白月の君といつまでも1

-- Spring, about 17 years old
174:シトリンの涙


◇




「かーりん……?」


 フィリップの個室の扉をそっと開き、快斗は中を覗く。
 すると、部屋の中ではベッドの上で花梨が上体を起こし、外を見ていた。

 終着駅の大阪まではあとわずか。
 遠くには街の明かりがきらきらと煌めいている。


「あ……快斗。来てくれたの?」

「当たり前だろ? オレの姫を放っておくわけねー。もう、起きていいのか?」

「うん、もう平気……」


 快斗は後ろ手で個室の鍵を閉め、花梨に近づく。


「首に痕がついてる」

「ん……どうしよう……。青子ちゃん、心配するよね……?」


 ベッドに座り、快斗は持ってきたメイク道具を取り出した。
 花梨が顎を上げると、首元にくっきりと赤紫色の圧迫痕が残っている。これは時間が経てば痣になるだろう。
 痛々しいその痕に、快斗の眉が一瞬顰められた。


「……痛みは? なんで青子の心配してんだよ……オメーの心配しろよ」


 快斗は口をへの字にして花梨の肌に合うように、ファンデーションの色を調合していく。


「少しだけ……あれ? 快斗、怒ってる……?」

「……花梨てさ、いっつも人のことばっかなのな……痛かったら言えよ?」

「そうかな……? いたっ……」

「っ、ちょっと痛くても我慢してくれ」

「ん。我慢するね」


 色の調合を終えて、花梨の首にファンデーションをのせていく。
 すぐに花梨は痛がったが、快斗は申し訳なく思いつつ、作業を続けた。


(ごめんな、花梨。痛いよな……。すぐ終わるから……)


 快斗は今、怒っている。
 ……花梨にではなく、自分に対して。

 花梨を自分の事情に巻き込まないと決めて、安全な場所にいてもらったはずだったのに。
 あんな、最悪なことが起こってしまった。


「……肝が冷えた。お前の呼吸が止まって、オレも死ぬかと思った」


(オレはバカだ。花梨をあんな形で巻き込むなんて……)


 列車にいたあの男は、花梨を目撃してしまった。

 もし、あの男が生きていたら、たまたま乗り合わせたフィリップ王子の知り合いだと思っていてくれればいいが、キッドと花梨が親密な関係だと気づかれたら?

 あの時の自分は、冷静さを欠いていたと思う。
 自分のせいで今後、花梨があいつらにまで狙われでもしたら……。

 もし、そのせいで花梨が命を落としでもしたら――?


(オレは生きていけない……いや、生きてちゃだめだろ……)


 花梨の首にメイクを施し(魔法をかけ)終え、快斗は俯く。


(……ごめんな。こんな魔法、使いたくなかった。お前の肌を汚す傷じゃなく、世界一の宝石で飾り立ててやりたかったのに……)


 震える指先を隠すように、彼は深く、深く息を吐き出した。


「快斗……?」

「……後ろは大丈夫か? 髪、上げられる?」

「ん(後ろ……?)」


 花梨は不思議に思いながら、髪を束ねて頭上に上げると、身体(からだ)を捻って快斗に背を向けた。
 白いうなじがあらわになり、一か所だけ残る赤い印に、快斗の険しい目がわずかに緩む。

 ……赤い印は自分が付けた所有印。
 このうなじを見ることができるのは、自分だけという独占欲。

 でも、これはいつか消えてしまうもの。
 だから……。


「花梨、そのままちょっと、上向いててくれるか?」

「え? あ、うん」


 花梨に上を向くようにお願いし、快斗はサッとポケットからあるものを取り出した。


「なんであそこで出てきたんだよ……。オレなら大丈夫だったのに」

「ごめんなさい……。あのときは、私。無我夢中で……」


 チャリ……小さな金属音がして、首に何かを嵌められた感覚。
 なんだろうと花梨は目を瞬かせる。


「……オレを助けようとするな」

「っ……」


 快斗は花梨を抱きしめる。
 突然後ろから抱きしめられた花梨は息を呑んだ。


「オレの事情に巻き込まれようとしないでくれ」

「っ、そんなこと言われても……。快斗に危険が迫ってたら助けるに決まって――」

「っ、お願いだからっ! 花梨は安全な場所にいてくれよっ!!!」


 快斗の顎が花梨の肩に埋まり、悲痛な叫びが部屋に響く。


「快斗……」

「……この列車に乗ろうって誘ったのはオレだ。お前と離れたくなくて、誘った。けど、こんなことが起こるなんて予測してない。花梨は安全な場所にいて、オレが仕事を終えたら、ただ笑って迎えてくれるだけでよかったんだ」

「……」

「ごめん。ごめんな、花梨……。お前が生きててくれてよかった……」


 花梨を抱きしめる快斗は震えて、細い肩に熱い雫が落ちた。


「快斗……私なら、大丈夫だよ。今はまだ死なないよ……?」

「今は――なんっ、『今は』ってなんだよ……! ずっとだろ、ずっと生きてろよぉ!!」


 ぎゅぅうううう……。
 快斗の腕に力が込められ、壊れ物を扱うような慎重さと、二度と離さないという執念が混ざり合った強さで抱きしめられる。


「かい、と……」

「オレが……! 絶対、守ってやるから……なんかあったら相談しろよっ!! なんでも解決してやるからさぁ!!」

「泣かないで、快斗。だいじょうぶ、だいじょうぶ! 大丈夫だよ……私、そんなに弱くないもの……」


 花梨は手を下ろして肩に埋まった快斗の髪を撫でた。

 自分を失うことに恐怖を覚え、震えながら泣く彼が堪らなく愛おしい。
 同時に、そんな彼と、もうすぐお別れしなくてはならない事実が辛くて、胸が苦しい。


(けれど、それはもう仕方のないことだから……)


 ……せめてもう少しだけ、快斗の愛情を感じていたい。
 別れの言葉は何度も口にしようとして、できなかった。

 今も、まだ言えない。

 言えない花梨は、柔らかく微笑んで快斗を宥めた。

 しばらくして……。


「っ……それ、本当は大阪に着いてから渡そうと思ってたけど……今、渡しとく」

「それ……? あ。ネックレス……? きれい……」


 部屋の鏡を見ると、花梨の首に細いチェーンのネックレスがかかっていた。
 小さく細長い長方形のシルバープレートが中央に控えめに輝くシンプルなデザイン。サギソウが浮き彫りされたもので、右下の端に透明感のある淡い黄色のシトリンが一粒埋め込まれている。


「……宝石は、花梨の瞳の色と同じやつ」

「そうなんだ……?」


 鏡に映ったネックレスのトップが、花梨が動くたびにきらきらと小さく輝く。
 花梨はおしゃれで可愛いなと思った。


「今日はさ、記念日なんだよ」

「記念日?」

「……やっぱ、花梨はそういうの気にしねーのな」

「そういうのって……どういうの?」

「今日は、オレたちが付き合い始めて一か月経った記念日だよ」

「あ」


 快斗に言われて初めて気づく。
 花梨の表情が一瞬曇った。


「……うん。別に、いいんだ。花梨はそういうの知らないって思ってたし。オレも付き合うまで気にしたことなかった」


 照れ隠しに鼻の頭をかきながら、快斗はどこか誇らしげに笑った。
 一方の花梨は、申し訳なさに小さく肩をすぼめる。


「ご、ごめんなさい……記念日とか、お祝いすることって、あまりなかったから、よく、わかんなくて……あ、お誕生日ならわかるんだけどね」

「誕生日?」

「うん、お誕生日はおいしいものがお腹いっぱい食べられるよね♪ チートデーだって思ってた」


 快斗は呆れたように笑った。


「はは、なんだよそれ……」

「あ。んと……えへへ。私、昔はご飯、あんまりもらえなくて。でもお誕生日だけは、たくさん食べられたの。伯母さんの作る、肉じゃがおいしかったなぁ♪ ケーキはなかったけど、おかわりしても怒られなかったから、うれしかったんだ。お肉っておいしいよね!」


 花梨の言葉を聞き、快斗の笑顔は徐々に消えていった。
 パフを握る手に力が入り、白くなるほどだった。

 屈託のない笑顔で語られる、あまりに過酷な過去。
 花梨にとっては「普通」だったその光景が、快斗の胸をナイフのように切り裂く。

 襲ったあの男への怒り、そして彼女を救えなかった自分への不甲斐なさが、熱い塊となって喉を突き上げた。


「……っ、これからは! オレが、オレが全部祝ってやるからなっ!! 一生の誕生日の分、毎日肉だってケーキだって、腹いっぱい食わせてやるっ……!!」


 叫ぶように告げ、快斗は再び彼女を力一杯抱きしめた。

 あまりに純粋な笑顔。それが、快斗にはどんな凶器よりも深く突き刺さった。
 彼女が「当たり前」として受け入れていた孤独と飢え。
 それを救えなかった過去の自分と、今も彼女を危うい場所に立たせている現状への、制御不能な怒りが沸き上がる。

 その体温の熱さに、花梨は贈られたネックレスにそっと指を這わせる。
 快斗の情熱的な誓いを聞けば聞くほど、胸の奥に沈めた「さよなら」という言葉が、鋭い刃のように自分の喉を焼き切ろうとしていた。


「ふふっ、大丈夫。今は食べられてるよ?」

「あ……そっか。そう、だよな。けどお祝いはオレがしてやるからな!!」

「……ありがとう♡ 快斗は優しいね。その気持ちだけでうれしいよ」


 頭上から降り注ぐ声に、花梨は穏やかな顔で見上げる。
 眉を寄せた快斗と目が合った。

 東京に戻って来てからは、多少トラブルに巻き込まれることもあったが、すっかり穏やかな日々。
 おいしいお肉も、ケーキもたくさん食べられた。
 お祝いだって、新一や降谷たちにしてもらっている。

 最期もこうして、快斗が祝ってくれた。
 今まで祝い事など、縁遠いことだと思っていたのに、なんて幸福なのだろう。


(私って、幸せ者だよね……)


 でも――。


(……ごめんね、快斗。あなたのその優しさが、今の私には一番痛い……かな)


 堪えきれず、花梨の瞳から涙が静かに零れ落ちる。


「花梨? なに? なんで泣いて……」


 快斗の目が見開かれ、慌てて顔を覗き込むが、花梨は首を横に振るのが精一杯だった。


「……っ、ううん。うれしくて。本当にありがとう、快斗……」


 言い終えたあと、花梨はそれ以上何も続けなかった。
 ただ、首元のシトリンにそっと指を触れたまま、視線を落とす。
 部屋の中に、言葉だけが静かに残る。


「そっか……泣くほど嬉しかったんか♡ よかった~! バイトしたかいがあったぜ!!」

「バイト?」

「あ、ハハハ……実は――今週さ、ずっと一緒に帰れなかったじゃん?」


 快斗が気まずそうに白状した。
 放課後、いつもなら隣にいたはずの彼がいなかった時間の理由。


「うん、寂しかった」

「ぐぅ……っ、ごめんなぁっ!! その間オレ、バイトしてたんだよ」


 素直な花梨の言葉に快斗の胸がぎゅっと鷲掴まれ、頬ずりをする。
 この子猫は構ってやらないと、寂しさで死んでしまいそうだと思った。


「……そうだったの……」

「……その宝石はさ、シトリン……太陽の石だよ」


 鏡の中で、花梨の細い首に収まった一粒の黄色。
 それは、世界中の誰からも奪われない、快斗が自分の汗と時間で手に入れた花梨を照らす「光」だ。


「クリスタル・マザーには遠く及ばないけどさ……。これが、オレの気持ち。宝石の価値じゃねー、オレが花梨のために必死こいて稼いだ時間の証だ。……お前のその、陽だまりみたいな瞳を、一生守り抜くって誓いの代わりだよ」


 誇らしげに語る彼の瞳は、どんなビッグジュエルよりも眩しく輝いている。
 その光があまりに眩しすぎて、花梨の瞳からは堰を切ったように涙が溢れ出した。


「ちょっ、ちょっと花梨!? 泣きすぎだろっ!? そんな泣かなくても……!」


 狼狽える快斗の腕の中で、花梨はただ声を殺して泣き続けた。
 首元で輝くシトリンの重みが、今は何よりも重く、そして温かい。

 人身事故で停車した列車の静寂の中、二人の想いは激しく絡み合い、互いの胸に伝わる。
 「ずっと生きてろ」と願う快斗の執念と、「もうすぐお別れ」と微笑む花梨の覚悟。

 二人の心は、どこまでも平行線のまま、決して重なり合うことはなかった。



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