白月の君といつまでも
-- Spring, about 17 years old
001:月のない夜に
月のない夜だった。
「はぁっ、はぁっ、はあ……。あー……今日はちとまずったかなあ……」
――目当てのもんじゃなかったから、まあいいか……。
夜の街を彩る色とりどりの灯りを避けて、一人の男が暗がりの中、ビルの裏手にある非常階段を上っている。
ここまで走ってきたせいか額から流れた汗が顎まで滴り、男は白い手袋が嵌った手でそれを拭った。
汗を拭った手とは反対の手にはトランシーバー。
そこからザザッとノイズが入り、声が聞こえてくる。
『……部、中森警部! 港警察署より入電がありました! 517です! 茶木警視からキッドの追跡を断念せよと!』
『くっそー! またしても逃げられたか……! 怪盗キッドめ……!! 憶えてろよぉおおおおーっ!!』
トランシーバーから聞こえてきた声は警察官のものらしい。
警察無線を盗聴したようで、階段を駆け上がる男の口角が上がった。
「ケケケッ」
男は頭に被った白いシルクハットのツバに触れ、不敵に笑う。
もう盗聴は必要ないかな……なんてトランシーバーの電源をオフにしようとした、その時だった。
……ザザッ。
無線が終わったと思ったトランシーバーから、ノイズが――。
『……れで油断したキッドは余裕こいて逃げるってわけか……んな上手くいくのかねー』
『あっ、中森警部、無線まだ繋がってますよ!』
『な、なにぃー!? すぐにキッドが消えたビル街へ向かえ! 奴はまだ近くに潜んでいるはずだ!』
517は任務解除命令。追跡が終わったと思ったが、ブラフだったらしい。
無線を切らずにいてよかった。
「はあっ、なんだよ中森警部、諦めてねーのかよ……はあっ、はあっ」
表通りの方から複数人が駆ける靴音が聞こえ、白いスーツに白いマントという走るには相応しくない衣裳を身に纏った男が、階段を上る速度を上げる。
「くっそ、痛ぇ。目に汗が……」
右目のモノクルに垂れた汗が入り込み、瞬きする。拭っている暇はない。
まずは最上階まで辿り着くのが最優先。
このビルの屋上から飛び立てば、警察から逃げ果せる。
男は必死に階段を駆け上がる。
「はあっ、はあっ、はあっ……!(あと一階……!)」
残る階段はあと十数段。一気に十階まで駆け上がってきたからか、脚が疲れてきた。
これまでは楽々逃げられたのに、今回に限って後手に回った気がする。
誰かが警察に入れ知恵したのだろうと思うが、それを考えるのは逃げ切ってから。
……そう、男は現在、逃走中なのだ。
「よっしゃ! 屋上とーちゃくっ……と……?」
「誰っ!」
「なっ!?」
このビルの屋上は見通しが良く、障害物が少ない。
男がゴールとばかりに白いマントを躍らせ屋上へと到着すると、カチャリ。コッキング音が聞こえ、いきなり至近距離で拳銃を向けられた。
……さっきの無線で得た情報からして、警察に先回りはされていないはず。
いや、目の前の人物がたとえ警察官だとして。警棒ならまだしも、いきなり武器も持たない人間に拳銃を向けてくる警察官などいない。
(いきなり拳銃って……いったい何者だ……?)
ダラダラと大量の汗が男の額から脇から手から滲み出る。
走ってきて掻いた汗だけではない冷や汗は恐らく緊張感から。
ここまで必死に走ってきて男は疲れている。
背後は必死に上ってきた鉄製の非常階段。予備の逃走経路として選んだ見通しの良い屋上が仇となったか、逃げる場所はなく、一メートルにも満たないこの距離で発砲されたらさすがに避けられない。
というのも、さっきから大量の汗が流れ落ち、拭う暇もなく走ってきたから目に汗が入って痛く、開け辛くて仕方ない。
男は痛む目をそのままに、自らへ銃を向ける人物を眉を寄せてじっと見つめるが、その人物はビル群の灯りに照らされていて、ぼやけてしまい、よく見えなかった。
(声からして女……だよな?)
……聞こえた声は女だった気がする。
今日は厄日だ。
朝から皿を割るし、靴紐が切れるわ、鳥のフンまで踏んだ。
目標を達成しようとしたところで邪魔が入り、挙句、予定していた逃走経路が警察に潰され、予備の逃走経路であるこのビルにやって来たが、急ぐあまり汗を拭うことを忘れただけのことで今、命が狙われている。
だが幸いなことに、目の前の人物は自分を正確に認識していない様子。
こちらに敵意がないことがわかれば銃を下ろしてくれる……かもしれない。
まずは正確な状況把握をしなければ。
一刻も早く汗を拭いたい……。
動くなと言われてはいないが、勝手に動くのは不味い気がする。下手に動き、彼女を刺激して撃たれたらジ・エンドだ。
目の前の人物が女だということしかわからない男は、一か八かで尋ねてみることにした。
「何も持ってはいません。走って来たので汗を掻いてしまいました。拭っても宜しいですか?」
――ポーカーフェイスを忘れるな。
気持ち的には動揺しまくりだったが、相手に悟らせるわけにはいかない。
いついかなる時も平静を装ってみせようじゃないか。
「……どうぞ?」
「え? あ、どうも。それでは……」
男が両手を挙げて手の平、甲とゆっくりひっくり返して見せ、何もないことを確認してもらうと、女からあっさり許可が下りる。
先ほど聞いた鬼気迫った声と打って変わり、やけに可愛らしい声が届いて、何だか拍子抜けしてしまったなと額とまぶたについた汗を拭った。
「……(ふう)」
目を閉じたが気配でわかる。未だに拳銃は向けられたままだ。
さて、どうやってこの場から立ち去ろうか……。
脳内で逃走シミュレートを行う。
考えている間に、非常階段の下の方でバタバタと複数の足音が聞こえた。
「……あなた……」
「え」
それはほんの一瞬の出来事だった。
呼びかけられて男が目蓋を開くと――。
「バンッ!!」
「うわぁっ!?」
女の大きな声とともに、向けられていた銃が手首の動きで下から上へと振れ、銃口が空へと向きを変える。
撃たれたと思った男はその場で飛び跳ね、腰を抜かして床に尻餅をついた。
「な、な……!?」
――オレ、今撃たれ……っ! ……てねえな……?
どこも痛くはない。
それはそうだ、銃口から煙は上がっていない。
……ポーカーフェイスを忘れるな。
そんなこと一瞬忘れた男は、目の前で銃口に唇を近付け、自分を見下ろす女を見上げて目を大きく見開かせた。
「……ふう。あなた、もしかして怪盗……、キッド……?」
銃口に艶めく唇が近付き“ふう”と小さく息を吹きかけた女のその姿を、男は初めてはっきりと視認する。
そこに居たのは真っ白な長い髪を夜風に靡かせ、白いワンピースを纏った可憐な少女。
彼女は、無邪気な笑顔で首を傾げた。
「い、如何に、も……」
……ドクンドクン。
少女の問いに男――キッドは自身が【怪盗キッド】だと肯定したが、目を見開いたまま固まってしまった。
撃たれたと思ったからだろうか。
ドクンドクンと心臓を打つ鼓動が、やけに大きく響く。
声からして若い女だとは思っていたものの、想像以上に若くて驚いた。
中学生もしくは高校生くらいだろうか……。
細い肩紐の袖のないワンピースから見える腕は白く艶やかで、背は160センチもないだろう。胸はそこそこあるが、顔は小さく、華奢な身体つき。
風に舞う白い髪も、灯りに照らされキラキラと輝いている。
中でも特徴的なのは瞳だ。くりくりとした大きな瞳は、色素が薄いのか街の灯りに照らされ黄金色に見えて、キッドに満月を連想させた。
精巧に作られた
見た感じ警察関係者には見えない。
ただただ、可愛い。
――か、可愛いじゃねーか……! なんだこの子、天使か……!?
ゴクリ、
キッドの喉が音を立てた。
怪盗であるにもかかわらず、キッドは一瞬で心を奪われたように見入ってしまう。
「最近、有名な人だよね?」
「っ、コホンッ……私を見知り置いて下さり、ありがとうございます。お嬢さんはなぜこちらに?」
薄桃色の艶めく唇から紡がれる、鈴を転がすような声に、キッドは気を取り直して立ち上がり、ポーカーフェイスを気取った。今更遅いが。
「ふふふ。逃げて来たの」
「奇遇ですね、私もです。宜しければ、私と一緒に逃げませんか?」
楽し気に少女は笑う。
彼女が誰から、どういう理由で逃げているのかはわからないが、逃げるなら共に逃げようではないか。
キッドはシルクハットを外して、もう片方の手を背に添え、ぺこりと恭しく頭を下げた。
「せっかくのお誘いですけど、遠慮しときます」
「……おや、振られてしまいましたね。残念です……」
あっさり断られ、キッドは肩をすくめる。
思わず誘ってしまったのだが断られてしまい、思いの外、落胆が酷くて驚いた。
「あなたは、あの人たちと関係ないの……?」
「はい……?(あの人たち?)」
不意に少女が距離を詰め、細い指がキッドの頬に伸びる。
「っ……?」
「……ぁ」
突然の行動に驚いたキッドは、動くことができずに直立不動。
キッドの頬に触れた少女も、驚いたように瞳をぱちぱちと瞬かせた。
「へ……?」
「……うん、大丈夫そう。ねえ、キッドさん」
「はい?」
「ここから逃がしてあげる」
「え、逃がす……ですか?」
――あれ? この子、どっかで見たような……?
少女の指が離れ、もう少し触れていて欲しかったキッドの目が、動揺に揺れる。
……今夜はポーカーフェイスを崩されてばかりだ。
「うん、もう行っていいよ。警察には上手く言っておくから」
少女の視線がキッドの背後、非常階段に注がれる。
ドタバタと駆け上がってくる複数の靴音が、先ほどよりも大きい。屋上へと近づいているのだろう。
「それはありがたいご提案ですが、お嬢さんは? お嬢さんも逃げているのでしょう? ならばご一緒に……」
「私なら警察から逃げてるわけじゃないから大丈夫。それに、自分のことは自分でなんとかできるから」
“一緒に逃げませんか”再度誘おうとしたキッドの前で、少女は笑顔で片手を優雅に振り振り、非常階段へと向かった。
「……お嬢さん、お名前をお聞きしても……?」
――キミの名前を教えてくれ……! また逢いたい。
すれ違いざまに、キッドは少女に名を尋ねる。
だが、彼女の返事は。
「早くしなよ。私の気が変わっちゃうかもしれないよ? 今のうちだよ?」
「……」
少女は僅かに振り返って、笑顔で手をパッパッと払う仕草。キッドに早く逃げるようにと促した。
これでも巷じゃモテる方だというのに、まるで相手にされていないのだとわかったキッドは黙り込む。
――偶然の出逢いってのはこんなもんかよ……。
ちょっと凹んでしまったが、次もどこかでまた逢えたなら。
少女がどこに住んでいるかは不明ながら、足元を見れば素足にヒールサンダル。
少し靴擦れしているところを見るに、逃げて来たというのは本当のことで、走って来たのだと推測できる。
もしかしたら彼女はこの近くに住んでいるのかもしれない。
……ならばキッドではない姿で偶然を装い、声を掛けてみたい。
「……。このお礼はいつか必ず」
嫌われているとは思わないが、“怪盗キッド”に興味がないのだろうか?
名前だけでも知りたかったものの、にこにこふわふわとした少女の雰囲気から、教えてくれなさそうである。
ずっと愛らしい笑顔をキープしているというのに、ガードが固過ぎる。
ここは次回の邂逅を願って、頭を下げるに留めた。
「ふふふっ、じゃあ次に逢えたらサインでももらおうかな~。有名人のサイン、もらったことないんだ~」
「では、色紙もお持ちしましょう」
「ふふふっ、ありがと。気をつけて帰ってね」
「ええ、あなたも」
恐らく社交辞令であろう。
にこにこと「次回逢えたら」なんて仮定の話を楽しそうに話す少女に背を向け、キッドは歩き出す。
屋上の端まで行くと柵を飛び越え地上を見下ろし、丁度良い風がタイミングよく吹いて来たため、すぐさまダイブ。ハンググライダーでビルの合間を抜け、、夜の闇に消えていった。
「くろ、ば……黒羽、快斗くん……か」