図書室の再会
-- Spring, about 17 years old
図書室の再会
陽の差す図書室で、彼女と再会した午後。
……ページをめくる指が、ふと止まった。
昼休みの図書室。
ボクは今日。窓際の席で、群がる女子たちから逃れて静かに本を読むつもりだった。
けれど、そこに“彼女”の姿があった瞬間――空気の温度が変わった気がした。
「……花梨さん」
名前が、思わず唇からこぼれる。
その声に気づいた彼女が顔を上げ、こちらを見る。
光を受けて瞬きをする度に揺れる、白く繊細な睫毛。
その下にある金色の瞳は、まるで午後の陽だまりを閉じ込めたように、優しくて、あたたかい。
「あ、白馬くん……! こんにちは」
柔らかく微笑む彼女の声は、静寂に溶ける鈴の音のようだった。
こんなに静かな空間なのに、彼女がいるだけで、景色の彩度が上がって見える。
……いや、彼女自身がこの静けさを、より美しく塗り替えてしまうんだ。
彼女が読んでいたのは――【失われた時を求めて】の日本語訳。
(……プルースト。あの大作を、こんなにも穏やかな顔で読めるなんて)
思わず、口元が綻びそうになる。
マドレーヌを紅茶に浸すような、甘やかな過去の記憶を彼女も探しているのだろうか。
けれど、彼女が深い文学に惹かれる思慮深い人だと、今ではもう不思議には思わない。
「その本……お好きなんですか?」
「うん。実は、まだ二巻なの。だけど、文章がきれいで……読んでると、落ち着くの」
彼女の白い指が、慈しむようにページの端をそっと撫でる。
その優しい所作から、一時も目が離せない。
(……こんなふうに彼女と、同じ時間を共有する午後が来るなんて)
胸の奥で、静かに、けれど激しく何かがときめいていた。
「……良ければ、隣、いいですか?」
思い切って尋ねると、彼女はほんの少しだけ首を傾げて、「どうぞ」と隣の椅子を引いてくれる。
たったそれだけのことなのに――名探偵と謳われるボクの心臓が、情けないほど跳ねた。
彼女の隣に座り本を開きながらも、どうしても視線が横顔に吸い寄せられる。
陽光を透かす彼女の肌はどこか儚く、幻想的で……見惚れるなという方が無理な相談だ。
(……やっぱり、“天使”だ。ボクだけに見える、本物の)
そんな彼女が、すぐ隣で同じ空気を吸っている。
それだけで、世界がスローモーションのように感じられた。
頬杖をついたまま、ずっとこのまま時が止まればいいのに……。
ふと、そんな非科学的なことまで願ってしまう。
だが、視線に気づいたのか、花梨さんがこちらを向いた。
「……あっ、白馬くんも読書好きなんだね? ちょっと意外かも」
微かに照れたように笑いながら、彼女の頬が桜色に染まる。
その赤みが、どんな宝石よりも愛おしくて、瞬きをするのも惜しくなる。
……可愛らしい。
どうして、こんなに可愛いんだろう。
声も仕草も、どこまでも優しくて。
上目遣いに本を抱きしめるその姿まで、絵になるほど美しい。
「意外……でしょうか?」
「うん。なんか、白馬くんって、図書室よりも舞台の上が似合うって感じがして……探偵だし」
「……も、“静かな舞台”は嫌いではありませんよ。特に、最高の主役が隣にいる時は」
少しだけ意味を含ませた微笑を向けると、彼女はくすっと愛らしく笑ってくれた。
たったそれだけで、凍てついていた心が解けるように温かくなる。
……だけど。
そんな夢のような時間は、招かれざる客によって幕を閉じる。
「――あ。いたいた。花~梨っ♡」
扉の向こうから、聞き慣れた不遜で軽い声が響いた。
その瞬間、彼女の表情がふわりと変わった。
自然に、優しく。けれど、確かに“特別”な熱を帯びて。
「快斗……! どうしたの?」
読んでいた本のことなど忘れて、嬉しそうに駆け寄っていくその背中。
……彼を見上げる、あの蕩けるような笑顔。
その全てが、ボクの胸の奥を静かに、けれど鋭く締めつける。
(……あの笑顔は、黒羽君にだけ向けられる特権なんだな)
痛いほど、理解してしまう。
黒羽君の手が、当然の権利を主張するように花梨さんの腰に触れた。
花梨さんもまた、それを慈しみのように受け入れて……。
ふたりの
それでも。
「……でも、ボクは、諦めませんよ。花梨さん」
誰にも聞こえない声で、自分に誓うように呟く。
彼女が好きな本の話を、もっと深く掘り下げたい。
彼女の隣で、同じ速度でページをめくりたい。
難解な表現に首をかしげる彼女に、そっと導くようなヒントを渡してみたい。
……そんなささやかな独占欲だけで、今のボクは、この上なく幸福になれてしまうから。
「白馬くん。私、先に教室に戻るね」
ふいに、彼女が戻ってきた。
机に本を置き忘れたことに気づいたのだろう。
「あ、はい。お気をつけて」
「今度会ったら、おすすめの本とか教えてね。推理小説、私も好きなんだ~♪」
「っ、ええ、喜んで!」
すこし身体を寄せて、秘密を共有するように囁く彼女。
その距離感に、思考回路が白く焼き切れる。
背後では黒羽君が、相変わらずの牽制視線を突き刺してくるが、構わない。
彼女が、ボクを「読書仲間」として認識してくれた。
その事実だけで、十分な戦果だ。
(……少しでも、ボクという個人に興味を持ってくれたのかな)
花梨さんは軽く会釈をして手を振ると、黒羽君に促されるように図書室を出ていった。
去り際、彼が振り返って鋭い視線を投げつけてくる。
ボクはそれを受け流し、あえて優雅に、勝利者の笑みを浮かべてみせた。
……彼は不機嫌そうに舌打ちをして、消えていった。
まったく――余裕のない番犬だ。レディの隣に相応しいのは、野蛮な力か、それとも。
「……ふふっ」
ついこぼれた笑い声に、周囲の視線を感じたけれど、気にならなかった。
ボクの胸中には、消えることのない情熱が灯っていた。
……この気持ちは、まだ終わらせない。
彼女が誰の隣にいたとしても。
ボクの想いは、ずっと――。
おしまい☆