白月の君といつまでも

-- Spring, about 17 years old
188:空白の宝箱


「花梨は、ずっと何者かに監視されてた。……それも、かなりの回数、執拗にな」

「執拗に……?」

「ああ。鑑識の報告じゃ、写真の裏面に微かな『筆圧の痕』が検出された。……犯人の奴、この写真を下敷き代わりにして、その上に置いた別の紙に『監視日記』でも付けてやがったんだな。道理でデコボコしてんなと思ったんだよ」

「筆圧の痕……?」

「ああ。斜光線で解析したら、日付の数字が何重にも重なって浮かび上がってきた。一番古いのが数ヶ月前、そして一番新しいのが――あいつが笑っていた、あの日の日曜だ。……つまり、あいつの日常は、あの時点までずっと誰かの手のひらの上だったってわけだ」


 その数字は整然と並んでいるはずなのに、見ているとなぜか“時間が逆流する”ような錯覚を覚えた。
 まるで誰かが“日常”を標本にするように、毎日を記録し続けていたかのようだった。

 あの日、駅の喧噪と花梨の笑顔に誤魔化され、気づくのが遅くなった写真裏のデコボコ。
 コナンを送り届けたあと、静まり返った車内で改めてその感触を確かめた時、松田の指の腹に伝わってきたのは、吐き気を催すような、粘着質な執着の重みだった。
 迷わず鑑識に持って行って正解だったと、松田は苦く奥歯を噛み締める。


 “一番新しいのが――あの日の日曜だ”


 松田の言葉に、コナンの思考が激しく逆流する。


(日曜……? 待てよ、じゃあ月曜日に子どもたちに笑ってたあいつも、水曜日に『スマホの調子が悪い』って送ってきたあいつも……木曜の夜、雅美さんの死を知って電話越しに泣きじゃくっていたあの時の花梨も……!)


 すでに“監視日記”に書く必要がないほど、犯人の射程圏内に捉えられていた。
そのことに気づけなかった自分への、激しい嫌悪がコナンを襲う。


「…………」


 コナンは絶句した。
 昨日、快斗が電話で叫んでいた言葉が、最悪の形で裏づけられてしまった。


(『何に怯えて、何と戦ってたのか』……これだったのかよ、花梨……!)


 彼女が常に誰かに見られ、狙われていたのだとしたら。
 駅で彼女が「家の中も撮られていたら……」と頬を染めたあの反応も、ただの羞恥ではなく、「逃げ場のない恐怖」の裏返しだったのではないか。


「松田刑事……。あの時、花梨姉ちゃん、残りの写真は『見せられない』って、死守してたよね」


 コナンの眼鏡の奥に、鋭い、けれど悲しい光が宿る。


「……ああ。……あのバカ、自分一人で抱え込むつもりだったんだ。俺たちを……特に黒羽を、この汚ねぇ渦に巻き込みたくなくてな」


 松田は写真をポケットに収め、冷たく、そして熱い決意を瞳に込めて、主のいない部屋を見渡した。


「……花梨をこんな目に遭わせてる奴は、俺が必ず引きずり出してやる。……たとえ、どんなデカいバックがついてる相手でもな」


 松田の言葉が、がらんとしたリビングに重く沈み込む。

 その“デカいバック”が何を指しているのか。
 東京を、いや日本を影から動かす“表に名を持たない支配構造”――「白河」の二文字が、二人の頭の中に、薄く、しかし確かに浮かんでいた。

 けれど、松田はそれを言わない。
 コナンも、あえて「白河家のこと?」とは聞き返さない。

 今、ここでその名前を確定させてしまえば、警察組織という「公」の枠組みでは動けなくなる。
 松田は一人の男として。コナンは一人の探偵として。

 法や権力よりも先に、花梨という“一人の人間”を地獄から助け出す。
 その一点において、二人の視線は静かに、けれど熱く交わった。


「……松田刑事。……ボクも、やるよ」

「……ああ。お前みたいなガキを連れ回すのは本意じゃねーが……」


 松田はもう一度、コナンの頭を乱暴に撫でる。


「お前、あいつの『嘘の笑顔』に、一番悔しそうな顔してたからな……貸しにしといてやるよ、名探偵君?」

「…………っ」


 新一としてのプライドを、松田の「直感」が見事に射抜く。


「よし。……この部屋、もう一箇所だけ気になる場所がある。……コナン、お前なら気づいてるだろ?」


 松田の視線が、リビングの隅にある、花梨がよく使っていた小さなチェストへと向けられた。


「……うん。……あそこだけ、埃の積もり方が不自然だ」


 二人は、まるで長年組んできた相棒のように、同時にその場所へと歩み寄った。

 松田がチェストの三段目の引き出しを、慎重に引き抜く。
 その奥の隙間に、隠されるようにして――見覚えのある“封筒”が突っ込まれていた。


「……これだ」


 取り出されたのは、駅で奪ったものと同じ、プロの画角で撮られた四枚の写真。
 だが、そこにある“視線”は、先ほどのものより遥かに生々しく、悪意に満ちていた。

 一枚目は、先々週の日曜、蘭や園子と笑い合っている花梨の背後から、植え込み越しに狙ったもの。
 二枚目は、いつかはわからないが、恐らく最近の。学校帰り――快斗と並んで歩く、花梨の横顔。


「……っ」


 コナンは息を呑む。

 快斗を見上げる花梨の瞳は、宝石のように輝いている。
 けれど、その幸せな瞬間を、ライフルで狙うような冷酷なピントが、彼女の首筋を執拗に追っていた。

 三枚目は、夜の街角。一人で歩く花梨の、不自然なほどアップになった後頭部。
 そして四枚目――。
 それは、マンションのエントランスに入る直前。何かに気づいたのか、花梨がカメラの方を振り返り、怯えたように瞳を揺らした、その刹那の表情だった。


「……あいつ、気づいてたんだな」


 松田の声が、地を這うように低くなる。


「気づいて、怯えて……。なのに誰にも言わず、この写真を一人で抱えて、鏡の前で『笑う練習』をしてたってわけか……」


 コナンの拳が、白くなるほど握りしめられる。
 自分のすぐ隣で、彼女はこれだけの「死」を感じながら、自分たちに明るく振る舞い、ウインクをして見せていたのだ。


「……行こう、松田刑事。……花梨姉ちゃんの部屋へ」


 リビングに残された“監視の証拠”を脳裏に焼き付け、二人は最深部――彼女の「心」が眠る寝室へと足を進めた。









 リビングの調査を終え、二人は奥の寝室花梨の部屋へと足を踏み入れる。
 そこは、以前となんら変わり映えしない、いつも通りの花梨の部屋。
 ほのかに彼女の匂い――ジャスミンと杏の香りが残っていた。


「……別にこれといって変化はねーな……荒らされてるわけでもなさそうだ」


 松田が腕組みしながら首を捻る。
 コナンの視線はドレッサーの上にある“ステンドグラス風オルゴール”に吸い寄せられた。
 それは、花梨が「大事なもの入れ」と呼んでいた、宝箱。


『新ちゃん、これなーんだ!』

『……っ! それ、オレがあげた……』

『うん♡ えへへ。いつもここに入れて、大事にしてるんだよ~♡』


 高校一年生の春。いたずらっぽく笑いながら、自分の第二ボタンを掲げて見せた花梨の指先。
 そして、彼女は大事そうにそれを胸に抱きしめて、柔らかく微笑んだのだ。
 その笑顔が眩しくて、息が詰まる想いをしたのをまだ覚えている。

 思えば、あの時すでに心は彼女に囚われていた――。

 コナンは祈るような気持ちで、オルゴールの蓋を押し上げた。
 ……その瞬間。

 カラン……と、小さな歯車が噛み合う音がして、澄んだオルゴールの音色が部屋に響き渡った。


(……っ!?)


 流れてきたのは、サティの『ジムノペディ』。
 ゆっくりと、一音一音が零れ落ちるような、あまりに静かな旋律。
 かつて新一が花梨と一緒に聴いた、穏やかな曲だ。


『眠くなるな……』

『癒し系だよね~! まったりしたいときにいいよねっ♡』

『まあ、悪くねーな』

『でしょでしょっ♡』


 花梨との何気ない会話が、昨日のことのように思い出される。

 その日、彼女は、オルゴールを聴きながら眠ってしまった新一を無理に起こすことはせず、そっとブランケットを肩にかけて部屋を出て行った。前日に事件を解決して、徹夜だったことを知っていたかのように。


(……ない)


 いつもその“特等席”に収まっていたはずの、
 少しくすんだ真鍮のボタン。

 それが、どこにもない。


(花梨……お前、連れていかれたんじゃねえ。……自分から、全部捨てて、消えるつもりだったのか……!?)


 中学のボタンなんて、資産価値はない。それを盗むとは考えにくい。
 “意図的に持って行った”というのが自然だろう。


「ジムノペディか……花梨が選びそうな曲だな」

「うん……」

「オルゴールがどうかしたか? 勝手に触って壊すなよ」

「…………うん」


 新一と花梨のやり取りを松田が知るわけもなく、背後でクローゼットが開く音が聞こえる中、コナンは小さく頷いた。



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