白月の君といつまでも

-- Spring, about 17 years old
075:レモンの彼とバターチキンカレー


「あ、あの……! これ、転がってきたんですけど、あなたのですか?」


 ぼうっとする男性のカゴには複数のレモン。
 カゴは斜めに傾いており、また一つ転がりかけていて、そこから零れ落ちたのだと推測できる。


「……、……」

「あっ、あのー……?」


 拾ったレモンを男性の前に差し出すが、男性は花梨をじっと凝視しているだけで返事をしない。
 ずいぶん背が高い男の人だな……快斗よりも高い。なんて思いながら戸惑った花梨はもう一度声をかけ、さっきより高めにレモンを掲げて差し出す。


「……はっ! あっ、す、すみません。つい目を奪われて落としてしまいました。拾ってくださりありがとうございます……。あ、あの……失礼ですがお嬢さん。あなたのお名前はなんと仰るんですか?」


 男性がようやく喋り出したと思ったら、レモンを受け取りながら妙なことを言いだした。


「え?」

「あなたのように美しい女性を見たのは初めてです。……ひょっとして天使ですか?」

「え。て、天使……? いえ、ただの人間ですけど……」


 レモンを受け取るついでに、男性は花梨の手を握ってくる。

 制服を着て学生鞄も持っているというのに、なぜ天使などと?
 ……そしてなぜ手を握ってくるのだろう。


「嘘だ。あなたは天使だ!」

「え゛」


 ――やだ、この人変……!


 握る手こそソフトタッチながら、頬をほんのりと赤く染める男性。
 ……また変な人に絡まれてしまったらしい。

 花梨は目を瞬かせながら男性を見上げる。
 彼は二十歳前後だろうか。周りの女性客たちが彼を見てキャッキャッと騒いでいるから、恐らくイケメンの部類に入ると思う。
 薄茶色の髪に色素の薄い茶色の瞳。高い鼻梁に形のよい唇。高い背に見合うしっかりした体躯。
 確かに顔も身体も整っている気はするが、それだけだ。

 普段から、いわゆるイケメンと呼ばれる降谷たちと普通に接している花梨には、イケメン耐性がついてしまったのか、目の前の彼も普通にしか見えず……。
 自分の白髪は気になるが、他人の顔の善し悪しなど花梨は気にしたことがない。

 快斗は可愛いと思うけれど……とすると、彼に似ている新一も可愛いということになるのがちょっぴり複雑ではある。
 なれど「コナンくんは可愛い……!」と、小さな新一に対しては萌えの対象なので、素直に可愛いと思えるからそこはよしとしておいた。


「よろしければ、これからお茶でもいかがですか。イギリスから持ち帰った特別な茶葉があるんです」


 花梨がコナンを思い出している間に、きゅっと少し強めに手を握られ、後ずさる。
 言葉は丁寧かつ紳士的ながら、彼は手を放してくれない。
 だが、握り方はソフトタッチのままだ。

 目はうっとりとして、頬を赤く染めながら見下ろしてくる……。


「……権堂さぁん」

「お任せください。……失礼致します。私たちこれから夕食の支度があるので、せっかくですがお断りさせて下さい」


 変に手を振り払って逆上されても怖いため、花梨は助けを呼んだ。
 花梨の声に権堂が二人の間に入り、そっと男性の手を剥がす。
 男性の手はあっという間に離れた。

 ……花梨に気付かれぬよう、権堂は男性の手首をぎゅうっと強く締め上げたのである。


「っ! ……あ、これはこれは……。申し訳ありませんでした。僕としたことが不躾な真似を……」

「見知らぬ婦女子の手に勝手に触れるなど、紳士にあるまじき行為です。自重されてください」

「申し訳ありません」

「では、私たちはこれで」


 権堂に締め上げられ、一瞬眉を顰めた男性は、胸の前に手を当て、心からの謝罪し、丁寧に頭を下げた。
 そんな彼に権堂は冷静に苦言を呈する。
 花梨が持つ残りのレモンも取り上げ、男性のカゴにそれを突っ込むとその場をあとにした。


「あっ、お嬢さん……お名前を……!」


 花梨たちの後ろで男性が何か言っていたが、よく聞き取れなかった。

 男性は、去りゆく白い髪の背中を見送りながら、自分の赤くなった手をそっと握りしめる。


(……何ということだ。あんなにも心拍数を狂わせる女性が、この日本に存在したとは……)


 それは、彼が人生で初めて経験した“計算不可能な恋”の始まりだった。


「すみません、先ほどの方、危険な感じはなかったものですから助けに入るのが遅くなりました。まさか手を握ってこられるとは思わず」

「いえいえ! 確かに悪い人ではなさそうでした」

「そういえばあの顔……最近どこかで見た気がします」

「そうなんですか?」

「ええ、どこかで……」


 権堂はすぐに思い出せない様子で「どこだったかな……」と考え込む。

 そのうちに花梨は買い物を済ませ、二人は帰宅した。
 結局あの男性が誰だったかは思い出せずじまいである。

 まあもう会うこともないだろうし、過ぎたことを気にしても仕方ない。
 たまにああいう人物に出遭ってしまう花梨は、今回も何もなかったと忘れることにした。




 ……夕食のバターチキンカレーは大成功。
 料理が苦手という権堂も花梨指導の下、ナンをこねる作業を手伝い、もっちりした美味しいナンを作ることができた。

 たっぷり八人分のカレーを作ったが、権堂は三人分をぺろり。花梨は一人分を食べたので、調理した半分が一晩で消えたことになる。


「わお! 大成功……?」

「す、すみません。花梨さんの作ったカレー、とても美味で」


 そう言う権堂の口の周りにカレーやナンの食べカスがついていて、手にはまだ千切ったナン、目の前の皿には三杯目のカレー……。ナンは五枚目だ。
 権堂の食べっぷりの良さに呆気に取られた花梨の食は中々進まない。


「ふふっ♡ 大丈夫です! たくさん食べてくれてありがとうございます♡」

「花梨さん……♡」


 花梨がウェットティッシュでそっと権堂の口元を拭ってやると、権堂はぽっと頬を赤らめ嬉しそうに微笑んだ。


『へ~、バタチキカレーか~! うまそー、オレも食いたーい!』


 就寝前になり、マンション内はセキュリティーの高さもあり、警護は不要と判断されて権堂はすでに帰宅。快斗から電話が掛かってきて、夕食時の話をしたら「オレなんか今日カップラーメンだったぜ……」と嘆く。


「ん、冷凍しておいたから、今度来たとき温めて出すね。ナンも作ったんだよー! 権堂さんこねるのが上手で!」

『本格的だなー、楽しみだぜ♡ で、他にはなんもなかったかな?』


 就寝準備が整い、自室のベッドで横になりながら花梨は、夕飯調理時の楽しかった話をしたが、“なんにもなかったかな?”なんて問われてしまった。
 恐らく快斗は、自身がそばにいない間、花梨に何があったのか全て知りたいのだろう。把握していないと気が済まない――そんな感じだろうか。

 身辺警護人がついているとはいえ、心配なのかもしれない。
 なら、安心してもらうためにも伝えておいた方がいいのか。もう忘れようと思っていたからいいのだけれど……そう思った花梨は正直に話すことにした。


「あ、んーと……。買い物してる最中に、背の高い男の人に声を掛けられたの。レモン拾っただけなのに、急に手を握られてびっくりしちゃった。お茶しませんかって誘われちゃって、でも別に――」

『え……。ご、権堂さんは何してたの? それ黙って見てたわけ?』


 “別に危険はなかったから大丈夫だよ”と付け加えようとしたところで快斗が口を挟んでくる。
 電話だと話すタイミングによっては、話途中で遮られることもあるから仕方ない。


「あ、ちゃんと助けに入ってくれたよ。その男の人、別に悪い人ではなかったみたい。すぐに引いてくれたから」


 快斗に安心してもらえるよう、花梨は説明を続けた。


『そっか……よかった。女同士だから大丈夫だと思って、声掛けてきたんかな……。やっぱオレもついて行けばよかったぜ……』

(……いや待て、女連れの美少女をナンパするなんて、よっぽど自信があるか、本気で一目惚れした奴だぞ……。絶対にロクな奴じゃねー!)


 オレがいないとすぐこうだよ!
 明日の準備さえなけりゃ一緒に帰ったっていうのに……。

 ……快斗が電話の向こうで「はあ……」と深いため息をついている。


「大丈夫だよー。なんかその人、顔真っ赤にしてて緊張してたみたいだったし、紳士的だったよ?」

『真っ赤って……花梨。相手が紳士的だったからって、ついて行くなよ?』

「行かないよっ! 快斗にだったらついて行くけど、なんで私が知らない人について行くと思うのー?」


 ――変な快斗……。


 快斗は何を心配しているのだろう……。
 花梨は小学生ではなく、高校生。見知らぬ人間について行くほど愚かではない。

 時々快斗はどこかの口うるさい誰かさんのようなことを言うな、と思う。
 その誰かさんを思い出すと、「バーロ。オメーはふわふわしてっからどこに飛んでくかわかったもんじゃねーんだよ!」なんて、こめかみに両手拳をぐりぐりさせながら説教してくる姿が浮かんで遠い目をした。

 ああ、今はコナンくんだっけ。
 小さい新ちゃんなら怖くないな、うん。
 ……物理的にこめかみには届くまい♪

 あのぐりぐりは本当に痛いから勘弁して欲しいんだよね……と、考えながら花梨は快斗の返事を待った。


『だ、だよなー! オレだけだよなっ!』

「ふふふっ。変な快斗~」

『……はあ、良かった。じゃあ明日な! おやすみ、オレの花梨ちゃん♡ 今夜も夢で逢おうなっ♡』

「うん、おやすみなさい」


 ピッ。
 通話終了ボタンをタップし、花梨は通話を終える。


「オレの花梨ちゃんか……夢でもって……。快斗って私のことすごく好きなのね……」


 ――私……夢で快斗に逢ったことないんだけど……快斗は逢ってるってことかな……?


 何となく聞き流してしまったが、やきもち焼きの彼氏はちょいちょい「オレの」を強調する。
 独占欲がかなり強いなと思いつつ、それが嫌ではない花梨は熱くなった頬に両手を当てた。


「……今までこんなに愛されたことなかったから、どうしたらいいのか困っちゃうな……」


 ――ありがと快斗、私もだいすきだよ……♡ 夢でも逢えたらいいね♡


 甘酸っぱく、くすぐったい感情に戸惑いを覚えながら、花梨は幸せな気持ちで眠りに就いた。

 ……が、その日も快斗の夢を見ることはなかった。



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