白月の君といつまでも

-- Spring, about 17 years old
179:盾を捨てた日


 水曜日――。
 花梨は、権堂ではない警護人とともに、警備会社【東雲セキュリティ】を訪れていた。


「えっ!? け、契約解除ですか!? い、今担当者が……あ、伊達も権堂も出張しておりまして……!」


 窓口となった、眼鏡を掛けた男性事務員の声が応接室に響く。
 応接テーブルには、【佐藤和人かずひと】と書かれた名刺が置かれている(佐藤は降谷たちの同期で、警察学校卒業後、民間へ転身。東雲セキュリティに在籍している)。

 花梨の後ろに立っていた、今日の担当者――【伊藤りょう】も目を丸くしていた。


「実は……和解というか……相手から、もう狙わないって連絡がきたんです。ほら、契約満了日って、6月11日だったじゃないですか。ちょっと前倒しなんですけど、あちらの望む通り、正式決定されたそうなので、私を狙う必要がなくなったそうです。……だから、もう安全になりました!」

「で、ですが、ご契約者の降谷様の承諾がない限り解除は……」


 事務員は腕組みし、難しい顔でうなる。

 花梨の主担当である伊達と権堂は、急に決まった要人警護で遠方に出張中だ。戻りは三日後――。

 契約者本人でない限り、解除はできない。

 警護対象者がどうしても嫌だというなら話は別だが、伊達も権堂も花梨とはしっかり交流があり、仲の良い雰囲気で、今日担当している伊藤とも、親しそうに話していたから、それはないだろう。


「零お兄ちゃ……降谷さんはちょっと今、忙しくしてて……連絡が取れないんです。なので、警護対象である私が大丈夫ならいいかなって、思ったんですけど……」


 降谷とは前回会った以降、連絡が取れなくなっている。
 詳しくは知らないが、恐らく潜入捜査中なのだろうと諸伏から聞いた。

 花梨はそっと上目遣いで、向かいの佐藤を見つめる。


「えぇー……でも、です、ね……(ど、どうしたら……)」


 神秘的な金色の瞳に見つめられ、佐藤の頬がほんのり赤く染まり、語尾が弱くなる。
 警護対象者の花梨と顔を合わせたのは初めてだが、彼女が契約者の降谷と、伊達の元々の知り合い――かつ、社長の大切なお客様だということは承知済み。
 実際に会ってみると、彼女が狙われるのも仕方ないと、納得してしまうほどに美しかった。

 黙っていれば、美術館に飾られていてもおかしくないほどの神々しさ。声も柔らかく澄んでいて、生きて動いているのが不思議に思えるほどで。

 佐藤は真剣に訴えてくる花梨の瞳に釘付けだ。


「ダメですか? すでに安全なのに、お兄ちゃんたちに無駄にお金を払わせるのが申し訳ないなって思ってしまって……」


 ――その瞬間、佐藤の中で何かが音を立てて崩れた。


「ぐっ♡ ……か、かわっ……こほんっ。葵さんはお兄さん想いなんですね……」


 長い睫毛を伏せて申し訳なさそうにする彼女の姿は、あまりにも無垢で。社会人としての理性が、その可憐な一撃の前にあっけなく霧散していく。


(いけない、いけない! 女子高校生に見惚れてしまったなんて社会人にあるまじき行為だ……!)


 東雲セキュリティでは、特殊警護を担当することが多く、警察と連携することもある。海外VIPなどで美しい女性もいないわけではないが、そのほとんどが、人を寄せ付けないオーラを放つ強さを持った人物ばかり。

 花梨のような、美しいのにふんわりとした可憐な女性は珍しい。
 つい、見惚れてしまうのは仕方ないというもの……。


「こちらの会社の損失にはなってしまうかもしれませんけど、浮いたお金は、お兄ちゃんたちが自分のために使ってくれたらなって思うんです」

「……そうですか。ですが、やはりご契約者でないと、こちらとしても信用に関わりますので申し訳ありませんが……」


 警護費用は確か――降谷たち四人で支払っているのだと聞いた。
 社長の大切なお客様だからと割引もしているが、東雲セキュリティの警護費用は決して安くはない。

 血の繋がらない兄たちを気遣う思いやりに感心はするが、だが、それとこれとは別の話だ。
 佐藤はテーブルに手をつき頭を下げる。

 だが、花梨は引き下がらなかった。


「でも……」

「でも……? あ……」


 ふと、花梨の手が、佐藤の手に触れる。
 なぜ急に手に触れて――と、佐藤がどぎまぎしていると、花梨が口を開いた。


「――伊達さんも、権堂さんも、社長さんも……連絡、取れませんよね……?」

「っ……ど、どうしてそれを……?」

「山奥の……電波の届かないところ……? 私、申し訳ないんですが、監視されるの、もう嫌なんです」

「葵さん……」


 なぜ、彼女が、伊達と権堂が僻地にいることを知っているのだろう……。

 佐藤は疑問に思いつつも、続く花梨の言葉に眉を下げる。


「あ、権堂さんも、伊達さんも、伊藤さんも、ある程度距離を保ってくださって、とてもありがたいとは思ってるんですけど、もう大丈夫なのに……その……ストレスを感じてしまっていて……ちょっと、限界、かなって」


 花梨は佐藤から手を離し、自身を抱きしめるようにして、身体を小さく震わせた。
 佐藤の視点で見た彼女は、精神的に参っているように映っている。


「っ……そ、そうですよね……! 常に一緒にいますからね、それはそう感じても仕方ないですよ!」

「ええ、特に平日は、ほとんど何も起きていませんでしたし……」

「あ、ああ~。確かに報告書にはそのように書かれていましたね……!」


 テーブルの端に置かれた花梨の業務ファイルをめくり、佐藤は内容を確認する。
 葵花梨については、一般の民間人ということもあり、土日は要警戒だが、平日は彼氏である黒羽快斗がそばにいるということもあってか、ただの監視状態になることが多かった。


「なので……もう、やめたいなって……」


 花梨は愁いを帯びた瞳で小さく息を吐く。
 その様子に、ずっと後ろで控えていた伊藤が口を挟んだ。


「葵さん……そんなにお辛いですか? そんな風には見えなかったんですが……」

「…………ふふっ。そう見えてたなら、よかったです」


 伊藤の鋭い指摘を受け、ちらっとだけ目を合わせる花梨。
 すぐに目を逸らして、再び目を伏せた。


「あ……すみません……。我々はあなたが安全であることが第一なので、できれば契約満了まで、職務を全うさせていただけたらと思ってます」


 伊藤は真っ直ぐな男である。
 花梨が本当に安全なのか、図りかねていた。

 契約者の降谷は現役警察官。
 そして、伊達は元警察官。

 社長の東雲警吾は、警察学校の教官・鬼塚八蔵の後輩で、今回花梨の警護を自ら買って出たという話だ。

 本来、警護は対象者のそばで守るもの。
 なのに、彼女に関しては、彼女のプライベートを優先させることが第一で、守りも完璧にこなせという無茶振り。

 幸い土日以外、彼女が危険な目に遭うことは少なかったが、誰も彼もが一人の少女を過保護なまでに気遣っている。

 そんな彼女が契約解除など、勝手にさせてしまってはまずいのではなかろうか……。


「……ダメ……ですか?」

「うぐっ……♡」


 伊藤も花梨から上目遣い攻撃を受け、言葉に詰まった。


「私、自由になりたい……です。監視はもういや」


 細く白い指が、伊藤の袖をちょんと引く。


(監視が嫌なのは本音。でも、お兄ちゃんたちをこれ以上巻き込みたくないのも本音)


 潤んだ瞳が、射抜くように伊藤を見つめる。
 それは純粋な懇願のはずなのに、彼にはそれが、抗うことを許さない絶対的な「何か」を孕んでいるように感じられた。


「っっ~~……け、契約解除……し、しましょう……!」

「ちょ、伊藤くん!? なにを勝手に――」

「佐藤さん! 俺も責任取りますから、一緒に責任取ってください! お願いします!」


 突然伊藤が床に膝をつき、頭を下げる。彼が味方についたことがわかった花梨も隣でこうべを垂れた。


「えぇー……し、しかし、社長が戻られたら、我々はクビどころか、あの拳骨(あるいはSP仕込みの制裁)が飛んでくる……」

「大丈夫。東雲さんには、私がちゃんとお話しします。……皆さんは、私のわがままを聞いてくれた優しいお兄さんたちだって」

「っ…………うーん……」


 手を組み、祈るように懸命に頭を下げる花梨。
 佐藤は何度か顔を歪ませ、腕を組んだまま天井を見上げる。

 社長が怖いのもあるが、よくよく考えたら、契約者があの降谷だ。
 しかも、伊達も一枚噛んでいる。

 彼らと同期だった佐藤には、二人の危うさがよくわかるのだ。
 あとで無断契約解除を知った二人はどう出るのだろう……。


(あの降谷や伊達を敵に回す恐怖と、目の前の可憐な少女の涙……天秤にかけるまでもない。……いや、本当は死ぬほど恐ろしいが――)


 想像して勝手に身体がぶるりと震えた。


「零お兄ちゃんにもちゃんと説明します! だからお願いします、佐藤さん!」


 必死にすがるその手は、微かに震えていた。それが「自由」への渇望なのか、あるいは守ってくれた人たちを裏切る罪悪感ゆえなのか、佐藤には知る由もなかった。


「っ、こ、困ったなぁ……。でも……葵さんが嫌だって言うなら仕方ありませんね……」


 花梨の口添えがあれば、命はなんとか助かるはず――。
 彼女の必死のお願いに、佐藤もついには折れて、身辺警護契約は解除された。

 カチャン、とハンコが書類に押される。その音が、花梨には自分を繋ぎ止めていた最後の鎖が千切れた音のように聞こえた。

 ……だから、今の花梨には警護人はついていない。
 彼女を影から見守る盾は、もうどこにも存在しなかった。

 広がるのは、どこまでも透明で、恐ろしいほどの自由。彼女はただ独り、光の届かない場所へと足を踏み出した。



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