白月の君といつまでも

-- Spring, about 17 years old
158:眠りに溶けるぬくもり







 花梨は小さく息をつきながら、ゆっくりと浴槽に体を沈めていく。青い湯に肩まで浸かると、とろみのあるお湯が絡みつくように、優しく包み込む。柔らかく温かい感触が全身に広がった。


「はぁ……あったかい……そして、すっごくなめらか……」


 ラベンダーの優しい香りが鼻先で漂い、思わず深呼吸したくなる。お湯の色が淡く輝き、手でかき混ぜるたびにゆらゆらと光が揺れた。
 肌に触れると、ほんの少し粘り気のあるとろみが心地よく、まるでお湯そのものに抱きしめられているみたいだ。

 花梨は目を閉じ、ゆったりとした時間を楽しむ。
 体の芯から温まり、リラックスした気分に包まれていくのを感じた。

 湯の中で指先を動かすたび、しっとりと滑らかな感触が持続し、自然と笑みがこぼれる。


「……ふぅ、気持ちいい……」


 湯気に包まれながら、花梨は体も心もじんわりほぐれていくのを実感した。快斗が用意してくれたこのひとときが、ちょっとした贅沢のように感じられて、だんだんと瞼が閉じてくる。


 ――あぁ~……♡ このまま死ねるなら、それもいいかもしれない……。


 ぽかぽかと全身を包み込む熱が、天国は意外と身近にあるものなのだと思わせ、勝手に口元が緩んだ。
 そして、またしても寝落ちしてしまった。

 花梨が寝落ちし、しばらくして――。


 “フン♪ フ~ン♪ フフ~ン♪ ……――なぁ……”


(……快斗? 鼻歌、歌ってる、の……? 最後、なんて言ったの……?)


 快斗の鼻歌が、耳元で聞こえた気がした。


(あったかい……)


 なんとなく、臀部に何か当たっているような気もするが、きっと気のせいだ。
 彼の腕に包まれている気がするのも、気のせい。

 ゆらゆらと夢見心地でいる花梨は、快斗が浴室に入って来たことも、浴槽に浸かったことも気づかなかった。


(今日、本当は……快斗に伝えたいことがあったのに……)


 ……でも、今はこのまま。
 彼に包まれていたいな……。


(あ……なみだ……? それとも、汗……?)


 雫が頬を伝っていく。
 もしこれが涙ならば、快斗に気づかれないといいなと花梨は思う。

 かすかに意識はあったものの、花梨が起きることはなかった。

 ……そんな彼女が目覚めたのは、それから一時間経った頃――。


「か~りん、ちゃんっ♡」

「ン……」

「そろそろ起きない?」

「……へっ!?」


 快斗の声が頭上に聞こえて、花梨はぱちっと目を覚ます。
 すると、ミネラルウォーターのペットボトルを手に持った彼が覗き込んでいた。


「あ、起きた。水もっと飲む?」

「もっと飲むって……え?」


 尋ねておいて、快斗はペットボトルを目の前で振って見せたかと思うと、そのまま水を飲み始める。
 “それ、くれるんじゃなかったの?”と、花梨が寝ぼけ眼で様子を見ていると……。


「ン」


 急に唇を奪われ、快斗の口から水が流れ込んできた。


「んっ! ケホッ! ケホッ! な、なんで口移し……」

「花梨、真っ赤になって汗だくだったから、水飲ませた方がいいかなーって思って、飲ませてた」


 快斗に悪びれる様子はない。また水を口に含んで口づけてくる。


「ぅう、ン……」


 ――水くらい、自分で飲めるのに……。


 また寝落ちしたんだなと自覚しながら、花梨は口移しで与えられた水分を摂取した。

 ……それから、何度か口移しで水を与えられた花梨だったが、いい加減、自分で飲めるからと身体を起こし、快斗からペットボトルを渡してもらい、飲み切る。


「ふぅ……起こしてくれればよかったのに」

「今、起こしたじゃん♡」

「……」


 悪びれない彼をじっと見つめると、快斗がわずかに眉を八の字に下げた。


「ごめんな、花梨の寝顔がすげえ幸せそうでさ。起こすのが忍びなかった」

「しあわせ……?」

「ん? ああ、幸せそうな顔してたよ。花梨が幸せそうな顔してると、オレも幸せな気持ちになるんだ♡」

「快斗……っ……」


 とろけるような微笑みを浮かべる快斗に、花梨の息が詰まる。


 ――今夜、本当はあなたに、話さなければいけないことがあったのに……。


 そう思っていたのに、それ以上言葉が出てこない。
 今は言いたくない――と、頭が拒否して、花梨は話すチャンスを逃してしまった。


「花梨……のぼせたみたいだけど、大丈夫か? オレがもうちょっと早く風呂から出してやれば、あんな茹でダコにはならなかったと思うんだけど、ごめんな」


 快斗の話によると、彼も一緒に風呂に入ったらしい。

 浴槽でまったりしすぎて、花梨の身体が真っ赤になっていることに気づいたのが遅かったそうだ。
 花梨はまったく意識がなく、ぐっすり眠っていて、全身真っ赤なわりに気持ちよさそうだから、そっとしておいたとのこと。

 ……夢うつつのあれは現実だった。
 花梨には、うっすらとだけだが、彼の感触が残っている。


「……運んでくれてありがとう。着替えまで……」

「う、うん……」


 よく、パジャマがどこにあるかわかったなぁと思いながら、花梨がお礼を言うと、快斗はぎこちなく頷いた。
 その反応になんとなくピンときて、花梨は――。


「……えっち」

「うっ! なんでわかった!? ちょ、ちょっとだけだよっ!?」


 ジト目で見ると、快斗が慌てだす。
 いったい何をしたのかは知らないが、彼の慌てっぷりを見れば何かしていたのは一目瞭然。
 深掘りしたくない花梨は、それ以上訊かないでおいて、じっと快斗を見つめた。


「うぅ……オレはただ、花梨ちゃんの手入れをしてあげられて、幸せだな~って思ってただけだって」


 ……花梨が何も言わずとも、黙って見ていれば彼は自白してくれる。


「……手入れって?」

「保湿もばっちし♡ お肌スベスベでしょ!?」

「……確かに、すべすべだけど……?」


 笑顔の快斗が指先で、頬をつんつんと優しくつついてくるので、花梨はなんとなく反対の頬に触れてみた。

 ……触った感じが、なんだかもちもちしっとり、それでいてすべすべしている。
 どうやら彼は、風呂上がりの肌ケアまでしてくれたらしい。


「たまご肌は、一日にしてならずだよな~っ♡」


 そう言って、快斗は両手をサッと挙げた。と思ったら、次の瞬間、“ぱっ”と化粧水と乳液のボトルがそれぞれ握られている。
 驚いた花梨は目を丸くし、肩を小さく震わせた。


「……プッ! 快斗ってそんなことまでするの~っ? ふふふっ♡」


 少し間をおいて、花梨はおかしくなって笑いだす。
 寝ている間に、そんなことまでしてくれているなんて思わなかった。


「へへへっ♪ 花梨の世話すんの、好きなんだよ。参考になるし」

「参考?」

「変装のさ。ほら、女の子に変装する時とかな? やっぱ、生身の女の子に触ると、リアリティーのある変装ができるっていうか……」

「ふぅん……?」


 ――快斗って、えっちなだけじゃないんだ……。


 いつの間にか変装の参考にされていた事実に、花梨は感心して何度か頷く。
 役に立てているなら、“まあ、それもいいかな”と思った。

 ところがそんな花梨の様子に、快斗が慌てだした。


「っ、ホントだって! オレが女装上手くなったのって、花梨のおかげなんだからなっ! 今度、初期の女装写真見せてやっから、最近のと比較してみなよ! レベチだからな!」

「今度……」

「本当だって!!」

「あ、うん」


 恐らく彼は、花梨が気分を悪くしたと勘違いしたのだろう。
 もちろん、お触り目的もたぶんにあったとは思うが、別に花梨は不快に思ったりはしていない。

 ……快斗が花梨に触れてくるのはいつものことである。
 起きていたら照れてしまったと思うが、眠っている間にされていたことはもう、過ぎたこと。

 花梨は、過ぎてしまったことを気にしたりはしない。
 きっと、変なことはしていないだろう……と思う。

 それほどに、快斗のことは信用しているのだ。


 ――変装の見比べ、したかったな……。


 不安そうに見つめてくる快斗に、花梨は笑顔を返した。










「そういや、明日の準備って終わった?」


 ベッドから、部屋の隅に置かれた旅行かばんに目をやる快斗が尋ねる。

 明日は、学校が終わったら大阪へ――。

 一応、荷造りはしてある。
 ……というのは、元々花梨も大阪に行く用事があったからだ。


「ん? あ、一泊するんだよね?」


 背を向けて横になっていた花梨が、振り向いた。


「そっ! 部屋、一緒じゃねーけどな~」

「ふふふっ♡ だね」


 不服そうに快斗が頬を膨らませている。
 そんな彼に、花梨はにこにことはにかんだ。


「あとで行くから入れて?」

「だめ~」

「えー、別にいいじゃん。こっそり行くからさ」

「だめ~」

「ええ~~!? 花梨ちゃ~ん、オレたちの仲だろ? そりゃねぇよ~」

「ふふふっ♡ おやすみ~」


 快斗は明日、こっそり部屋を抜け出し、花梨の部屋に忍び込むつもりでいるらしかった。
 花梨は首を何度も横に振って拒否し、最終的にまた彼に背を向け目を閉じた。


「つれねぇなぁ~……そんなとこも好きだぜ、花梨♡」


 ちゅっと、後頭部にキスをされ、そのうち快斗の腕が、花梨の首の下に差し入れられる。
 そして片腕にぎゅっと引き寄せられ、抱きしめられて少し経つと「ぐー」という寝息が聞こえてきた。

 ……彼の腕が、花梨を守るように包み込んでいる。

 ホテルの部屋は、花梨が予約した。
 二人分の予約を頼まれたが、一部屋はキャンセル。

 取ったのは、快斗の分の一部屋だけ。
 花梨はホテルに泊まるつもりはない。


「……っ……」


 まぶたを閉じたままの花梨の瞳から、涙がひと筋、こぼれ落ちた。



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