白月の君といつまでも

-- Spring, about 17 years old
186:漆黒のドライブ







 大阪駅を出発し、約二時間。
 高速に乗った黒塗りの高級車は、花梨にとって、外界から切り離された檻と化していた。


「ええ王子様やったなぁ、健気に追いかけてきよって。……けど、おおきに! お前が選んだんはワシや♡」

「…………」


 革張りのシートの冷たい匂いが鼻につく車内で、竜哉が葉巻に火を点ける。
 花梨は口に布……猿轡さるぐつわを噛まされ、手首と足首を縛られた状態で窓の外を眺めていた。
 頬は赤く腫れ上がり、鼻血を流し、口を塞いでいる布には血が滲んでいる。


「さあ、東京までドライブや。楽しもな~、花梨ちゃん♡」


 名を呼ぶと同時に、“ゴッ!”竜哉の拳骨が、景色を見る花梨の頭を殴りつけた。


「っ!」


 その拍子に、花梨の頭が勢いよく窓ガラスに激突する。
 強化ガラスなのか、窓ガラスは割れなかった。

 すぐに髪を乱暴に、後ろへ引っ張られる。


「……ぅぅ……」

「しっかしなぁ~……」


 ごくり、と竜哉の喉が小さく鳴った。


「お前が……あの・・“白河”のご令嬢やったとはなあ……」


 竜哉が何度も髪を引いたり、頭を押さえつけたりしながら、片手で葉巻をくゆらせる。
 白い髪が数本抜けて、座席にパラパラと落ちていく。

 頭を揺らされた花梨の身体がふらついた。
 もう何度も殴られ、頭を揺らされ、吐き気がこみ上げる。どうにか堪えたものの、意識は遠のいていく。


「稀華様、泣いとったでぇ……お前がおったら、当主になれへん……てなぁ」

「…………」


(稀華ちゃん……どうして……? 私、追放されたのに……)


 意識を失いかけたそのとき。
 またしても――“バチンッ!”と花梨の頬に平手が入った。


「っ……!」

「なに寝ようとしとんねん。ワシがしゃべってるんや。ちゃんと話は最後まで聞けと昔から言うとったやろ!?」

「ぅ……」


 竜哉の怒鳴り声に、花梨は恐怖に肩を震わせる。
 そんな花梨に竜哉がそっと顔を近づけた。


「あのな、花梨。沙織の居場所、知らへんか? 知っとったら教えてほしいねん」

「……」


(沙織伯母さん……? そんなの……)


 花梨は、竜哉の元妻であり、伯母の沙織の居場所を知らなかった。
 知ってしまえば、竜哉にこうして尋ねられると思ったから、父・朔太郎とともに、知らずにおこうと決めたのだ。

 知らなければ、脅されても話すことはできない。
 沙織が自立し、自ら竜哉との問題を解決し、彼女が会いに来てくれるまで、花梨から伯母に接触するつもりはない。

 東京へと走る高速道路。
 街灯の光がスリットのように車内を交互に照らし、竜哉の、汗でぎらついた横顔を浮き上がらせる。


「……なぁ、花梨。ワシとお前の仲やろ? 正直に言えば、もっと優しゅうしたるでぇ?」


 竜哉は、自分の指先に絡みついた花梨の白い髪を、慈しむように……いや、値踏みするように弄んだ。


「お前はもう“白河のご令嬢”やなくて、ワシのもんや」


 ……稀華という女。あの氷のような瞳をした“ご令嬢”は、花梨を引き渡せば沙織の居場所を教えると言った。
 だが、竜哉は信じていない。


(あの女、ワシに花梨をぶつけさせて、最後は二人まとめて掃除するつもりやろ……。ワシはこういう勘だけは鋭いんや)


 富豪・白河の権力。その巨大な濁流に飲み込まれる前に、自分だけの“命綱”が欲しい。
 それが、元妻・沙織の居場所だ。

 稀華から情報を聞く以前に沙織の元へ行くことができれば、また昔のように暮らせる。
 あとから合流する殺し屋に引き渡す前に知ることができれば、花梨を捨てて逃げればいい。のちに花梨が死んだとしても、自分は関係ないと言い張れるのだから。

 幸い、車と運転手は刑務所で会った知り合いの伝手を使って、自分で手配した。
 金はすでに稀華から受け取っている。――即金で三千万。

 だが、あの女の用意した人間など信用できるはずもない。
 運転手は完全に金で繋がっただけの関係にしてある。
 用が済めば、後腐れなく切れるように。


(あんな女の手の内に乗る気はない。……ワシは、そういうのは分かる男や)


 今回の依頼は“花梨を指定の人物へ引き渡す”こと。生死は問わない――それが条件だった。
 もし死体で渡せば追加で七千万。成功しても失敗しても、前金は返却不要。

 美味い話ではある。
 だが、稀華は、どこか“人を金でしか測らない”冷たさを帯びていた。
 ああいう人間は、平気で人を切り捨てる。そういう匂いだけは分かる。


「沙織は、お前が朔太郎のところに逃げた後も、ずっとお前のことを気にかけとった。……お前が知らんはず、ないんや。ワシがムショに入ったあと、朔太郎が死んで、沙織と一緒に暮らしとったんやろ?」


 竜哉の指が、花梨の腫れ上がった頬を、わざとなぞる。
 猿轡さるぐつわで塞がれた口から、花梨は押し殺した悲鳴を漏らした。


「ワシに教えろや。稀華様に渡す前に、こっそり逃したってもええんやで? ……なぁ?」


 甘い誘い文句。だが、その瞳にはどす黒い独占欲と、追い詰められた獣の焦りが混ざり合っている。

 花梨は、霞む視界の中で、ただ「知らない」と首を振る力すら失いかけていた。
 伯母の居場所を竜哉が知ってしまったら。
 この男は、必ず彼女のところへ行く。


(知らなくてよかった……。沙織伯母さん、毎日殴られて、ボロボロだったもの……腎臓、一つ潰れちゃったし……お父さんは、すごい……伯母さんをちゃんと守ったんだ……)


 再び意識が遠のいてきた。


(快斗……)


 朦朧とする意識の中で、快斗の顔が浮かんでくる。

 快斗が「解決してやる」と言った時、一瞬だけ、本当にすべてを預けてしまいたいと思った。

 でも。

 今、この車内に漂うヤニの臭いと、竜哉の歪んだ執着。
 こんな汚泥の世界に、快斗を……あの輝くようなポーカーフェイスを、引きずり込むわけにはいかない。


「ほんま可愛いなぁ、花梨ちゃん。ワシの言うこと、聞く子やと思とったんやけどなぁ……しゃあない。東京に着くまで、たっぷり『思い出話』に花を咲かせよか♡」


 竜哉が、後部座席のアームレストの収納から、まるで、最初から自分の所有物だったと確認するように、一本の古いオイルライターを指先で弄ぶように引き出した。
 わざとらしく間を置いてから、カチッ、カチッと蓋を親指で弾き、何度も音を鳴らす。
 その音に合わせるように、花梨の呼吸が勝手に乱れていくのを楽しむように見ていた。

 『思い出話』とは何なのだろう……。
 酒とギャンブルに勤しみ、伯母と花梨を蹂躙した日々。

 オイルライターをカウントダウンのように弾いては鳴らし、竜哉が勝手に決めた“制限時間”までに正解を答えられなければ、それが“飛んでくる”。
 竜哉の目がカッと開いた一瞬――。

 ゴッ!!

 頭に強い衝撃を受けた花梨は、声を上げることなく意識を失った。

 ……意識が、ぷつりと途切れるその刹那――。

 花梨の脳裏に浮かんだのは、煙草の臭いでも、下卑た笑い声でもなかった。

 それは、あの日。
 学校の帰り道、ふと立ち寄った公園で、快斗が「マジックの練習につきあえよ」と差し出してきた、一本のソフトクリーム。


『ほら、花梨。あーんしろよ』

『えっ、ちょっと快斗……恥ずかしいよ……っ』


 真っ赤になって俯く花梨を、快斗がいたずらっぽく笑って覗き込む。


『いいから。これ、ただのソフトクリームじゃねーぞ? ……三、二、一……ハイッ!』


 快斗が指を鳴らした瞬間、真っ白なソフトクリームの中から、小さな、けれど本物そっくりの“砂糖菓子の青い鳥”が飛び出してきた。


『わぁっ……! すごい……!』

『幸せを運ぶ青い鳥だ。……お前にやるよ。だからさ、そんな不安そうな顔すんなって』


 大きな手で、くしゃりと頭を撫でられた。
 あの時の、甘いバニラの香りと、夕暮れの優しい風。

 「守ってやる」なんて大層な言葉じゃなくても。
 ただ隣で、彼のマジックを見て笑い合えるだけで、世界はこんなにも輝いていたんだ――。


(……快斗……)


 意識が闇に沈む直前、花梨の心に残ったのは、冷たい鉄の感触ではなく、あの時の温かな手のひらの記憶だった。

 ガクン、と花梨の首が折れ、そのまま座席に崩れ落ちる。
 猿轡さるぐつわに血を滲ませ、ぐったりと動かなくなったその姿を見下ろし、竜哉は「チッ」と短く舌打ちを漏らした。


「……おい、気絶しよってからに。早いっちゅーねん。ほんま打たれ弱い女やで、誰に似たんや」


 手に持ったオイルライターをアームレストに放り投げ、乱暴に葉巻の灰をフロアマットに落とした。
 反応がなくなった獲物ほど、彼にとってつまらないものはない。苛立ちをぶつける相手が黙り込んだことで、車内に漂うのは重苦しい沈黙と、濃密なヤニの臭いだけになった。


「……おい、もっとスピード出せんのか。いつまでこんなとこ走っとんねん」


 竜哉が前席を蹴ると、運転手はミラー越しに冷ややかな視線を向けたが、無言でアクセルを踏み込んだ。
 漆黒の車体が、さらに速度を上げて夜の闇を切り裂いていく。


「一条のあの女……三千万はええけど、結局ワシを使い走りにしてるだけやろ。……沙織さえ、沙織さえ手に入れば、あんな女に頭下げんでもええんや……」


 窓の外、猛烈なスピードで後方へと消えていく街灯の光。
 その光に照らされる竜哉の瞳には、かつて花梨や沙織を支配していた頃の、歪んだ万能感を取り戻そうとする醜い執念がぎらついている。


「起きろや、花梨……。東京に着くまでに、まだ聞きたいことは山ほどあるんや……」


 意識のない花梨の白い髪を、竜哉はなぞるように、けれど乱暴に掴み直した。
 その光景は、獲物を巣穴へと運ぶ、飢えた獣そのものだった。



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