白月の君といつまでも
-- Spring, about 16 years old
020:新しいお友達
◇
「わぁ……ビリヤード台がいっぱい……!」
「やったことがおありですか?」
「いえっ、テレビで見たくらいでプレイしたことは」
老紳士の後について、ビリヤード台がいくつも置かれた店内へと足を踏み入れる。
看板にプールバーと書かれていたから、ビリヤードを楽しむことができる大人の社交場らしい。
客の姿はなく今はがらんとしているが、どこか温かな雰囲気の店だ。
奥にはバーカウンターがあり、老紳士はカウンター内へと入って行った。
「こちらへどうぞ。ホットココアでいいですか?」
「ウイスキーだ……バーボン、ライ、スコ……あ、はいっ」
バーカウンターの奥棚には、無数の酒瓶がずらりと並んでいる。
花梨は立ったままそれらを眺めていたが、老紳士に席を勧められ返事をした。
「ではまずはこちらをどうぞ」
「ありがとうございます」
老紳士がタオルを差し出してくる。
ずぶ濡れではないが、それなりに濡れてしまったからありがたい。
受け取ったタオルはふわふわとしており、顔を埋めると良い香りがしてほっとする。
「失礼ですが、お嬢様はどちらからお越しですか? こんな遅い時間にお一人では心配で」
「えっと……、私、迷子になっちゃったみたいで……」
心配そうな老紳士の表情に、花梨は地図アプリを立ち上げて “この辺が家なんですけど……” と自宅周辺を見せた。
もちろん、入力した住所の詳細部分は消して。
「ここからだと徒歩で帰れなくはないですが、少し遠いようですね」
「そうですか……」
店はこの辺りなんですよ……と、花梨のスマホを覗き込んだ老紳士が現在地をタップする。
そこには聞いたことの無い町名が書かれていて、かなりの距離を走って来たことがわかった。
地図を確認する暇もなく追われてこんなところまで。
――無事だったからよしとしよう。
ふう……と花梨の口から小さなため息が漏れた。
「ココアを飲まれたら送って行きますよ」
「えっ!? そんな申し訳ない! 走って帰りますよ!」
少々疲れるが、走って帰れない距離ではない。
警察のお兄さん方にも体力を付けろと言われているから、走るのも悪くはないだろう。
……元々花梨はポジティブ思考の人間だ。多少の不運は気にしない性格である。
これまで色々あって辛いことが多かったが、解放された今は少しずつ元の自分を取り戻し始めているのだ。
だから一人で駆けて帰るくらいどうってことない。
「いえいえ。あなたのような可憐なお嬢様を一人で帰すわけにはいきませんから。自宅を知られたくないのであれば、近くまででも送らせてください」
「ぁっ、気を遣っていただいてすみません……」
先ほど住所を一部消したからだろうか、老紳士は花梨の警戒心を察していたらしい。
ホットココアを差し出し、優しく穏やかな声でそう言ってくれる。
花梨は頭を下げ、カップを受け取って傾けた。温かなココアが冷えた身体に染みてゆく。
「ありがとうございます。甘くておいしい……。ほっとします」
「ふふふ、それはよかった」
老紳士の態度が紳士的だからだろうか。
この人は大丈夫そうだと判断した花梨は、ココアを飲みながらここまでやって来た理由を詳しく話した。
「それは災難でしたね。まったく、初対面の婦女子に恫喝するとは……紳士の風上にも置けませんな」
“お声をお掛けしてよかったです。”
あなたが無事でよかった。
心の底からそう思ってくれているであろう老紳士の優しい表情に、花梨の心は温かくなる。
都会は冷たい人が多いなんて聞いていたが、東都に出てきてからは、人の優しさに触れることの方が多い気がする。
ただ、親切を受け取る自分の器がまだ小さくて、素直になれないのがもどかしい。
今は極度の人見知りになってしまっているが、この老紳士には不思議と人を和ませる力があった。
……この人なら信用してもいい。
花梨は直感でそう感じ、ココアを飲む自分をにこにこと見守ってくる老紳士にはにかんだ。
ココアを飲んでいる間に老紳士は自身の名前と、ビリヤードを長く嗜んでいること、マジックが得意なことなどを話してくれる。
彼の名前は【寺井黄之助】、プールバー“ブルーパロット”のオーナー。
花梨が「ビリヤードをプレイしている姿を見てみたい」と言うと、「ではブレイクだけ」とスマートにキューを操作し、白い手球を撞いた。
数字の書かれたボールが四方八方へ広がり、いくつかのボールがコーナーポケットやサイドポケットへと吸い込まれる。
「わぁっ、すごい!」
「ふふふ」
口元で手を合わせ、キラキラと瞳を輝かせる花梨に、寺井の顔が綻ぶ。
一撞きしただけで喜ばれたのは久しぶりだ。
時間があれば花梨にもビリヤードを教えたいところだが、今夜はもう遅い。
「よろしければ昼間遊びにいらしてください。お教えしますよ」
「いいんですか!?」
「ええ、もちろん」
「次に来るのが楽しみです!」
寺井に誘われ、花梨のテンションは爆上がりだ。
ビリヤードは難しそうだがやってみたい。
寺井のブレイクショットが格好良すぎて、自分でもできたらと思う。
早速来週でと約束をして、花梨はココアを飲み終えた。
「……あの、寺井さん」
「はい、なんでしょう?」
「よかったら私とお友達になってもらえませんか?」
「え? わ、私とでございますか?」
思いもよらなかったのだろう、花梨の口から出た言葉に寺井は目を丸くする。
どう見ても三回り以上年が離れている少女から、友達になってほしいと言われるとは。
「実は私、去年の秋に東都に引っ越してきて、まだ近所にお友達がいなくって……。あ、私は葵花梨て言います。高校一年生です」
……急に馴れ馴れしかっただろうか。
花梨には寺井のような高齢の男性に知り合いがいない。
母方の祖父は既に鬼籍、父方の祖父母はまだ健在らしいが会ったことはない。
……自分の祖父がこんなに優しい人なら大好きになっていただろうに。
紳士的な振る舞いの優しい寺井にもう少し甘えてみたい。
そんな気持ちが湧いて、つい「友達になんて」口にしてしまった。
――困らせちゃったかな……。
花梨は俯き縮こまる。
母が亡くなるまでは父親譲りの人懐っこさで、誰でも彼でも声を掛け、仲良くなれていた。
父親と二人で生活するようになってから、徐々にそういうことが出来なくなっていたから、自分から声を掛けるのは久しぶりだ。
その時、タオルで拭いたはずの雨で濡れた肩が冷たく、ぶるっと震えた。
「花梨さん」
「はい! だ、ダメですか?」
「……いいえ。私でよろしければお友達になりましょう。私のことは寺井と呼び捨てして頂いて結構ですよ」
花梨が顔を上げると、寺井は目を細めて優しく微笑んでいる。
寒さで身体が震えたのを怯えているとでも思ったのだろうか、スッと手を差し出し、握手を求めてきた。
「寺井さん……あっ、下の名前で呼んでも構いませんか?」
――じいさんて……ちょっと抵抗ある呼び方よね。
この人が私のおじいさんみたいな……それも悪くないけど、と。
寺井の手を握った花梨は笑顔で尋ねる。
「下の名前? え、ええ……構いませんが」
「では、黄之助さんだから……コウちゃんは……?」
「コウ……ちゃん……っ! て、照れますね……」
――女子高生にそんな呼び方されていいのでしょうか!?
美少女に上目遣いで言われてしまえば、少年の頃の甘酸っぱい気持ちが蘇り、寺井の頬が赤く染まった。
「ダメですか?」
「ダメじゃないです……」
色素の薄い
この少女は子猫のようで、人を惹き付ける不思議な魅力がある。
さすがに恋愛的な意味はないが、彼女に声を掛けた理由はその佇まいに強く惹き付けられたからに他ならない。
「ふふふ、よかった! 私、信用のおける友達は親しみを込めて“ちゃん”付けで呼ぶんです」
「そうでしたか。ふふふ、では私も花梨ちゃんとお呼びしますね」
「はいっ! よろしくお願いします!」
二人は笑顔で握手を交わした。
……時刻は既に二十三時を回り、寺井は車で花梨を自宅まで送る。
車で走行中、電話がかかって来た。
『花梨! オメー、なんで家にいねーんだよ!! 電話にも出ねーし、説教すっからな!』
電話の相手は新一だ。
なぜ留守だとわかったのか……。
「ああああ……!」
着信履歴には新一から十件の着信。
男から逃げる際に着信音をオフにしていたことを忘れていた。
いつだったか「電話に出なければ家まで行って長時間説教してやる」と言われていたというのに。
「お相手の方、ずいぶん激昂されていたようですが、どうかされたんですか?」
「……実は私、昔は東都に住んでいて、兄みたいな幼なじみがいるんです。もう、すっごく過保護ですっごくうるさくて、聞いてると眠くなっちゃうんですけど、寝るとアイアンクローとか容赦なくしてきて、寝かせてもらえなくて」
「はっはっはっ。もうこんな時間ですから心配されてるんでしょう」
「はい……いっつも心配してくれてありがたいとは思っていて、大好きなんですけど……でもやっぱりうるさくて……。もしかしたら今、家に来てるかと思うと……はあ」
「はっはっはっはっ!」
花梨の弱り顔に大笑いしつつ、寺井は自宅マンション前まで送ってくれた。
花梨はお礼を告げ、車を降りる。車はすぐに発車していった。
雨はいつの間にか止み、晴れ間が見えた。