平和な金曜日【完結】
-- Spring, about 17 years old
平和な金曜日④:窓際三番目の天使と、その隣の番犬(緑田視点)
今日も僕は斜め前の彼に怯える。
……配られるプリントの数が足りないとき、必ずと言っていいほど、あの“睨み”が飛んでくる。
配られてきたプリントを、すっ……と後ろへ回そうとしたら、
(……また見てる。黒羽くん、そんなに睨まなくても……)
ちらっと横目で見ただけで、ゾクリと背筋が冷えるのは、季節のせいじゃない。
黒羽快斗――その名を聞いただけで男子の大半がビビる。
顔はいいし、頭もいいし、運動神経も化け物レベル。冗談もうまくて人気者だけど……それ以上に、「キレたら何をするかわからない」という噂が、いつの間にか男子間でまことしやかに囁かれていた。
そしてなにより彼は――。
隣の席に座る、“天使”を溺愛している。
……葵花梨さん。
透き通る白い肌に、シルクのようなキラキラと輝く白い髪、淡い光を湛える金色の瞳。
窓際の席だからか、カーテンが開いていると陽の光が当たって輝き、幻想的に見える。まるで、絵本から抜け出してきたみたいな美少女だ。
ついこの間まで、彼女はこんな姿じゃなかった。
どうやら事情があったらしく、黒髪の鬘を被って眼鏡姿でいたけれど、それをやめてからというもの、クラスで「葵さん♡」って呼ばない男子はいなくなった。
それまではみんな、「不気味ちゃん」とか、「根暗」とか――。彼女に陰口を叩いてばかりだったというのに、現金だなぁと思う。
……以前の葵さんは俯きがちだったから、僕も彼女の本当の顔はよくわからなかった。
けれど、困っていると助けてくれる、親切で優しいところはずっと変わらない。
僕はちょっと気弱だし、クラスでは浮いているほうで、うっかり屋なところもあって――葵さんには、一年の時からたびたび迷惑をかけてしまっている。
……あれは、一年の秋頃だったかな。
ある日の放課後。
クラスメイトから、「間抜け」「ウスノロクタ~」なんて、心ない言葉を投げかけられた僕。
それを日直だった、葵さんに目撃されて。
彼女が来た途端、僕を罵っていた人たちは言うのを止めた。
……いつもそう。
第三者に目撃されないよう、注意を払ってこっそり言ってくるんだ。
葵さんが無言で黒板を消し始めて、彼らは聞かれて気まずかったんだろう。慌てて帰って行った。
そして、黒板を消し終わると、彼女はこう言ったんだ。
『……嫌なこと言われたら、受け取らなければいいんだよ。誰かの悪意を受け取めちゃうから苦しくなるの。手放しちゃえばいいんじゃないかな? ぽいっ、て』
……って。
耳に心地の良い、優しい声で。
最後は、表情は読めなかったけど、にこっと口角が上がってた。
これまで言われるままに、他人の悪感情を重く受け止めていた僕は、その一言で心が軽くなった。
それを伝えてくれたとき、彼女、始めは声がちょっと震えてた気がする。なぜだったのかは、よくわかんないけど……。
伝えてくれたあとは、いつものように無言になって、彼女、すぐに帰っちゃった。
その時まで、あまり話したことはなかったけど、すごく声が可愛くて、好印象だったんだ。
まさか本当の姿が、あんなに綺麗だとは思わなかったよ……。
彼女が真の姿で現れたとき、教室はどよめきに包まれた。まさに“青天の霹靂”って思ったね。
とにかく、彼女は可愛すぎたんだ。
今の彼女は、誰もが一度は見惚れて、そして諦める。
……だって、隣にあの黒羽くんがいるから。
しかも、もう公認のカップルで、ちょっとでも話しかけようものならギロリと睨まれる。
この間も、配布された課題のプリントを、葵さんがうっかり落としたのを拾おうとして……思い出しただけで、身体がゾクリと震えた。
(……あの時の黒羽くん、目が完全に殺気こもってた……)
正直、何もしていないのに、なぜか命の危険を感じた。
それでも、葵さんはそんな空気にはまったく気づかず、「ありがとう、緑田くん」とふわっと笑ってくれる。
その笑顔で一週間は頑張れる。
いや、下手したら月曜の朝でも元気になれる。
……だから困るんだ。
葵さんが誰にでも優しくするのが。
この前も、風邪で休んだ分のノートを、そっと見せてくれて。
「よかったら、見て。字、あんまりきれいじゃないかもだけど……」
いやいや、きれいすぎますから。
めちゃくちゃ読みやすくてすっきりまとまってる……!
天使の字って初めて見た。
でもそれを見てたのか、また黒羽くんがじっとこっちを……。
(あの……ノート見てるだけなんですけど……!?)
こっちはただ、ノートの文字を見ていただけなんです。
視線を感じて焦って、ノートを閉じかけたら、葵さんが「あ、ごめん、見にくかった?」って心配までしてくれて。
そのまま彼女は「どこが見にくかったかな?」なんて言って、ノートの文字を指でなぞり、彼女的に見にくいと思った箇所を「ここかな?」と見つけた。
そして、はらはらと落ちてくる後れ毛を耳にかけながら、目の前でスラスラと書き直してくれる。
全然見にくくなんか、なかったのに……。
思わず自分の呼吸が早くなるのを感じる。
指先が触れそうになる瞬間に心臓が跳ね、目の前の天使の存在に圧倒されてた。
でも、その背後では黒羽くんが、相変わらずの鋭い眼光で葵さんを見守っていて。
目が合うと、思わず「ヤバい」と頭の中で叫ぶ。
だけど、その目は葵さんを見ると途端に柔らかくなるんだ。
必死に守ろうとしている目――それは、単なる怖さとは違うものだと直感したよ。
……独占欲。執着。
いや、それ以上に、葵さんが少しでも自分の手の届かないところへ行ってしまいそうで、怖くて仕方ないって目だ。
授業中、葵さんが消しゴムを落とした瞬間、黒羽くんは瞬時に反応した。
その動きはまるで機械のように正確で、周囲の男子ですら呆然とするほど。
でも拾って手渡すときには、優しい微笑を浮かべる――ずるい、全くずるい。
黒羽くんのその柔らかい瞬間と、普段の鋭さとのギャップに、胸がギュッと締め付けられた。
僕は、ただ見ているだけで心臓がバクバクして、手が汗ばんでしまったよ。
……放課後、教室に残った二人を見て、また心臓が跳ねた。
葵さんがノートを整理していると、黒羽くんがそっと椅子を引き、カーディガンを肩にかけてあげていた。
誰も見ていないと思っているのか、黒羽くんは照れくさそうにしながらも、ずっと葵さんを見守る。
その姿を見た僕は、「黒羽くん、怖いだけじゃなくて、すごく不器用なんだな……」と心の中で呟いた。
守りたい。独占したい。その気持ちがすごく強くて、でも照れくさくて、表現が下手。
だから、普段はあんなに鋭い目で睨むしかできないんだろう。
「じゃあ、緑田くん、また明日」
葵さんの声がふわりと耳に入って、思わず笑顔になってしまう僕。
黒羽くんは少しだけ眉をひそめるけれど、何も言わずに席を立った。
「花梨、鞄貸しな」
「いいのに」
「いいからいいから♡」
教室を出ようとする葵さんの背中に、黒羽くんの手が自然と触れて、彼女の手から鞄を奪う。
黒羽くんは最後にジロッと、牽制するような目を僕に向けて、二人で教室を出て行った。
「僕は、なにもしてないですよ……!?」
なにもしていないのに、なぜああも睨んでくるのか……。
彼の鋭い視線に身体は勝手に震える。
葵さんと、僕の距離は、全然縮まっていない。
だというのに、毎度あの恐ろしい視線はやめて欲しい……。
◇
「はい、緑田くん。一枚ずつ取って、後ろに回してって」
「あっ、ありがとう……。」
金曜朝のホームルーム。
葵さんが、前の席から回ってきたプリントの束について、説明しながら渡してくれる。
……優しい声と、柔和な顔。
ふわりと香る甘い香り。
今日もプリントとともに、天使の顔を間近に拝めてラッキーだ。
くじ引きで決まった席だけど、運がよかったと思う。
……運、よかったかなぁ?
「……」
今日も斜め前からビシビシ感じる、監視するような視線を気にしないように、僕はサッとプリントの束から自分の分を手にして後ろに回す。枚数の不足はなし。
……こっちは毎回、命を削る思いで緊張している。
(黒羽くん、お願いだから……せめて睨まないでください……!)
プリントを手渡されるたびに、僕の心臓は戦争状態だ。
葵さんの優しい笑顔、黒羽くんの必死な守護、そして自分がただの傍観者であること……そのすべてが混ざって、頭の中がカオスになる。
それでも、今日も目の前で笑ってくれる葵さんを見て、僕は心の奥で静かに決める。
「今日も頑張ろう」と――。
……黒羽くんの目を気にしつつも、天使の笑顔をもう一度見るために。