白月の君といつまでも1

-- Spring, about 17 years old
167:知らない横顔


「――花梨? サロン車に着いたけど……ぼうっとして、どーした?」

「……へ? あっ、ご、ごめんなさい。お腹が空いて、ちょっとぼーっとしちゃったみたい……」


 快斗の手が顔の目の前で左右に振れて、花梨は目を瞬かせる。
 懐かしい記憶に周りが見えていなかった。

 いつの間にかサロン車の前に着いて、青子が開いた自動扉をくぐり、中へ入っていく。


「はははっ、そっか。じゃあ早いとこ、挨拶を済ませてメシにするか。サロン車なら軽食が食えるらしーしな?」

「うん……」


 笑う快斗を見つめ、花梨は微笑む。

 ……セリザベス女王がもし自分を憶えていたら、どうしよう……。

 快斗には、“親戚”について知られたくない。
 彼とはそういうしがらみを抜きにして、ただの男と女として接したまま、お別れしたいのだ。


(イングラム語でお願いしたら……聞いてくれるかな……?)


 イングラム語は特殊な言語だから、いくら天才の快斗でも、知らないかもしれない。
 もしも女王とフィリップ王子が憶えていたのなら、なんとか誤魔化してみよう。
 快斗が親戚と関わらないでいてくれることが、彼の安全を保証する鍵となるから。

 落ち着いた雰囲気のサロン車内を進むと、花梨の前で青子が足を止めた。その先には、気品と威厳を備えた美しい女性がいた。
 女性の隣には見知った顔が赤い顔で酒を煽っている。
 ……青子の父、中森警部だ。


「ワッハッハ! ヨーロッパの酒は最高ですな陛下!!」

「ホホホ……」


 警備中だというのに、中森警部はすっかり出来上がっている様子。

 青子が「お、お父さん!?」と驚くと、快斗も「酒飲んでやがる……」なんて呆れた顔をした。
 花梨はといえば、快斗の後ろにそっと隠れるようにして顔をうつむける。


「おーーっ、青子と快斗君、それに花梨ちゃんかーー!! 陛下! うちの娘の青子と、友達の快斗君に花梨ちゃんですよ!!」

「まあ……」


 すでに酔っ払いの中森警部が、セリザベス女王に花梨たちを紹介すると、女王はにこにこと笑顔を向けてくれた。


「は、はじめまして女王陛下!!」


 青子と快斗が頭を下げる後ろで、花梨も黙って頭を下げる。


(陛下は憶えてないみたい……? 一度しか会ってないもの。そうだよね)


 女王はにこにこと優しい笑みを湛えているだけで、花梨に気づいた様子はない。
 ほっとした花梨は頭を下げ終えると、念のため再び快斗の後ろに身を隠した。


「どうした? みんなそろって……」

「か、快斗がどーしても陛下に会いたいって……ね!」


 中森警部の問いに、青子は照れた様子で快斗の脇腹を肘で突く。
 急に振られた快斗はジト目だ。


「ウロチョロして警備の邪魔をするんじゃないぞーー!!」

「はーい!」


 ……挨拶を無事済ませ、さあ、次は食事だ――と、元気よく返事した青子に続いて、快斗も花梨もテーブル席に向かおうとしたときだった。


「――Myra…」

「っ!?」


 背後から、銀鈴を転がすような、けれど逆らいがたい重みを持った声が花梨を繋ぎ止めた。

 前を歩く快斗には、それがただの異国の言葉にしか聞こえなかった。
 女王が、気まぐれに誰かを呼び止めただけ――そう思った。

 けれど。

 花梨の足が、止まった。
 一瞬だけ、呼吸を忘れたように。


(……? なんだ?)


 花梨の足音が消えた違和感に、快斗は後ろを振り向く。
 その瞬間、快斗は見てしまった。

 ずっと隣に感じていた“いつもの花梨”の気配が、すっと消えていた。彼女の背筋は、驚くほど美しく伸びている。
 それはクラスメイトや恋人としての顔ではなく、どこか気高い、女王と同じ側に立つ者の所作だった。

 それから花梨はゆっくりと後ろ――女王に振り返り、黙って深く頭を下げる。


『……お久しぶりですわね』


 イングラム語だった。

 女王は微笑み、続ける。
 その言葉の中に、二年前の出来事、白の奇跡、“未来を知っている者の名称”が含まれていることを、花梨だけが理解していた。

 女王が花梨に二言三言、イングラム語で語りかけると、花梨は唇を震わせながらも、懐かしき我が家への敬意を示すような言葉を紡いだ。


「Ithre silan dorath, no varel esthia telin…」
(私たちが知り合いだということは、どうか他の人には内緒にしてください)


 快斗と青子を一瞬見て、たどたどしく語る花梨に、女王は柔らかく微笑み、頷く。


「Silan dorath ithre… ymm, velar esthia.」
(もちろんです、花梨。あなたの思いは守りましょう)


 花梨の目の動きに気づいた女王の瞳は優しい。


「ありがとうございます……」


 最後には二人で微笑み合い、握手して別れた。


「花梨ちゃん?」


 花梨が再び歩き始めると、青子が振り返って小さく首を傾げる。
 花梨は一拍置いてから、いつもの声で笑った。


「えっと……昔、少しだけお会いしたことがあって」


 それだけ。
 それ以上は、何も言わなかった。

 快斗は彼女の横顔を見つめながら、なぜか胸の奥がざわつくのを感じていた。

 ……自分の知らない世界が、彼女の背後にある。
 そんな気がして……。




◇




 花梨たちは女王とは少し離れた席へと着いた。


「はー、緊張したぁ……! 緊張したら小腹が減ってきちゃった。なにか食べよー?」

「ふふふっ、お疲れさま~」


 隣同士座った青子と花梨は、テーブル上のメニューを手にする。
 花梨の向かいには、快斗が黙ったまま腕組みをしていた。

 視線が……花梨に向けられている。


「それにしても花梨ちゃん、女王陛下といったいどこで会ってたの~?」

「ん~……陛下は何度か来日されているから……イベント会場で少し……?」

「なんで疑問形なの……」

「あはは……。まさか憶えて下さっているなんて思わなかったから、実は私も驚いてたり……」

「そうだったんだ。女王陛下、綺麗な人だもんね~!」

「ね~!」


 引き続き、楽しげに「どれにする~?」などと軽食メニューを眺める二人のうち、一人。快斗はじっと花梨だけを見ていた。


「……」


 同じ空間にいるはずなのに、さっきから、花梨が妙に遠い。


(……なんだよ)


 快斗は腕を組んだまま、視線を合わせようとしない花梨を見つめ続ける。

 女王に呼び止められた時のことが、気になって仕方ない。

 言葉の意味は分からなかった。
 ただの外国語だ。
 なのに――。

 花梨が、あんなふうに立ち止まったのを、快斗は見逃していなかった。

 一瞬だけ。
 本当に一瞬だけ。

 花梨は、快斗がまだ一度も見たことのない顔をしていた。


(……オレの知らない、花梨……)


 それはきっと、まだ彼女が打ち明けてくれていない秘密に関係すること……。

 今なら問いかければ、花梨はきっと話してくれる。
 けれど、快斗の喉まで出かかった言葉は、形にならずに飲み込まれた。

 彼女の秘密を知ることは、自分の秘密を話すことと同義。
 それに……なぜか、“聞いたら、何かが終わる”そんな予感がした。



173/200ページ
スキ