽しいよ……♡」
その瞬間、快斗は水に浸かっていないほうの手を差し出した。
花梨は不思議そうに差し出した手に手をのせる。
その手を取って、快斗はそっと自分の頬に引き寄せた。
「……花梨、こっち見て」
花梨は快斗の手に導かれるように顔を上げ、二人の距離はほんの数センチ。
柔らかい吐息が交わるほど近くて、花梨の鼓動が手のひらに伝わってくる。
そばに立っていた、ボールペンを手にした館内スタッフが、手元のクリップボードに集中している。その隙を見て――。
「んっ……」
快斗は我慢できず、花梨の唇に唇を重ねた。
“ちゅっ……”
花梨も小さく応え、唇を重ね返す。
二人がキスを始めた途端、館内スタッフのペンが激しく動き出した。クリップボードの上で、シャッシャッとわざと立てた大きな音が、魚の跳ねる音と合わさり、二重奏を奏でる。
(……よし、あそこのカップルは背景だ。おれが見ているのは魚の数だけだ。断じて接吻中の高校生じゃない……!)
スタッフの涙ぐましい“空気読み”のおかげで、二人の世界はその瞬間、満たされた。
周りの音も、水槽の泡も、すべての音が遠くに溶けていく。
「……快斗……」
「オレの花梨……ずっとこうしていたい……」
花梨の声に、快斗はそっと額を花梨の額に寄せる。
館内スタッフに気づかれた気配はあったが、もう止められない。
「うん……私も……」
花梨は微笑み、快斗に肩を寄せた。
水槽の青い光が二人を包み込み、手のひらの温もりと心の高鳴りが、甘く静かな時間を描く。
小さな魚たちが二人の指先をついばみながら、まるで二人の愛を祝福しているかのように、静かに泳いでいた。
(……チッ。あんなに嫌いだったヌルテカ共が、今は二人の仲を繋ぐキューピッドに見えなくもねーわ)
……まあ、花梨が隣にいない時は、一匹残らず消えてもらうけどな♡
快斗は心の中でそう悪態をつきながら、自分に肩を寄せる花梨の温もりを噛み締めるのだった。