白月の君といつまでも
-- Spring, about 17 years old
003:痴漢から救ってくれた彼
◇
夏が終わり、涼しい秋風が吹く季節のことだった。
時刻は午後五時過ぎ――。
家路へと向かう人々で混み合う電車内で、今時珍しい黒い三つ編みおさげという髪型に、セーラー服姿の少女が扉付近に立ち、俯いていた。
眼鏡を掛けたその少女は言葉を発せない様子で、肩に掛けたスクールバッグを持つ手が震えている。
彼女の後ろにはスーツを着た大柄な男。
男は震える彼女の臀部に手を添え、その手を擦り付けるように左右に動かす。
いわゆる痴漢……である。
「……っ」
少女は自分よりも身体の大きな男に怯え、声を出せずにいた。
……あと一駅乗れば、降りる駅だ。
少女は早く降車駅へと着きますように――。そう願いながら必死に我慢する。
周りにいる人々は誰も気が付いていない。
自らも怖くて「やめてください」、なんて言えずに我慢するしかなかった。
(我慢するのは慣れてるから……。駅に着いたら走って……。)
幸い立ち位置は扉の目の前だ。
諦めにも似た感情で、不躾に触れてくる手をそのままに、少女は眉間に皺を寄せる。
ふと、そんなとき。
「テメー、その手を放せよ」
誰かが痴漢男の腕を取り押さえ、頭上に持ち上げた。
「えっ」
少女が振り返ると、詰襟服を着た黒髪の少年が痴漢男を睨み上げている。
「なっ、なにをするんだね!? 私はなにもしていないぞ! 無礼だ! 冤罪だ!」
「いーえ、私は見ていましたよ。彼女が電車に乗り込んだ直後、あなたは背後に陣取り痴漢行為に及んでいました。動画も撮っていますから言い逃れはできませんよ」
痴漢男が慌てふためく中、少年は痴漢男を押さえていない方の手で自分のスマホを取り出し、今し方撮ったであろう動画を再生した。
少女と少年、痴漢男の周りでは、「痴漢だって!」「うわ、最低……」「カワイソー」「動画撮られてる、ウケル」などと、乗客たちが思い思いに話しているのが聞こえる。
「知らん! 俺じゃない! オレは何もしていない! ええい、手を放せ!」
「放すかっ! 往生際がわりぃな!」
痴漢男が犯行を認めず手を振り払おうとするため、少年は手に力を込めて自分の方へと引き寄せる。
そのタイミングで電車は駅へと停車、扉が開かれた。
「助かった!」
「あっ! 待てコノヤロー!」
扉が開かれると痴漢男はありったけの力を振り絞ったのだろう、勢いよく少年側へと身体をぐっと寄せてから引き剥がす。
引き寄せた力にさらに力を加えられ、勢い余ってバランスを崩した隙に痴漢男に逃げられてしまった。
少年はすぐさま痴漢男を追い掛けプラットホームに飛び出す。
「あっ、あのっ、鞄っ……! ……行っちゃった……」
被害者である少女の足元には、少年のものであろう鞄が残されていた。
少女の降車駅はこの駅だ、ひとまず降りよう。
そう考えると同時、発車のアナウンスが流れる。
「降りなきゃ」
少女は慌てて、少年の鞄を手に電車を降りた。
待っていれば戻って来るだろうか……。手にした鞄を見下ろす。
鞄にはサッカーボールが入ったボールバッグも括り付けられていて、サッカー部かな――なんて思いつつ。
自分のために走って行った少年を、ベンチに腰掛けしばらく待つことにした。
「新ちゃんが来るまで、あと三十分くらいかな……」
東都に戻って来たのは随分と久しぶりになる。
今日は家族ぐるみで昔世話になった、幼なじみの家に挨拶に行く予定だ。
幼なじみに会うのは十年ぶり。
まだ引っ越して間もないため、買い物をしてから行くと伝えたら、荷物持ちにと幼なじみを派遣してくれた。
「助けてくれた人……、どんな人だったっけ……」
俯いていたからほとんど見えていなかった。
ベンチの前を人々が行き交っているが、少女は人と目を合わさないよう俯き少年の鞄を抱きしめる。
「……ははっ、助けてもらったのに情けない……」
目が隠れるくらい厚ぼったく長い前髪に触れて自嘲する。
そんな少女は現在中学三年生。
一昨日、受験生の大事な時期だというのに、長野県から引っ越してきたばかりだ。
昔住んでいた米花町から引っ越してからも、何度か東都に来てはいたが、来る度町の様子が少しずつ変わっているような気がして、知らない町に来たみたいに思える。
新鮮さがあり楽しいが、少々方向音痴の気がある少女には、攻略が難しそうだ。
「ワリィ……逃がしちまった」
「あ」
しばらく俯いていると、視界の中にスポーツシューズが映り込む。
そしてさっきの少年の声だと認識した少女は俯いていた顔を少し上げた。
――人と目を合わせるのは怖い。
少女はそっと窺うように目の前の少年を見上げる。
「……、ボールを蹴飛ばしてぶつけてりゃよかったぜ」
電車内での丁寧な話し方とは違う口調ながら、少年の声はさっきと変わらない。というより先ほどよりもフランクで親しみやすい気がする。
目を合わせられない少女を気にすることなく、少年は頭を掻き掻き苦笑した。
「ぼ、ボールを……?」
「けど大丈夫だ。証拠は提出してきたから、手配してくれるって。その内捕まる。で、ちょっと事情を聞かせて欲しいってことなんだけど……行けそうか?」
「は、はい……!」
「オレもついて行ってやっから」
「ぁ……はい……すみません、お手数お掛けします……」
配慮してくれたのだろうか。駅員がやって来るのが視界の隅に入り、少年は少女に近付く駅員を手で制止し駅事務室へと促した。
駅事務室で事情説明をする間、内容に齟齬の有無を確認するため少年とは離され、ついて来てくれた彼は駅事務室から出て行く。
駅員から少年に「帰っていいよ」と言っているのが聞こえ、ここでお別れなのだと少女は、閉まっていく事務室の扉を何とはなしに見ていた。
(助けてくれたのにお礼も言えなかったな……。さっさと言えばよかったのに私ってバカね……。)
事情説明自体は少年が粗方話しておいてくれたお陰か、証拠もあるため住所氏名など簡単な質問だけで済み、駅事務室を出た。
「終わったか?」
「あ……、はい」
駅事務室を出ると、少年がサッカーボールをポンポンと蹴り上げリフティングをしていたが、少女が出て来たことに気付いてやめる。
待っていてくれたとは思わなかった……。
少女は少年が待ってくれていたことに驚き目を瞬かせる。
野暮ったい前髪が重くてよくは見えないが、少年の口角が上がっていることはわかった。
「よし。じゃー、オレはここで。気を付けて帰れよ。さっきみたいな奴と遭ったら大声を出すんだぜ?」
「あっ、えと、助けていただきありがとうございました……。あの、お礼を……」
――お礼をさせてください……!
立ち去ろうとする少年に少女は深々と頭を下げる。
誰かにこんなに親切にしてもらったのはいつぶりだろう。
何かお礼をしなくては。
少女は引き留めたのだが――。
「いいっていいって! つーか、犯人捕まえられなくて悪かったな」
お礼を固辞され、さらに犯人を捕らえることができなかったことを謝られてしまった。
「いえ、そんな……。あっ、あの……お名前をお伺いしても……」
「オレはくど……ん? あっ! やべっ! もうこんな時間じゃねーか! 悪い、もう行くわ!」
少女が名前を尋ねる中、少年の視線は少女の背後、駅の時計に留まる。
その時刻にハッと息を呑んだ少年は慌ててボールをボールバッグに仕舞って「鞄サンキューな! 拾ってくれてて助かったぜ」と走って行ってしまった。
「あっ……!(新ちゃん……?)」
走り去る少年の背中に、遠い昔の幼なじみが重なる。
そしてふと気付く。
「っ、いっけない! 私も待ち合わせしてるんだった……!」
十年振りに会う幼なじみとの待ち合わせ時間は疾うに過ぎている。
駅近くのショッピングモールの前が待ち合わせ場所だが、幼なじみは自分に気が付いてくれるだろうか。
「新ちゃん驚くんだろうなあ……」
少女は日が落ちかけの空を仰いで口角を上げた。