白月の君といつまでも1

-- Spring, about 17 years old
194:女帝と神の配剤


◇




 チッ、チッ……。
 時計の針が刻む音だけが、無機質な応接室に響いている。
 松田は組んだ足の先を微かに揺らし、苛立ちを隠すようにサングラスの奥で目を細めた。


「……遅ぇな、佐藤の野郎。班長は出張だって言うし、零も諸伏も連絡つかねーし、どうなってんだよ……」


 約束の時間はとっくに過ぎている。

 松田はポケットからスマホを取り出すと、数秒だけ画面に目を落とした。
 花梨の部屋で押さえた映像――赤く染まっていく画面と、あの不快な文言。


「……チッ」


 すぐに画面を消し、再びポケットへしまう。

 ふと、窓の外を見下ろせば、いつの間にか高級車が三台、音もなく停まっていた。


(……いつの間に?)


 そう思った、次の瞬間だった。
 空調の風に乗って、部屋の空気が一変する。見えない圧が部屋を満たしていくようだった。

 廊下の向こうから近づいてくる、あの――懐かしくも、忌々しいほど高貴な白檀の香。


「……っ、この匂い……」


 松田が勢いよく立ち上がると同時、重厚なマホガニーの扉が、音もなく左右に開かれた。


「ど、どうぞ、こちらです……」


 佐藤の震えた声がして、彼の後ろから和服女性が現れる。


「っ、た、多紀婆……!!?」

「フ、ひよっこ……いや、今は、こわっぱか? 元気にやってるみたいだねぇ」


 驚いて立ち上がり、すぐさまサングラスを外して駆けてくる松田に、多紀婆――白河多紀は片手を差し出した。
 松田が彼女の手を取ると、ぐっと力いっぱい握られる。


「痛って! 相変わらず握力バケモンかよ……!」

「ふふん、お褒めいただきありがとうね、こわっぱ」

「『ひよっこ』も『こわっぱ』も変わんねえだろっ! もう一人前だっての!! ってか、なんであんたがここに……!?」

「くくっ、あたしがここにいるのが不思議そうな顔だねぇ……ちょいと東京に用があってね。さっきまで、白馬君とランチをしてたのさ♡」


 ぐいぐいと上下に手を揺らす多紀は、先ほどまでの冷たい瞳はいったいなんだったのかと思うほどに柔らかい。


「け、警視総監と……! ハッ、相変わらず顔が広いことで……」

「こわっぱともう少しラブトークをしたいところだが――あたしも暇じゃないんでね。本題に入ろうか。座んな」

「っ……」


 驚く松田から多紀の手は離れ、パンッと叩かれる。
 顎で指図され、松田は言われた通りに席に着いた。


「……で? 花梨は今どこにいるんだい?」


 松田の対面に多紀も座る。
 そして、彼女はその場にいた秘書らしき男性に目配せし、佐藤とともに部屋から下がるよう、手を一振りして追い出した。

 部屋には松田と多紀の二人きりとなった。


「……直球だな。まだなんも話してねーのにわかんのかよ」

「フン。こわっぱ、白河現当主の力を舐めるんじゃないよ」

「……あれ、マジだったのか……? その……過去が視えるとかいうやつ……」


 自分の記憶を覗かれたような感覚に、背筋をひやりとさせた松田は、恐る恐る尋ねる。


「まじまじ」


 多紀はにゅっとピースサインを作って見せつけた。


「ブハッ! 多紀婆! あんたそのギャップッ!!」

「あんたの前だけさ。誰にも言うんじゃないよ。言ったら……」


 ふっと多紀の瞳が冷たく凍りつく。
 急に冷ややかになった瞳と、親指が首の前をすーっと横切った。


「はいっ!! 黙っておきます!!」


 ぞっとした松田は自らの肩を抱き、ぶるりと震える。
 多紀がその気になれば、人ひとり消すことなど容易い。
 しかも、多紀自らが手を下す必要はなく、誰かが多紀のために動くのだ……。

 警察は犯罪を隠蔽し、多紀は無傷。
 せっかく三年前生き残ったというのに、こんなところで多紀に睨まれて死ぬなんてことがあれば、それこそ無駄死にだ。


「それにしても……本当にあの子が留学なんて言ったのかい?」

「……らしい。俺は又聞きだから直接聞いたわけじゃねぇんだけど」


(多紀婆は知らなかったってことか……。ってことは、やっぱ多紀婆が花梨を攫わせたわけじゃねぇってことだな)


 松田はテーブルに置いたサングラスを掴み、確信を得る。
 目の前の老婆は、冷徹ではあるが嘘はつかない。

 四年前。白河家からの「私的な警護」という極秘依頼に、頭を抱えた当時の上司・鬼塚が、半ばヤケクソで集めたのが自分たちだった。


『こいつら、警察学校時代は札付きの問題児でしたが……腕と勘だけは一級品ですわ』


 鬼塚のその言葉を、多紀婆は鼻で笑い飛ばしながらも、「面白いねぇ」と二つ返事で自分たちに孫の命を預けた。
 あの時、得体の知れない若造だった自分たちを面白がって信じた時と同じ――そこには、歪んではいても確かな『祖母』としての情愛が透けて見えた。


「――ああ、あの蝶ネクタイのボウヤから聞いたんだねぇ?」

「っ……そう……です」


 思考の先回りをされ、松田の肩が微かに跳ねる。やはりこの老婆には、隠し事など通用しない。


「ふぅん。じゃあ、あんたから得られる情報はもうないってことか……。あとは、あのボウヤにも視せてもらおうかねぇ」

「(……全部お見通しってわけかよ)」


 多紀は退屈そうにふぅと吐息をつくと、和服の裾を捌いて音もなく席を立った。
 用は済んだと言わんばかりの背中に、松田は焦燥感に突き動かされるように声を張り上げる。


「あの――!」

「なんだい?」

「なんかそっちだけ納得してるみてぇだけど、こっちは納得いかねぇんだ……ですけどッ!」


 慣れない敬語が混じるほどに、松田の余裕は削り取られていた。花梨の行方も、白河の意図も、何も掴めていない。


「……あとはこっちで動く。こわっぱ、あんたはここまでだよ」


 振り返った多紀の瞳に、ロビーで見せた“老婆の優しさ”は微塵もなかった。
 冷徹な鋭さを宿す視線。

 それは、一族の秩序を乱す者を排除する『当主』の眼光だった。


「っ、多紀婆!!」

「花梨がそう望んでるんだ――あたしらはそれをサポートするしかないんだよ。花梨は“留学した”んだ。いいね?」

「なんでだよ……なんでいつも花梨ばっかり……!!
……あいつ、いつも一人で背負って……!」


 ダンッ! と、やり場のない怒りが拳に乗ってテーブルを叩く。
 震える松田の拳を見つめ、多紀はどこか遠い空を見るような目で、静かに、けれど重く語りかけた。


「……神様の愛ってぇのは、ときに厳しくてね。あたしら人間には、図れないほど大きなものなのさ。あの子がそれを受け入れたんなら、そういうことなんだよ」

「そんなん納得いくかよっ!!」

「……まぁ、あたしらは人間だからねぇ……。人間ゆえに過ちを犯すわけだ。なぁ、こわっぱ?」


 多紀はふっと、自嘲気味な笑みを浮かべた。その言葉は、運命に抗おうとする松田への警告か、あるいは自分自身への諦念か。
 彼女の笑みに、松田は一瞬――“自分たちが動いても構わない”と言われた気がして、口を開く。


「っ……わかった。こっちはこっちで勝手にやらせてもらう。邪魔すんなよ!?」

「そっちこそ、こっちの領域に下手に踏み込むんじゃないよ? じゃあね」


 多紀は軽く手を振ると、一度も振り返ることなく部屋を去っていく。
 パタン、と重厚な扉が閉まる直前。松田の耳に、呪文のような呟きが滑り込んできた。


「にしても……パツ金も、優男も、太眉もみーんな出払ってるとはね……よくできたもんだ。すべては、神の御業ってわけかい。さすがは花梨だよ……」


 ふと見えたその横顔は、あまりに寂しく、そして――何かに怯えているようにも見え、松田には、自分では抗えない“何か”を知っている者の顔のように思えた。


「……?」


(どういうことだ……? 出払ってる……?)


 降谷が潜入に消え、諸伏は連絡が付かない。伊達が出張で不在。
 それが単なる偶然ではなく、『花梨を助けられる人間を、運命が意図的に遠ざけた』と言わんばかりの物言い。まるで、見えない何かが盤面を動かしているような……そんな錯覚を覚え、松田は拭い去れない不気味さを感じていた。




※【白月の君といつまでも2】に続く >>>
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