白月の君といつまでも

-- Spring, about 17 years old
171:背中越しの運命







 ……時間は少しだけ遡る。


「フィリップさま……! ってあれ……? フィリップさま……?」


(女王陛下があんなに冷たく接したのは、きっと彼を守るため……)


 追い出されたフィリップ王子を追って、サロン車の扉を開け、連結デッキへ飛び出した花梨は、思わず足を止めた。
 そこにいるはずの、小さな背中がない。


「フィリップさま……?」


 焦燥感に駆られ、次の車両へ視線を向けたときだった。
 客車の通路の先で、トレンチコートを着た大柄な男の隣を、ちょこちょこと歩く金髪の少年フィリップを見つける。


(……その人と、どこへ?)


 二人は談笑しているように見えた。男は優しく王子の肩を抱き、王子はそれに応えるように見上げて笑っている。
 けれど、花梨の胸をざわつかせる“不吉な予感”は、消えるどころか、冷たく膨れ上がっていく。

 二人の後を追って数車両。たどり着いたのは、屋根の上へと続く梯子があるデッキだった。

 フィリップを先に登らせ、男がそれに続く。
 お尻を支えられ、持ち上げられた小さな彼は、あっという間に姿が見えなくなった。
 続けて男もゆっくりと梯子を登っていく。

 男の一歩一歩に不安を覚えながら、二人の姿が見えなくなるのを見送った花梨は、梯子の前で立ち尽くし、冷え切った鉄の棒を見つめた。


「……」


(フィリップさまとあの男の人は、笑顔だった。……でも、どうしよう……イヤな予感がする。……放っておいたらいけない……)


 水曜日に、身辺警護契約は解除してきた。
 権堂も、降谷もここにはいない。

 今、ここで動けるのは自分だけだ。


「……まだ五月だもの……きっと大丈夫」


 花梨は意を決して、小さく震える細い指先で梯子を掴み、夜風の吹き荒れる屋根の上へと這い上がった。









 一方、列車の屋根の上。
 白銀の衣をはためかせた怪盗キッドは、手の中の“クリスタル・マザー”を見つめていた。


「返してよ宝石……! それがないと、ボクの国の人が困っちゃうんだ!! だから返して!!」


 必死に叫ぶフィリップの声に、横目でちらり。
 キッドは背を向けたまま、内心で呆れながらも感心する。


「しかしオメー、よくここまで一人で登ってこれたなぁ……」


(……ったく、こんなとこに来ちまったら、花梨がオメーを見つけられねぇだろうが……まあ、ここは危ないから、来なくて正解だけどな)


 愛しい彼女の心配を横に追いやり、キッドは宝石を月にかざす。
 この中に、不老不死の石“パンドラ”が隠されているのかどうかを見極めるために。


「一人じゃないよ……おじさんに手伝ってもらったんだよ……! キッドはきっとここに来るって言ったら、協力してくれたんだ……」

「おじさん?」

「ホラ、ボクの後ろにいるやさしい――」


 “――ドカッ!!!”


 何かがぶつかったような音とともに、王子の言葉が途切れた。
 背後から放たれた無慈悲な蹴りが、小さな身体を屋根の上に叩きつけたのだ。


「う、うあぁっ……!」


 這いつくばる小さな少年の背を、大きな靴が無造作に踏みつける。


「フフフ……また会えたな、怪盗キッド……」


 低い、砂利を噛むような声。
 闇の中から現れたトレンチコートの男が、手慣れた動作で銃に弾を詰め、不敵な笑みを浮かべた。


(っ、お、お前は……!)


 キッドの顔から余裕が消えた。
 反射的にトランプ銃を構えようとした瞬間――。


 “パシュッ!!”


 乾いた発砲音が響き、手元でトランプ銃が火花を散らして砕け散った。


「くっ……!」


 唯一の武器を奪われ、キッドは凍りつく。
 月光の下、冷酷な銃口が、今度はキッドを正確に捉えていた。

 パシュッ、パシュッ、パシュッ。
 間髪入れずにキッドの足元を狙って、男が発砲する。

 キッドは俊敏な動きで後退しながら躱していくが、男の背後にゆらりと白い影が見え、目を見開いた。


「っ……はっ!?(嘘だろ……やめろって……)」


 次の瞬間――


「ダ、ダメぇっ!!」

「なにィっ!?」


 白い手が、屋根の上に立つ男の、風に揺れるコートに伸び、掴んで思い切り後ろへと引っ張る。
 男はバランスを崩し、尻餅をついた。

 その拍子に男の手から銃は離れ、屋根の上でくるくると踊る。慌てて這いつくばる形で追ったが、銃はあともう少しというところで屋根から落ち、闇の彼方へと消えていった。


「ば、バカッ!! オメッなにやって――!!(花梨っ!!!)」


 キッドの顔が一気に青褪める。
 それはそうだ、男のコートを引っ張ったのは……最愛の人、花梨だったのだから。


「カリンっ!! どうしてっ!? 危ないよ!」

「大丈夫ですかフィリップさま!! お怪我は!? 立てますか!?」

「っ、そ、そりゃ、ちょっとは痛いけど……」

「ここは、キッドさんに任せて逃げましょう!」

「でも――」


 駆け寄った花梨はうつ伏せの王子を起こすが、王子の視線は花梨の頭上を見上げた。
 すぐに黒い影が花梨に覆いかぶさる。

 キッドの視界の端で、花梨の髪が風に揺れ、月光にきらめく瞬間――その美しさに、思わず息を呑む自分がいた。
 こんな状況だというのに、見惚れてしまう自分に戦慄する。


「ぁっ、ぐっ……」

「どこのノラ猫が迷い込んだのやら……」

「ぐっ……あ、……っ!」


 背後から太い腕が伸び、花梨の細い首を無慈悲に締め上げた。
 男は立ったまま、逃れようのない力で花梨を自身の胸へぐっと引き寄せる。


(やめろ、やめろ、やめろ――やめろ!!)


 キッドは一瞬、足を踏み出しかけ――歯を食いしばる。

 花梨の細い喉が締め上げられている。
 頸動脈を圧迫され、いわゆる“裸締め”の状態――火花が散るように視界が揺れ、意識がかすむ。


「……小癪な真似を。おかげで余計な手間が増えた」


 男の低い声が、直接脳を揺らす。
 花梨の足先が屋根から浮き、酸素を求めて、その指先が男の腕を必死に掻くが、鍛え上げられた筋肉は岩のように微動だにしない。
 喉を締めつける苦しさに、白く霞んだ視界の中、金の瞳から涙が勝手にこぼれ落ちていく。

 その光景に、キッドの胸が締めつけられ、苦々しく息を詰める。
 仮面の下の目は必死に花梨を追い、唇がわずかに震えた。


「――やめろっ!! 彼女から手を離せ!!!」


 キッドの、悲鳴にも似た怒号。
 いつも不敵に笑っている彼の仮面が、今、完全に剥がれ落ちていた。


「フン……この女の命が惜しければ、宝石をこちらに渡せ。さもなくば、このままこの細い首を絞め落としてやるぞ」


 男は冷酷に告げ、わずかに腕を動かす。
 花梨は言葉を発することができず、苦しそうに眉をしかめた。


「っ、これはお前たちが探していたパンドラじゃなかった……!」

「なに?」

「……っ、本当だ。さっき月にかざして調べたんだ……」


(頼む、花梨……! オレの、オレの宝石ジュエルに触れるな……!!)


 喉の奥で、快斗が叫ぶ。宝石など、あの子の命に比べればただの石ころに過ぎない。
 必死に表情を押し殺しながら、キッドは続けたのだが――。


「黙れ!! それはオレが調べる!! さあ、さっさと宝石をよこせ!! この女が死んでもいいのか?」


 キッドの言葉に苛立った男が、さらに腕に力を込める。
 月光に照らされた花梨の顔が白く透け、意識の混濁を物語るように、その瞳の焦点がゆっくりと合わなくなっていく――。


「か……ぃ……」


 それは、か細い声が途切れる寸前に起きた。


 “パシュンッ!”


 小さな発砲音。
 そして、次に“ドシンッ!!”という男の身体が崩れ落ち、花梨とともに屋根に沈む音。
 倒れた男は沈黙している。
 男の巨体の下に隠れてしまった花梨は、ピクリとも動かない――。

 ……その少し後方。
 月光を背に、小さな銃を手にしたフィリップが立っていた。



177/196ページ
スキ