白月の君といつまでも

-- Spring, about 17 years old
184:宿敵への託宣







 桜橋口のガード下。大型バスの重低音と、絶え間なく流れる車の走行音が、快斗の聴覚を無慈悲に支配し続ける。


「花梨っ!! どこだ、返事しろ……!!」


 喉はとうに枯れ果て、肺は焼けるように熱い。
 さっきまで、すぐそこに彼女の白い髪が揺れていたような気がした。けれど、今、快斗の目の前にあるのは、剥げかけた白い自転車マークの上を空虚に通り過ぎていく、見ず知らずの車列だけだ。


「……っ、クソ……ッ!!」


 膝をつきそうになる身体を、スーツケースの重みでどうにか支える。
 数分前まで、この中には彼女の“明日への希望”が詰まっていた。自分と一緒に笑うはずだった、付箋だらけの雑誌も。

 それが今は、冷たい鉄の塊のように重く、快斗の腕を地へと引きずり込む。


「……留学? ふざけんな……あいつ、あんなに楽しみにしてたじゃねえか……っ!」


 夜の大阪駅前。何千人もの人間が行き交う中で、自分だけが、彼女の行き先を一ミリも知らないまま取り残されている――。

 今まで、花梨から留学の「り」の字も聞いたことはなかった。
 自慢だったはずの頭脳が、今は何の役にも立たない。彼女が消えた“理由”を一つも持っていないという無力感だけが、毒のように全身を回っていく。

 論理的な予測も、鮮やかな手品も、彼女が消えた空白を埋めることはできない。ただの、恋人を失った十代の少年の叫びだけが、駅の喧騒に呑み込まれていった。


(……工藤、新一)


 ふと、脳裏に一つの名前が浮かんだ。

 花梨の口から時々漏れる、幼なじみの名前……。
 以前、ヤバかった時計台のヤマ――あとで調べたら、高校生探偵の工藤新一が関わっていたらしい。

 “探偵”はいけ好かない。
 そんな奴が花梨と幼なじみだとは思わず、嫉妬に駆られ、彼女のスマホを覗き見た時に網膜に焼き付いた、十一桁の数字。

 本来なら、正体も知らぬライバルに頭を下げるなど、怪盗キッドのプライドが許さない。
 けれど、今の快斗にそんな“仮面”を維持する余裕は一欠片も残っていなかった。


「……出ろ。頼むから……出てくれ……!!」


 震える指で画面を叩く。
 深夜の静寂を切り裂く、規則的なコール音。

 番号は合っているはずだ。

 快斗は、祈るようにスマホを耳に押し当てた。

 三回。四回。
 永遠にも思える時間の後――。

 プッ。

 接続音が鳴り、向こう側で、静かな、だが鋭い気配が動く。


「……工藤……新一……か……?」


 快斗の声は、自分でも驚くほど掠れていた。
 電話の向こうの主は、すぐには答えない。


(この声……黒羽か……? なんでオレの番号を……)


 そんな困惑と警戒が、電波越しに伝わってくる。


「……花梨が」

『(花梨……?)』

「花梨が消えた。……なあ、工藤。お前、何か知らないか? あいつが……何に怯えて、何と戦ってたのか……!」


 一瞬の沈黙。
 カチカチカチ、と何か機械を操作する音がかすかに聞こえた直後――。


『花梨がどうしたって!?』


 鼓膜を突き刺したのは、紛れもなく自分の、けれど自分ではない男の、激昂した叫びだった。
 鏡合わせの自分が、あんなにも無様に、魂を削りながら泣いている。それだけで、大阪で起きた事態の異常さが新一の背筋を凍らせた。


「っ!?」


 快斗は息を呑み、思わずスマホを引き離した。
 自分と“まったく同じ声”。
 鏡の向こうの自分が、それ以上に必死な形相で叫んでいるかのような錯覚。


「……消えたんだよ、大阪駅で。……オレ、何も知らねえんだ。留学なんて嘘だってこと以外……何一つ!!」


 快斗の叫びが、夜の高架下に虚しく反響した。


『は……? 留、学だって……? そんなわけ……』


 電話の向こうで、動揺した新一の声が震えている。
 彼も……何も知らないのだ。


「…………はは。なんだ……お前も知らねえのかよ……」


 花梨が、新一にも何も伝えていないことがわかり、快斗の瞳から涙が滲む。


『おい、黒羽! もっと、詳しく話せ! オレが捜してやる!! あいつのことならオレのほうが――』

「…………お前が知らないなら、用はない」

『おいっ! くろ――』


 ピッ。
 快斗は新一が何か話そうとしている途中で通話を切った。


「……諸伏さんならもしかして……」


 今度は諸伏にコールしてみるが、電源を切っているのか、通じなかった。
 花梨の“お兄ちゃん”たちの連絡先は、諸伏しか知らない。


「……なんでだよ……諸伏さん……。花梨がピンチかも知れねえってのに……」


 快斗の指が、自然と東雲セキュリティの代表番号を検索し、コールした。


『お電話ありがとうございます。こちら東雲セキュリティです。本日の営業は終了しました。明日またおかけ直しください』


 営業時間が終わっているため自動音声が流れ、快斗は通話を切り、スマホを握りしめる。


「クソッ……! どいつもこいつも……!!」


 高架下を吹き抜ける冷たい風が、快斗の髪を揺らした。









 一方で、快斗の緊急通話を受けた新一は……。

 彼は今日の昼間、阿笠博士に用があり、ついでに自宅に戻っていた。

 深夜、月明かりだけが差し込む工藤邸の書斎。
 デスクの上に置かれた、二台のスマホ。

 一つは“江戸川コナン”として、蘭や少年探偵団と繋がる日常の端末。
 そしてもう一つは、正体を隠した“工藤新一”が、限られた信頼できる者とだけ通じ合うための、秘匿性の高い端末。

 静寂を切り裂き、震え出したのは後者だった。


「……っ!?」


 新一は、息を呑んでその画面を凝視した。
 相手は非通知……間違い電話かもしれないが、この番号を、今この瞬間に、これほど切実に叩いてくる相手。

 ひとまず出てみるか――と、通話ボタンを押し、耳に当てる。
 聞こえてきたのは、今週の月曜――花梨が額にキスをして、別れを告げたあの夜の記憶を呼び起こすような冷たい風の音……。


『……工藤……新一……か……?』


 スピーカーから漏れる、自分と瓜二つの声。
 けれどその響きは、不敵な笑みを湛えた宿敵ライバルのものではない。

 誇りを捨て、プライドを血に染め、ただ一人の少女のために地獄から這い上がってきた一人の男の、絶望の訴えだった。

 快斗の話を聞く新一の手は、自然と蝶ネクタイ型変声機に伸びた――。











 ツーツー……。

 快斗の声が途切れ、無機質な切断音が響く中、新一(コナン)はスマホを握りしめたまま、凍りついたように動けずにいた。


(……留学……? 黒羽、お前今、なんて言った……?)


 花梨が大阪で消えた。それも、「留学する」という嘘をついて。

 脳裏に鮮烈に蘇るのは、数日前のあの駅のホーム。
 額に触れた震える指先。潤んだ瞳。そして、振り向きざまに小さく振られた手。


『バイバイ、新ちゃん。元気でね』


 あの時、彼女は「留学」なんて一言も言わなかった。
 ただ、この世の終わりを見つめるような、透き通った瞳で別れを告げたんだ。


(……そうか。あいつ、オレには『留学』なんて嘘すらつけなかったのか。……それとも、嘘をつく余裕もねえほど追い詰められてたのか……!?)


 昨日、電話した時、「何かあったら頼れ」と言った自分の言葉が、呪いのように耳の奥でリフレインする。

 黒羽よりも役に立ってやるとはっきり言った。
 なのに、花梨は結局、自分に何も頼らずに闇の中へ消えてしまった。


「……何が名探偵だ……。一番近くにいたアイツのSOSすら、見抜けてねーじゃねーか……!!」


 新一は拳を机に叩きつける。

 花梨が快斗にすら何も言わず、新一にも「またね」はないと察しながら去った理由。


「……巻き込みたくなかったのかよ、花梨」


 口にしてみて、答えなんて聞かなくても、分かっていた。
 ……一年半そばにいたんだ。あいつの考えくらい、分かるに決まってる。


「……黒羽。お前が絶望して動けねーなら、オレが動く」


 新一の瞳から、戸惑いが消える。


「『まるっと解決してやる』って言ったんだ。……嘘つきのまま、終わらせるわけにはいかねーんだよ」


 新一は阿笠博士を叩き起こすべく、スマホをタップした。

 大阪で何が起きたのか。東雲セキュリティの沈黙は何を隠しているのか。
 そして、花梨を連れ去った“何か”の正体――。


「……黒羽の野郎、あんな声出しやがって……人の話は最後まで聞けってんだ……」


 電話越しに聞いた、あの自信家の、壊れそうなほど掠れた声。
 あいつが「何も知らない」と泣いているなら、自分が「知る」しかない。


「待ってろよ、花梨。……お前がつけなかった嘘も、抱え込んだ絶望も……全部、オレが暴き出してやるからな」


 ……東の名探偵が、かつてないほどの静かな狂気を孕んだ瞳で、反撃の準備を始めた。
 それは正義感というより、幼なじみを奪われた男の剥き出しの執念だった。



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