白月の君といつまでも

-- Spring, about 17 years old
190:無題の悪意







 あの日……――。

 満員電車に揺られ、花梨と快斗は日が落ちてようやく、花梨の自宅マンションへと戻ってきた。
 エントランスへと入り、いつものようにコンシェルジュが「おかえりなさいませ」と声をかけてくれる。

 ……快斗は最後まで警戒を怠らなかった。
 エレベーターに乗り、花梨を部屋の玄関の中まで送り届けた。


「これ、快斗にあげる」


 玄関内で――。
 花梨は快斗が持ってくれていた手提げの紙袋を受け取ると、中から封筒だけ取り出し、快斗に戻す。


「え、ギョーザ? だってこれ松田に貰ったやつだろ?」


 ……うまそうだけど、松田に悪くね?
 快斗は紙袋の中身を見ながら、松田を少々気の毒に思った。


「うん、そうだけど……ほら、ちょっとホテルで食べ過ぎちゃって。お腹いっぱいなんだ。晩ごはんはいらないかも」

「あ、そっか。オレ、実は腹ペコ! だからうれしい! 今日は米だけ炊けばいーな!」

「ふふっ♡ 見てるだけだったもんね。今度――あ、金曜日って大阪行くんだよね!」


 “今度一緒にケーキを食べに行こうよ”……と、口にできない花梨は、話題を変える。

 ちょうど今週の金曜日は、快斗とロイヤル・エクスプレスに乗って、大阪へ行く予定だ。
 快斗と行く、初めてで最後の旅行――。

 もちろん、キッドのお仕事のついでであるし、青子も来ると言っていたから、二人きりではないが、きっと楽しい旅になるはず。

 ……そして、次の土日で五月が終わる。


「ああ、ちょっとジイちゃんに相談あっから、名残り惜しいけど、今日はこれで帰るよ。戸締りしっかりな?」

「うん、送ってくれてありがとう♡」


 快斗はこれから寺井と打ち合わせがあるらしい。
 いつもなら部屋に上がっていくところだが、今日はこれで帰るようだ。


「じゃ、ん~♡」


 快斗が唇を尖らせる。


「もぅっ……♡」


 お別れには定番の、口を窄めてキスをねだる彼。
 花梨はふっと微笑み、小さく唇を重ねてそれに応えた。


「じゃあな、花梨」


 玄関を出ていく快斗を見送ろうと、花梨はドアから顔を覗かせる。
 エレベーターが来ると、乗り込んだ彼は花梨に気づき、笑顔で手を振って帰っていった。

 ……快斗の姿が見えなくなって、花梨は部屋に入る。


「ふぅ……あと、一週間、かぁ……」


 扉を閉めた瞬間、さっきまで快斗の笑い声で満たされていたはずの空間が、耳鳴りがするほどの静寂に塗りつぶされた。
 唇に残るキスの微熱だけが、自分がまだ“幸せな女の子”であることを辛うじて繋ぎ止めている。


「……はは……なにこれ……?」


 拭っても拭っても溢れる涙は、安堵のせいか、それともこの後に訪れる“終わり”への予感のせいか。

 今日受け取ったあの写真は、盗撮されたもの。
 最後の最後で何が起こるのか……。

 花梨は、心穏やかに過ごせたらそれだけでいいのに――と、そう思った。


「……やだ、もう……」


 つぅっと、頬を熱い何かが流れて、そっと拭う。


「別に、怖くなんてないよ……?」


 ふっと口角を上げ、笑顔を作る。
 靴を脱いで、揃えて部屋に入る。

 暗い部屋に、ぱちんと照明のスイッチを入れて、まずはいつものように手洗い。
 ……そして、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、ソファに腰を下ろした。

 封筒を手に取る。指先が、なぜか少しだけ冷たく感じる。
 中身を開く前に、花梨は視線を窓の外に投げた。人影はないはずなのに、背筋にぞくりとしたものが走る。


「……なんで、こんなに寒気がするんだろう……」


 息を吐き、深呼吸をしてみる。気のせいかもしれない――そう自分に言い聞かせる。
 でも、手元の封筒が、無言で彼女をじっと見つめているような気がして、ほんの一瞬だけ心がざわついた。

 花梨は気を取り直し、封筒からメモを取り出す。
 その紙には見覚えのある名前と携帯番号が書かれていた。


 “【Ryuya H 090-XXX-XXXX】”


「……竜哉おじさん……」


 花梨の呟いた男の名は長谷部竜哉――。
 大阪にいた頃、世話になっていた伯母の元旦那の名前だ。

 ……彼は伯母をずっと虐げてきた男である。
 花梨自身も暴力を受けていた。

 花梨は母・雪音が亡くなってから、父・朔太郎と全国を転々としていたが、彼は仕事や私事に忙しく、普段から花梨に構う時間が取れなかった。
 大阪に行きついた頃は、姉である沙織を頼り、毎月の生活費を渡して花梨を預かってもらっていた。

 ところが、竜哉はその金を花梨には使わず、自分の欲求にのみ使い、働かずにギャンブル三昧の生活を送る始末。
 気に入らないことがあると、すぐに手を上げた。

 沙織も沙織で、殴られた後で優しくなだめられると、「ちょっと虫の居所が悪かったみたいやね……」なんて青痣の残る顔で笑って――何度もそんなことを繰り返していた。

 沙織は優しかったが、「ごめんな、花梨ちゃん。今日はこれだけしかあらへんねん」と、竜哉の食べ残ししか与えられず……花梨はまともな食事も摂れずに、ひもじい思いをした。
 久しぶりにやって来た朔太郎が、沙織の異変に気づいて、花梨も沙織の離婚に協力。

 「離婚する」と宣言した沙織に、竜哉が暴力を振るった。その現場を大勢に見られたことで彼は逮捕され、恐喝などの余罪もあり、塀の中へ……。


(出てきたんだ……。でも、どうして私の居場所がわかったの……?)


 沙織はシェルターに入っているから居場所はわからないはず。
 そして、花梨――自分の居場所も、そう簡単にわかるはずなどないというのに……。

 離婚に至った原因の朔太郎は既に他界している。
 その現場に居合わせ、離婚を勧めた花梨は、恐らく竜哉に恨まれているのであろう。


「……大阪にいた頃からもう、五年も経っているのに……」


 今の花梨は大阪にいた頃と見た目がかなり違う。
 あの頃は黒い髪と、骨と皮だけの痩せっぽっちだった。


「……ああ、もう……私は、推理とか憶測とか苦手なんだってば……。新ちゃん、力を貸して……」


 ……こういう時、新一が頼りになるが、彼に頼ってはいけない。
 彼は自分のことで手一杯なのだから。


「……電話するしかないよね」


 盗撮された写真が何かヒントをくれる気がして、じっと見つめる。
 このまま放っておいてはいけない――そんな直感だけは感じた。

 少しだけ震える手で番号をタップして、花梨は電話をかける。
 ツーコールでそれは繋がった。


『……誰や?』


 耳元に響く掠れたダミ声を聞いた瞬間、花梨の心臓が、石を投げ込まれた水面のように激しく波立った。

 ……大阪の、カビ臭いアパート。残飯。振り上げられた拳。

 記憶の底に沈めていたはずの、あの“痛み”が、古い傷が疼くように全身を駆け巡る。
 スマートフォンを持つ指先が、自分の意思に反してガタガタと震え出した。


「……もしもし」

『あ~、この声。花梨かぁー? ずいぶん別嬪になりよったなぁ~、ホテルで見たときはびっくりしたわぁ。髪の色が昔とちゃうから、目ぇ見るまで、始めは誰かわからんかったわ』


 ねっとりとまとわりつくような、不快な声が耳の奥に絡みつき、花梨の眉間には深い皺が寄せられる。


「ご用件は……?」

『はっ、相変わらず懐かんやっちゃな。まあええわ。近々会おかぁ~。場所は……せやな、どこがええかな? ワシ、明後日には大阪戻らなあかんねんけど。あー大阪で会うのもええな。オマエ、今度大阪行くやろ?』

「っ……どうして、私があなたに会わないといけないんですか?」


 ――どうして竜哉おじさんが、大阪行きのことを知っているの?


 大阪へ行くことは、快斗と青子くらいしか知らないはずだ。竜哉は決して頭の回る人間ではない。かつての彼は、ただ暴力と欲望のままに動く、獣のような男だったはず。
 なのに、今の彼の言葉には、まるで誰かに“台本”を渡されているかのような、薄気味悪い確信が宿っている。


(……おかしい。竜哉おじさん一人の力で、私の居場所や予定を調べられるわけがない……)


 背中を撫で上げるような、刺すような冷気。
 それは竜哉個人への恐怖ではない。彼の背後にある、もっと巨大で、もっと冷酷な“底知れない闇”が、自分をじっと覗き込んでいるような――そんな野生的な直感が、花梨の心臓を鷲掴みにした。


(……新ちゃん)


 無意識に幼馴染の顔が浮かんだ。
 推理が必要な時、いつも真っ先に浮かぶのは、あの自信に満ちた少年の顔だ。彼なら、この違和感の正体を暴いてくれる。

 彼に頼れば、きっと――。

 だが。
 花梨は、握りしめたスマホを見つめて、その思考を無理やり断ち切った。


(……だめだよ。今の新ちゃんの世界に、私はもう、いないんだ)


 彼は今、江戸川コナンとして、別の大きな敵と戦っている。自分という存在を、彼の危うい日常にこれ以上割り込ませるわけにはいかない。
 彼が守ろうとしている日常を、自分の“過去”で汚したくない。

 一拍の静寂の後、花梨の瞳から微かな光が消え、深い諦念の色が宿った。


『ん~、それはメール見たらわかるわ』

「メール?」

『PCのメールアドレス送ってな~。竜哉様からと~っておきのプレゼントやるで~♪』

「……」


 やけに明るく話す竜哉の声に、花梨は黙り込んだ。


『ほな、メール見てもらいながら話そか』


 電話は一度切れる。
 花梨は仕方なく言われた通りにノートPCのメールアドレスを送った。

 それから数分後、ピロン。
 ノートPCからメール受信の通知音が鳴り、花梨はそれを開いた。

 メールには『すぐ開いた方がええで』と書かれて、『無題』というタイトルのZIPファイルが添付されている。
 ZIPファイルを開くと、大量のショートカットが並んでいた。
 なぜかそれは、ただのデータというより――“誰かに見られている証拠”そのもののように見えた。


「……どれを開けばいいんだろう……?」


 とりあえず、一番上のファイルからクリックしてみる。ブラウザが立ち上がった。
 サイトへ飛んだようだ。

 なんだろうと画面を見ていると、真っ黒な背景のサイトが表示され、画像の読み込みが始まった。
 高解像度なのだろうか、表示がじわじわと進んでいく。



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