白月の君といつまでも -番外編-

影が重なる夜に


 夜、警察庁公安部の一角。風見のいない静かなオフィス。

 降谷零は書類の山に目を通しながら、ふと腕時計に目をやった。
 時刻は、二十二時を回っている。


「……遅いな。まさか、また米花町なんかに……」


 眉をひそめて、スマホを手に取ったとき――。


「……たっだいま……」


 ノックもせずにドアが開き、ひょこっと顔をのぞかせたのは、金色の瞳と、白い髪。
 ほんのり色づいた頬に、秋風を含んだ長い髪……。


「……花梨。遅い。連絡入れる約束だったよね」

「ごめんね? 快斗と一緒だったから、ちょっと油断しちゃって。近くまで送ってもらった」

「……それが油断になるってわかってるなら、僕に連絡くらい――」

「……えへへ。零お兄ちゃん、怒ってる?」


 ふわっと笑って、零の机の前まで駆け寄る。
 そして当然のように、備え付けの椅子に座って、机に頬を乗せた。


「ここの匂い、好き。零お兄ちゃんの匂いがする」

「……」


 零は黙ったまま、書類に目を戻す。
 だけど気持ちは、どうしても彼女から離れなかった。

 花梨は手持ち無沙汰なのか、柔らかい笑みを浮かべたまま、机の上のボールペンに触れてコロコロ転がしている。

 ……ふわりと杏とジャスミンの香りが香る、白く細い小さな手。

 彼女と初めて逢った頃はその手を取って、ともに困難を切り抜けた。
 親戚から冷遇され、どれだけ理不尽な目に遭っても、小さな彼女は明るく優しく、決して誰も恨むことはしなかった。

 零は花梨を強い子だ……とだけ。
 そう、思っていた。


 ――いつの間にか、こんなふうに、当たり前のように僕の空間に入ってくるようになって。


 そして、いつの間にか。
 その仕草ひとつひとつが、ひどく胸に刺さるようになっていた。


(ああ、また……。“妹”だって、思い込まないと、距離を保てなくなる)


 花梨から香る香りは、自分が贈ったハンドクリーム由来。


 ――君に似合うと思って贈ったんだ……まさか景と被るとは思わなかったけれど。


 優しくて甘い香りが鼻をくすぐる。
 零は身体を花梨から背けて、書類に目を通す。


「零お兄ちゃんって、最近ちょっと変だよね?」


 ……言われて零は振り返った。

 花梨がじっと見上げてくる。
 月の光を宿したようなその瞳。その優しい色に零の胸がドクリと音を立てた。


「……そうかい?」

「うん。私が快斗の話をすると、急に黙っちゃう。今日も、してみようか?」

「……しなくていい」

「やっぱり怒ってる」

「怒ってはいないよ」

「でも……寂しいの?」


 花梨の言葉に、降谷はふっと笑う。
 この子の瞳には、人を素直にさせる魔力が宿っているらしい。


「君は、探るのがうまくなったね。昔は“零お兄ちゃん大好き!”って、真っ直ぐ来てたのに」

「今も好きだよ?」

「……」

「でも、“兄”として、だよ?」


 ……ずるい。
 零は心の中でそう思った。

 その言葉が、どれだけ自分を安心させて、そして傷つけるか――。
 花梨は、気づいていない。

 ……その呼び方ひとつで、距離が固定されてしまう気がして。
 零は、胸の奥が静かに締め付けられるのを感じた。

 守るためにつけてきた“兄”という立場が、今はただ、彼女に触れられない理由になっている。


「なあ、花梨」

「ん?」

「……もう、僕を“お兄ちゃん”って呼ぶの、やめない?」

「……え?」

「僕が君を妹扱いするのも、そろそろ限界なんだ」


 零の言葉に花梨の目が、ゆっくりと見開かれていく。


「それって、どういう――」

「俺は、花梨が好きだ」

「……」


 花梨は言葉を失くし、小さく息を呑んだ。


「大きくなった君を見るたびに、いつか“零お兄ちゃん”じゃなくなる日が来るんじゃないかって、どこかで期待していた。でも……君はずっと、“お兄ちゃん”のままだ」

「……わ、たし」

「言わなくていい」


 降谷は立ち上がって、花梨の頭にそっと手を置いた。


「答えがどうであれ……今すぐじゃなくていい。でも、“男”として君を見てるってことだけは、覚えておいて」


 そう言って微笑んだ顔には、年上の優しさと、男の切なさがあった。

 花梨は何も言えず、ただこくりと頷いた。


(零お兄ちゃんは、いつだって“大人”だった。だけど、今のその眼差しは……少しだけ、弱さを帯びてる――)


 そして心の奥で、花梨は気づく。


(……私、零お兄ちゃんのこと、そんな目で見たことなかったのに――どうして、こんなに胸が痛いんだろう……)


 厳しいことも言うけれど、いつでも頼りになる、“零お兄ちゃん”。
 まさか彼が自分を女として見ているなんて、花梨は思いもしなかった。


 ――私には快斗がいて、零お兄ちゃんは、お兄ちゃんで……。


 そういえば、零お兄ちゃん。いつの間にか私を“花梨ちゃん”から“花梨”と呼ぶようになった……。
 それって、こういうことだったの……?

 ズキズキと胸が痛む。
 いつだって大人の彼から真っ直ぐな気持ちをぶつけられて、どう受け止めたらいいのか――今の花梨にはわからない。

 けれど――。


「花梨。遅くなったけど、飯行こうか。ご馳走するよ」


 零は机の上の書類をトントン――。
 まとめると花梨に向き直って笑顔を見せた。


「……」

「わがままをいっぱい言ってくれ。君を甘やかすの、結構楽しいんだ」

「零、お兄ちゃん……」


 その呼び方が、今は少しだけ苦しかった。

 零は花梨の頭を撫でる。
 白く絹のような柔らかい感触に、穏やかに目を細めた。


 ――その優しさが、いちばんずるいんだよ、零お兄ちゃん。


 前を歩く零の後ろで、花梨は大きな背中を見つめる。

 この背中、前に負んぶして助けてもらったとき、とても頼もしかった。
 大きくて、温かくて、頼もしくて。


 ――大好き……。


 その“大好き”が恋愛の感情なのかは、わからないけれど。


「どうした? ほら、灯り消すぞ」

「あっ、はーい!」


 パチン。

 オフィスの灯りが落ち、廊下の灯りが二人を照らす。
 開いたドアから伸びた陰影が、まるで距離を縮めたふたりを祝福しているかのようだった。

 ……だが、その影もすぐに閉じた扉の向こうへと消えていった。



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