平和な金曜日【完結】
-- Spring, about 17 years old
平和な金曜日⑤【完結】:金色の瞳の天使を見つめて
移動教室の途中、前を歩く黒羽君が「やべ、プリント置いてきた」と呟いて、隣の花梨さんに何か耳打ちして走っていったのを見て、ボクは思わず小さく息を吐いた。
――今が、ようやく巡ってきた“隙”なのかもしれない。
いつも彼女の隣にいるあの番犬、黒羽快斗がいない時間は、ほんの数分。あまりにも貴重な時間だ。
だが、彼がいるときといないときの花梨さんは、まるで空気の温度が違う。
そのことに、彼女自身は気づいていないのだろうか。
花梨さんは教室へと走り去っていく黒羽君を見送ると、渡り廊下の手すりにもたれて空を見上げた。
五月の後半、初夏の匂いをのせた風に、彼女の陽光をまとう白い髪がなびいている。
「……いい天気だなぁ」
潤いのある小さな唇から紡がれる優しい声。
柔らかくて、透き通るような笑顔――。
あの金色の瞳が細められるたびに、見ているこちらの胸の奥がざわつく。
……美しい。
いや、そんな言葉じゃ足りない。
彼女を見ていると、現実離れした神聖さに、思わず息を呑んでしまう。
「やはり、貴女は自然光が似合う」
「あっ……白馬くん」
「失礼、驚かせてしまいましたね。だが、どうしても言わずにはいられなかった」
いつもは後ろから眺めているだけだが、こんな間近で見られるなんて、今日はついている。
じっと見つめていると、花梨さんは髪に手をやり、触れる。
緊張しているのだろうか、そういえば初めて逢ったときも動きがぎこちなかったような……。
「そ、そんなに見つめないで……なんか、恥ずかしいよ……?」
「……すみません。つい。やはり、その金色の瞳は昼の光でも夜の街灯でも――どの環境でも輝いているように見える。まるで天使の光だ」
その瞳に見つめ返してもらえるだけで、胸が高鳴る。
どんな賛辞もキミには伝わらないのだろうけれど、言わずにはいられない。
「て、天使……」
花梨さんが戸惑うように笑う。
そんな苦笑いさえも美しくて、ボクはまた彼女に見惚れた。
「……その、昨日のゲームセンター、楽しかったね?」
……今日はなんて良い日だ。
いつもは話を聞くほうが多い彼女が、珍しく話題を振ってくれる。
なんて優しく透き通る声なんだろう……。
あなたと話しているだけで心が癒される。
花梨さん、ゲームセンターで話せたあの瞬間は、ボクの中で今や宝物となっているんですよ。
ボクはにこりと笑みを浮かべて口を開く。
「ええ。キミがあのクレーンゲームでぬいぐるみに手を伸ばした時、少し真剣な顔をしていたのが印象的でしたね」
「あっ、それ、見てたんだ……恥ずかしいな。結局取れなかったし」
「無我夢中な表情もまた、美しかったですよ」
「~~~~っ」
素直な気持ちを言ったまでだが、花梨さんの頬が徐々に赤くなる。
白い肌だからすぐにわかった。
今、ボクがあなたを赤面させたのですか……?
……なんだろう、この高揚感。
彼女に少しでも意識してもらえたことが、こんなにも嬉しい。
「わ、私なんて……そんな大層な存在じゃ……」
照れているのだろうか。じっと見ていると、花梨さんは両手で頬を隠してしまった。
その仕草――っ、可愛い。
おっと、声に出てしまいそうになった。
ボクは、黒羽快斗のようにただ“可愛い”だなんて、陳腐な褒め言葉など使いません。
「謙遜はいりませんよ。キミは、存在そのものが奇跡だ」
そう、花梨さん。キミは奇跡の存在。
天界にいる天使がボクの目の前で動き、言葉を発し、微笑むだなんて、奇跡と呼ばずしてなんと呼べばいいのか……!
「……」
花梨さんが黙ったまま、ボクを見上げてくる。
なんて綺麗な瞳なんだ。
その瞳に見つめられると、吸い込まれそうになる。
……気づけば距離が近づいていた。
耳の端で誰かが駆けてくる足音が聞こえたが、今は花梨さんの瞳から目が離せない。
彼女の瞳には、確かにボクが映っている。
けれど、彼女は足音のするほうへと視線を移した。
……仕方ない。
ボクもそちらに目を向ける。
「……白馬」
やってきたのは、ノート片手にやや息を切らした黒羽君だった。
低く発した声、ボクに向けた鋭い視線。
ボクと花梨さんの距離の近さに憤っているのがわかる。
「……怪盗キッド」
「あん?」
呼ばれ方が気に入らないのか、黒羽君の眉間に皺が寄った。
……君が怪盗キッドだということはわかっています。
だから呼んでみましたが、君は、あくまで隠し通すんですね。
まぁ、ボクも現行犯でないと捕まえる気はないですが。
ボクは“ふっ”と笑ってみせた。
黒羽君は「さっさと花梨から離れろ」と目が語っている。
ふむ……ずいぶん余裕がなさそうに見える。
そんな彼を見ると、なんだか気分が良い。
……花梨さんそっちのけで、黒羽君と見つめ合ってしまった。
しかし、花梨さんと話をしようものなら、いつも睨み付けてくるのはいかがなものか。
授業中、彼女を見ていても、気づけば黒羽君の鋭い視線があったりして――。
あの視線は、所有を通り越して“縄張りの確認”だ。
……滑稽だと思う反面、羨ましいとも思ってしまう。
(……黒羽君、睨まないでもらっていいですか……)
花梨さんに笑いかけられるたび、心の中でそう呟く。
睨まれる理由にまったく覚えがない。
ただ、君の隣の“天使”を見ているだけなんだけどな。
――ああ、でも確かに。
彼女が青子くんたちと話をしていたり、名前を呼んでくれたりするときの声は、どんな音楽よりも心地いい。
それを特等席で聞ける黒羽君が羨ましくないと言ったら、嘘になる。
(……花梨さん、大丈夫ですか?)
彼女は優しい。誰にでも平等で、分け隔てなく微笑んでくれる。
けれど、その優しさが、時に危うく見えるのだ。
あの黒羽快斗の“重すぎる独占欲”を知っている身としては、尚更。
それに黒羽快斗、彼は――。
「か、快斗……。お、おかえり~……?」
ボクと黒羽君の、間に流れる冷たい空気に耐えられなかったのか、花梨さんの声は震えていた。
「……あれ、花梨。待ち合わせの場所、ここじゃなかったよな?」
「えっ、あ、えっと、偶然……白馬くんが通って……」
「ふ~ん……偶然ね。んで、どんな話してたの?」
黒羽君が、ボクから花梨さんへと顔を向け、笑顔を見せる。
彼の口元は笑っていたが、目が全然笑っていない。
花梨さんは困った様子で、視線を左右に彷徨わせてから黒羽君を見上げた。
「え、ど、どんな話って別に……昨日の寄り道の話をしてただけ――」
「いやぁ~、オレがちょっと目を離したすきに、“オレの天使”が他の男と会話してるって聞いてさ? うっかりダークサイドに飲まれそうだったわ♡」
黒羽君の声は明るく、ボクに向き直った。
「黒羽君……言っておくが、ボクは君の“天使”などとは一言も――」
「“存在そのものが奇跡”って言ったよな? オレにも聞こえてたから♪」
その仕草が、無意識なのか、牽制なのか。
すっと後ろから、花梨さんの肩に黒羽君の手が添えられる。
彼の手が触れた瞬間、花梨さんの頬がわずかに赤く染まった。
……やっぱり。
その表情を見て、胸の奥が少しだけ痛んだ。
彼女が黒羽快斗を“特別”に想っているのは、もう疑いようもない。
「へえ~? “存在そのものが奇跡”ねぇ……じゃあオレはどうなる? “神”?」
「ちょっと快斗、なに言ってるのっ」
「ごめんごめん♡ 愛が重くて♡」
花梨さんが発言すれば、黒羽君は彼女に優しく笑顔を見せ、そしてボクをじろりと見上げる。
――また、あの目だ。
「彼女に相応しい男が誰なのか、それは彼女自身が決めることだ。ボクは、彼女の自由を尊重する」
「そっかそっか~♡ でもオレは自由を与えた上で、オレを選ばせるタイプだからさ♡」
黒羽君は作り笑いのような表情で、花梨さんを見つめながら口元だけ笑っていた。
だから、ボクも笑顔で応える。
互いに無言のまま、初夏の風が三人の間を吹き抜けた。
……放課後、窓の外に傾く夕陽の下。
黒羽君の隣で笑う花梨さんの横顔が、金色に染まっていた。
その光景を、ボクは少し離れた場所から、ただ見つめる。
花梨さん……あなたは、黒羽快斗の裏の顔をご存じですか?
その男はあの“怪盗キッド”なんです。
あなたは、犯罪者の彼女でいいんですか……?
天使のあなたに、犯罪者の彼は相応しくない。
……なぜ、そんなに幸せそうな顔を?
あなたは今、黒羽快斗という奇術師に巧みに幻惑されている。
本来、見抜くべきはボクの役目のはずなのに――。
どうしてその笑顔は、彼にだけ向けられるのですか。
計算高く巧妙な奇術師のまやかしに、なぜ気づかないのでしょうね。
どうして、そんなに眩しい笑顔を惜しみなく彼に……。
(――花梨さん。あなたが黒羽君を選ぶなら、それでもいい)
けれど、心の奥底では、もう一つの声が静かに囁いていた。
(……でも、“譲る”とは一度も言っていません。あなたの幸せを願うことと、ボクの願いを捨てることは、別問題でしょう)
彼女が空を見上げる。
その白い髪が風に揺れて、光を受けて煌めいた。
……ボクの中で、何かが決意に変わる。
天使のあなたが再びボクに笑うのなら――ボクは、どんな“手段”であれ取る覚悟がある。
それがたとえ、黒羽快斗の影を踏み越えることになったとしても。
いつか“令和の魔術師”をこの手で捕まえてみせる。
そして、あなたの目を覚まさせて差し上げますよ――。
※次ページはあとがき。